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川が好き。山も好き。
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毎週楽しみに観ていたドラマ『少年寅次郎』が最終話を迎えました。映画『男はつらいよ』の主人公・寅さんの少年時代の物語で、主人公は育てのお母さんです。映画の方とは少し設定が変わっていたのかもしれませんが、おもしろかったです。なにより、幼年時代、少年時代の子役の子がかわいい。この子が大きくなって寅さんになるんだ、というのが自然に受け入れられるような雰囲気で好演でした。
 物語が昭和11年から始まったので当然の流れとして、第3話あたりで昭和20年8月を迎え、玉音放送が流れてきました。まただ、と思いました。少し前に大河ドラマの『いだてん』でも玉音放送を聞きました。その前に昼ドラの『やすらぎの刻~道~』でも玉音放送を聞きました。

 そんなにたくさんの連続ドラマを観ているわけではないのに、それほどの時期をおかずに玉音放送を続けて聞いたのが、自分でも少し気になりました。戦争特集の多い夏に観た単発ドラマでも聞いたかもしれないし、ドキュメンタリーを入れればもっと聞いたかもしれません。

 テレビで聞く玉音放送はほとんどが「耐え難きを耐え~忍び難きを忍び~」という一節ですが、8月に映画館で観た『東京裁判』では冒頭で全文が流れました。全文を聞いたのは初めてです。なんだかとっても難しい文章だったのですが、当時リアルタイムでラジオから聞いた人は理解ができたのでしょうか。少なくとも無学なわたしの祖母はわからない気がします。父方の祖父や同居していた大伯父など、戦争に行って帰ってきた人が存命だった頃にいろいろ話を聞いておけばよかったなあとも今になって思うのですが、子供の頃は戦争の話は怖くて積極的に聞こうという姿勢にはなれませんでした。また、家には戦死した兵隊さんの遺影があるので、子供心に察して遠慮していたようなところがありました。兵隊さん、なんて言っていたけれど、わたしと血の繋がりのある人なのだと思えば、なにか大切なことを通り過ぎてしまったような気もするのでした。
 『東京裁判』は冒頭で玉音放送が流れたあと、『昭和萬葉集』より土岐善麿などの短歌がいくつか流れました。こういったドキュメンタリー映画の中で短歌の朗読が挿入される、ということも興味深いです。どうして短歌なのか。どうしてわたし達は短歌を詠むのか。
 5時間くらいあったので体も心もどっと疲れましたが、観てよかったと思いました。観る前まではA級戦犯が誰なのかも、靖国参拝がどうして問題になっているのかもよくわかっていなかったのです。なにかを深く理解したとか、思想が大きく変わったとかいうわけではないですが、事実としてあったことのそのままの映像を観た、というのがよかったです。12月にも再上映されるそうです。

 そういえば、祖母から戦時中のエピソードを一つだけ聞いたことがあります。群馬県の落下傘工場で働くことになり、少女だった祖母はどうも罪を犯してきたようなのでした。

  落下傘工場で絹糸一つくすねてきたと祖母舌を出す

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9月号を読みます。敬称略です。

  ひたぶるに鍬を振りゐる友の見ゆ手さへ揚げずて今日は離りき  尾形貢

 「今日は」なのでいつもは挨拶してお話に興じたりするのでしょうか。手を上げるのも躊躇われるほどの農作業の様子が目に浮かぶようです。

  雨の日は畑に出でず機を折る母にとっては休息なりき  大久保明

 機を織ることが休息だという心根に胸を打たれる。根っからの働き者のお母様なのでしょう。余談ですがわたしの母は家で祖母と居るのが嫌で畑に出てゆきます。

  母、舅、見知らぬ老女となるにつれ私の声は遠くてやさしい  佐原亜子

 この下の句はわかる気がする。心を離れてよそ行きの声になってゆく自分の声、「やさしい」と自分で言えるのも客観的な視線を自分に向けているからなのでしょう。

  歌会への途中に大蒜出荷して市民プラザの会場に着く  別府紘

 歌会へ行くついでに市場へ寄る、というのが有意義な一日でいいなと思いました。一つ前に<大蒜を五袋荷せば賄える塔今月の歌会の会費>という歌があるのもおもしろくて。歌会に出るお金がないので大蒜を売ったわけではないのでしょうけれど。

  小さき服用意して待つ日々の中振り返ること少なくなりぬ  魚谷真梨子

 過去に目が向くのはあまり心の状態が良くない時らしいので、これはすごく健康なことなんじゃないかなあと思いつつ、振り返る暇もないくらいに前へ進むしかない日々というのも伝わります、小さき服。

 コンビニでチキンをひとつ買うほどの値段なり旬の飛魚の五尾入り  株本佳代子

 タンパク質を摂取するとしたら、やっぱりここは旬のものをいただきたい。しかも旬のものは安い。数字の対比もわかりやすいし、カタカナの無機質な印象に比べれば「飛魚」の字の躍動感のなんて美味しそうなことか。

  子のなくば「ばあば」と呼ばれる筋はなく和佳ちゃんあなたは私の友達  大谷静子

  有紗にはおばあちゃんはいないと言う ばあばと呼ばれる吾は友達か  日比野美重子 

 この二首はそっくりなのですが、立場が違って内容が真逆なのが興味深いです。和佳ちゃんはある年代の女性をみんな「ばあば」と呼んでしまうのでしょうか。有紗ちゃんは「おばあちゃん」という続柄がまだわかっていないのでしょうか。どちらにしても無邪気で愛らしい。

  駅を出て徒歩七分とう歌会に信号待ちを二回して着く  須山佳代子

 そのままの歌なのでしょうけれど、こういう何気ないところで立ち止まって歌に詠めるのがいいなあと思うのです。七分という微妙さは五分以上はかかるけど十分はかからないかな~ぐらいの設定なのでしょう、おそらく信号待ちの時間は含まずに。

  藤棚の下で安らぐ老人に添い寝している村上春樹  山田精子

 作家の村上春樹氏が老人にぴったり添い寝している光景を思い浮かべてシュールな気分になりましたが、人ではなく村上春樹氏の著書が読みかけのまま置かれている状態か、あるいは幻が見えたのか、想像が広がります。

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朝起きたら、昨夜の大雨が嘘みたいに晴れていました。台風はすっかり過ぎたみたいです。わたしは幸い自分の体がずぶ濡れになったぐらいで済みました。とはいえ、各地の被害状況などをニュースで見ると胸が痛みます。

 昨日は仕事でした。前日には「無理をして出勤しないように」という連絡がありました。実際に、交通事情で休みの人や、運休時間前に早退して帰宅する人もいましたが、わたしは特に影響なさそうなので予定通りに出勤です。朝はそんなに雨も降っていなかったので、少し甘く見ていたのもあります。仕事中に、翌日の歌会の中止のメールが来ました。残念だけどしょうがない。
 ほぼ定時で仕事をあがり、雨の中を10分ほど歩いて駅に着くと、バス停は閑散としていました。街中だというのに、デパートもドラッグストアも早々と閉店しています。いつもより薄暗い街に、バスの灯りが煌々としていました。

「ただいまー。雨すごいよー。わたしともう一人と運転手さんしかバスに乗ってなかったよ、こんなの初めて。街も暗くて、みんな休んでるのに、こういう時って運転手さんは大変だよね。レインシューズ履いてったけど、道路も水浸しでもうだめ、靴下もびちゃびちゃ。傘も全然役にたたなくて、早く着替えなきゃ風邪引いちゃう。あ、ベランダの桃の鉢も部屋に入れててくれてありがとう。え、お風呂沸かしてくれてるの? ご飯もできてるの? やったー!」
 、とかなんとか帰った時にこの状況を分け合える相手がいたらいいのになあと思うけれども、一人暮らしなので昨日作っておいた親子丼とわさび菜とツナのサラダを冷蔵庫から出して食べました。するうち実家の母から「停電になった、あ、点いた」と電話が来たので、こっちもこれから停電するかもと思い、備えの確認をしました。懐中電灯も、LEDのランタンも、ろうそくも、カセットコンロも、非常用トイレも、なんだかんだで揃っています。震災の時に揃えてリュックに詰めていたのでした。

 雨風の音はどんどん強くなってゆきました。サイレンは聞こえるし、携帯電話に不安を煽るような音で市からの避難指示や避難勧告が何度も届きます。テレビの台風情報で各地の被害状況を見るにつけ、あの人は大丈夫かな、この人は大丈夫かな、と心配になりました。
 けれども、心配だからといって連絡をして向こうの携帯電話の電池を消耗させてしまったら申し訳ないという配慮が先立ちます。停電して充電ができないような状態だったらわたしとのやりとりよりもっと大切な人にその貴重なエネルギーを使うべきだし、わたし以外の人からたくさんの心配の連絡が来ていて連絡に追われて大変かもしれない、家族など大切な人と身を寄せ合っているところに水を差すかもしれない、などと思いめぐらせ、結局は今は遠くから祈るのみにとどめました。
 言葉で伝えてはいないからといってなにも思っていないわけではなくて、案じています。みなさん無事でありますように。

  言葉ほどあてにならないものはなくそれでも言えばよかった言葉

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10月になってしまいました。8月号を読みましょう。そして9月号も読み終えておりますので近々。敬称略です。

  しまらくを迷ってプリンを買わざりきこうして四十年を過ごした  高橋武司

 本当にプリンを買わなかったのかもしれないけれど、プリンそのものへの執着というより、プリンのような買おうと思えばいつでも買えるような些細な物を買わないできてしまった生き方への自問の歌だと思いました。下の句の句またがりと口語が印象的。

  早苗とか佳苗とかいう名の友達が教室にいた昭和の頃は  山西直子

 わたしの同級生にも早苗ちゃんがいました。他にも耕、実など豊作の祈りを込めた名づけが、農家には確かに多いとあらためて気づきました。家業にちなんだ名づけも、農家も、時代の流れと共に少なくなっているのでしょう。

  それぞれの家に継がれし被爆記を内に秘めおり長崎の人は  北辻千展

 長崎といっても長崎全てが一緒ではなく、それぞれに物語があるということ。それを表沙汰にはせず内に秘めているということ。長崎という地名が、実際に長崎なのでしょうけれど、長崎なのが良いです。

  小さくてすぐにふさがる傷なれど痛みに夜を明かすことあり  佐伯青香

 実際にケガをしたのかもしれないけれど、心の傷のようにも読めました。「すぐにふさがる」という断定がなにかせつない。たいしたことない、すぐ治るってわかってても、痛いものは痛い。 

  腰痛の検査で癌がわかったと山の友達いつも前むき  林都紀恵

 重い内容を率直な言葉で詠んでいますが、友達のキャラクターに合っていると思いました。下の句が3・4・3・4と調子が良くて山登りの足取りのようです。

  菜の花のごとく明るくふるまって年度当初をしのいでおりぬ  垣野俊一郎
  
 お仕事の歌でしょうか。上の句の比喩に惹かれました。確かに春のどの花より菜の花が一番明るくてまぶしい気がします。花びらの薄さなども思いました。

  指先より老いは始まるとう指先に春を触れたり木の芽を抓みぬ  山本建男

 人間の老いと、これから育ちゆく自然との命の対比。出荷や料理のために木の芽は抓まれるのでしょうか。「指先に」「春を」と助詞の使い方がおもしろいです。

  次女の夫はオーママと呼び長女の夫はお母様と我を呼ぶなり 小川玲

 呼び方一つにも人柄が表れます。姉妹でも男性の好みはそれぞれ。しっかり者の長女は真面目な人と、のびのび育った次女は気さくな人と、似た者同士で結ばれたのでしょうか。当事者でありながら観察に徹しているような詠いぶり。

 新元号の歌の他に、円空仏の歌が多いように感じたのですが、なにか円空仏が世間の話題になっていたのか気になりました。時事詠の競演も結社誌のおもしろさだと思います。



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少しずつ、8月を振り返ってみたく思います。

 お盆の頃に、小学校の同窓会に行きました。10年くらい前にも案内が来ましたが、返信しませんでした。その数年前の成人式すら出ませんでした。理由はたった一つ、会いたくない人がいたからです。
 小学校の頃に別に仲良くもなかった人が、中学校で同じクラスになり、クラス中にわたしの悪口を吹聴するようになりました。わざと聞こえるように言われたこともあります。誰もかれも、声の大きいその人に流されているように思えました。尤も、わたしにも嫌われる要因はあったのでしょう。性格もひねくれていたし、身なりもみすぼらしかったような気がします。同じクラスには、目に見えてもっと派手にいじめられている人がいたので、先生の問題意識はそのわかりやすいいじめられっ子の人にしかなく、わたしのことは気づいていないようでした。別なクラスに「気にすることないよ」と言ってくれる友達がいても、部活が楽しくても、多感な年頃で、しんどい2年間でした。

 救いは、成績が違っていたので、高校が別々になったことでした。けれども、嫌われる自分であるという意識はこの頃から今に至るまでずっと消えず、人に対して警戒したり不安を覚えたりしてしまうし、自己肯定がうまくできないという典型的な後遺症が続いています。自分に好かれても迷惑じゃないかという慮りが先立ち、男女問わず、誰かに好感を持ってもそれを伝えるのは苦手です。

 同窓会に行こうと思ったのは、小学5、6年の担任だった先生の定年祝いという名目だったからです。先生にはお会いしたいと思いました。先生には、小学校卒業後も何度か年賀状をいただきました。集まりが悪いと聞いていたので、会いたくない人も来ないかもしれないと期待しました。もし嫌な思いをしても、それもまた人生だろうという変な開き直りもありました。

 少し歩いただけでも汗だくになるほどの当日、地元の商店街の宴会場に着くと、もうほとんどみんな席に着いていました。集まりが悪いと聞いていたから5~6人くらいしかいないのでは、と予想していたのが15人以上は出席なのでした。全員集まっても27人なのだから、それなりの出席率です。中には保育所から高校まで一緒だった人もいますが、さすがに20年ぶりともなれば誰が誰だかよくわかりません。
 名札を付けて席のくじを引くと、乾杯の係に当たっていました。「乾杯!って言うだけでいいから」と促され、これもまた人生と思い引き受けます。幹事さんによる開会の言葉の後にその役目は回って来ました、突然のことで気の利いた言葉も浮かばず、挨拶もそぞろに「乾杯!」とコップを掲げました。
 会いたくないな、と思っていた人も来ていました。わたしにした仕打ちなんてなかったかのように「久しぶり!」「中学の時も同じクラスだったよねぇ!」なんて言ってくるので、わたしは「え~? 覚えてない~」と何度も笑ってすっとぼけるのでした。

  「食物」の教科書われにゆずりたる同級生のその後を知らず

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9月号が届く前に7月号を読みましょう。塔新人賞・塔短歌会賞もとても良かったです。敬称略です。

  描きしのちママレードにする夏蜜柑皮の厚さがまこと頼もし  石井夢津子

 絵に描いた後にジャムにして、そしてこうして歌にもなる夏蜜柑の皮なのです。本当に頼もしい。物を大切に無駄なく使うのが素晴らしいです。

  父九十、母八十八、叔母八十七、三人揃つて冬を越えたり  豊島ゆきこ

 この歌はなんといっても「叔母」の登場に奥行きを感じます。老夫婦の冬に、そのどちらかの妹一人の加わる事情など、書かれていないところでいろいろな背景があるのでしょう。

  子育ては楽しいですか幾たびもアンケートにははいと答える  矢澤麻子

 風炎集の「青鷺」から。六歳、二歳、十二歳の登場する子育ての連作。お子さんの分だけアンケートの機会も多いのでしょうけれど、こういう質問があるということに、「楽しくない」と答える人もいるのだという事実が浮かび上がり、様々な社会問題なども想起されるのでした。

  とむらいの旅の帰りは菜の花も桜も富士も全部悲しい  加藤武朗

  お友達への挽歌の一連から。明るく色彩豊かな春の景色が映像として浮かんだ後に、じわじわ滲んでゆくような読後感です。

  母と寝る権利を求め争いて敗れし下の子我と寝るなり  井上雅史

 結句まで読んで露わになる家庭内の上下関係が悲しくも可笑しい。「権利」など硬い言葉や文語で仰々しく詠まれているからこそ、なおさら。

  この街で南を向けば見える山 鼓ヶ岳がわたしのふるさと  櫻井ふさ

 この街で何かつらいことがあっても、南を向けば見えるふるさとの山を心の拠りどころにして生きてきたのでしょう。固有名詞も効いています。啄木よろしくふるさとの山はありがたいのです。

  痛む背に夫の指が行き来してそのあとすうつと睡りに落ちぬ  石川泊子

 痛いの痛いの飛んでけ~みたいなことでしょうか。安心感が伝わります。そしてどことなく官能的。「手」ではなく「指」だからかも。

  扉を叩く老人たちは開店を今より早くしろと言いたり  大橋春人

 開店を早くするためには、従業員の労働時間が長くなるなど負担を増やさなければいけないのですが、お客様は自分の都合しか考えてないのでしょう。扉を叩く行為や命令形の物言いに、自己中心的さが伝わります。カスタマーハラスメント。

  本当は抱きしめたきを孫四人の父方の祖母にゆづりて眺む  栗栖優子

 こんなに自制の効いて切ない孫歌は初めて読んだような気がします。心のままに抱きしめてもいいんじゃないかと思ってしまいますが、家と家とのお付き合いで立場などいろいろあるのでしょうね。

  広島平和記念資料館本館にリニューアルオープンとふ明るき響き  永山凌平

  内容にもハッとしますし、漢字の羅列の後にカタカナという字面が効いていると思いました。声に出して読んでも「ニュ」「ー」「プ」などの響きは特に明るくて。

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10日ほど、体調を崩して寝込んでおりました。8月は同級会で地元に帰ったり、5時間ほどの映画『東京裁判』を映画館に観に行ったり、塔の全国大会で京都に行ったり、お盆休みのない中をなんとか休みをやりくりしていたので、疲れが溜まっていたのかもしれません。夏の間、職場の冷房が効き過ぎていて寒いくらいで、外との寒暖の差にもやられている気配はありました。それまで張りつめていたのか、一旦崩れるとぐずぐずみたいで、早く本調子に戻りたいです。

 職場に欠勤の連絡を入れると「病院に行ってくださいね」と言われますが、40℃の熱があってふらふらでただひたすら寝てたいのに身なりを整えて外出なんてできないよ、と心の中で思います。救急車を呼んだり、タクシーを呼んだりすればいいのでしょうか。よっぽど命に係わる重病ならともかく風邪で救急車なんてと、やっぱり躊躇します。寝てれば治る、との思い込みも強いのかもしれません。
 一人でぐったり寝ていると、何十年もの時が経って今の自分はおばあちゃんなんじゃないかと錯覚してきます。おばあちゃんになってもわたしはこんなふうに、熱がある時でも自分でおかゆを煮るために台所によたよた立つのかもしれない。おばあちゃんになってもわたしは食材入れにいつか買っておいたポカリスエットの粉を見つけて、「ああ外に買いに行かずに済んでよかったなあ」って麦茶用のポットに菜箸で溶くのかもしれない。熱に浮かされて、わたしはわたしの思い描く未来へタイムスリップをしているのでした。

 数日して落ち着いてから医者に行きました。飲み終わる前に治ると思うけど、と5日分の薬を出してもらいました。飲み終えても声がかすれたままです。このままハスキーボイスになったらどうしよう。とりあえず、「ボヘミアン」でも歌おうかと思います。

  医者へ立つ気力なければ発熱の日々を一人で寝て過ぎるなり

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京マチ子映画祭を観に行ってきていたのでした。ほんとうは『羅生門』とかもっといっぱい観たかったのですが、休みの都合などもあり、とりあえず2本です。

『流転の王妃』1960年公開。監督は田中絹代さん、出演は京マチ子さん、船越英二さんなど。原作は愛新覚羅浩の自伝。満州国の皇帝の弟・愛新覚羅溥傑と結婚し、終戦後に流転の日々を送った日本人女性です。学校の授業でも習った覚えがあるので歴史の人のような印象でしたが、わたしと生きている時代が重なっていたりして、そんなに遠い昔じゃないということに今さらびっくりしました。
 脚色が入っているとはいえ、実際にあったことなので、歴史のお勉強のように興味深く観ました。満州という国があったということを、いろいろ考えてみたい気がします。節子皇太后がシルエットでもなく普通に登場人物として顔まるだしでべらべらしゃべっているのが結構びっくりしました。天皇皇后と同じくらい皇太后の存在感のあった時代なのだなあ。王妃時代のゴージャスな衣装が京マチ子さんにとても似合っていました。 

『赤線の灯は消えず』1958年公開。監督は田中重雄さん、出演は京マチ子さん、野添ひとみさん、根上淳さん、船越英二さんなど。音楽は次の次のNHK朝ドラの古関裕而さん。福島歌会に赴くたびに駅前の古関裕而像を見ているので気になる存在になってしまった、これがいわゆる単純接触効果というものなのでしょう。
 売春禁止法が施行されたため、売春婦達が就職活動をする話。これもやっぱりわたしが赤線が廃止されている時代に生まれているので、歴史のお勉強のように観てしまいました。ナレーションが独特なせいもあるかもしれません。この時代の女性がこういう仕事に墜ちてしまうのには、人身売買のようなどうしようもない背景があったのでしょうか。まっとうに生きようとあがいてもあがいてもうまくゆかない様がとてもくるしい。世間の目も冷たいものです。まるで人権がないかのように扱われている場面はとても悲しく見えました。
 ハンカチで汗を拭くしぐさがとても印象的でした。顔だけじゃなく首やデコルテを拭くシーンが何度も出てきます。暑い日本の夏です。

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短歌総合新聞『梧葉』夏号(62号)現代作家新作5首に、連作「ビンゴ」を掲載していただきました。お読みいただければうれしいです。

 「旅の歌」で木ノ下葉子さんが書いてらっしゃる地域が、わたしの地元の中でもごく地元なので郷愁をそそられます。田んぼと祖母はわたしにとっても原風景なのだなあとつくづく思いました。

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あああ8月になってしまいました。6月号を読みます。

  山の下りは走っておりた四人家族そんな元気な遠い日のこと  角田恒子

 登山か、山の方に家があったのでしょうか。いくら下りで上りより楽とはいえ、ほんとうに元気。過去形のためか、家族四人が元気に山を走っている光景を思い浮かべると、なんだか泣きたいような気持になりました。

  おばあさんがぶらんこしてると言われたりあぁ私はおばあさん  林田幸 

 少女のような心地でぶらんこに乗っていたら、無邪気な声に見つかってしまったのですね。他人に指摘されるとあらためて自覚させられる感じでしょうか。「あぁ」の小さい「ぁ」が視覚的にも効いていて、結句の字足らずも力が抜けるようです。

  幼き日インコを葬りし庭先を不動産会社が明日買いに来る  大江いくの 

 子供の頃の思い出が眠る庭を手放す時。三十一文字なのに文字数以上の物語が見えるようです。一首の中でこんなに長い時間とドラマを詠えるのだなあ。買い取る側からしたら骨が出てきたら少しホラーかも。

  むずむずと気孔をひらく山毛欅の森こころのように春がざわめく  星野綾香

  風炎集「春のざわめき」から。震災が背景にあるからこそ春の描写の沁みる一連でした。この歌は下の句の比喩にとても惹かれました。「~のようなこころ」というのはよく聞きますが、逆はめずらしい。そして妙に納得させられてしまいます。

  五画目を書くまではまだわからない 春だと思う? 寿司だと思う?  拝田啓佑 

 正解はどうでもよくて、この会話や、会話の相手とのじゃれ合い感を味わう歌なのでしょう。独り言の可能性もないわけではないですが。「春」と「寿司」の取り合わせも良くて、特に「寿司」に人間臭さを感じます。

  よき人は逝くほんとうにやさしいよき人は逝くのだ妹よ妹よ  松浦哲
 
 涙でぐしゃぐしゃになっているような詠いぶり。整えようとすれば整えられそうですが、このままがきっといいのでしょう。「よき」なので「やさしき」でなくてもいいのかとか気になったりもしますが、結句のリフレインとか、もうたまらないのでした。
 
  「ほいじゃあねー」と祖母はいつも手を振った ほいじゃあねーで棺桶を閉ず  瀧川和磨 

 他の歌から挽歌だというのはわかるのですが、それでも和やかな雰囲気からの結句でびっくりしてしまう。最期のお別れもいつもと同じように、ということでしょうか。方言がいいなと思いました。

  娘婿の送りの車の早く着き一本前の電車に乗れり  平田優子 

 お嬢様の婚家に赴いたところ、帰りにお婿様が駅まで送ってくれたという、そのままの歌だと思うのですが、こういう些細なところで立ち止まって歌に詠めるのがいいなあ。一本前の電車の電車に乗れるというささやかな喜び。良好な関係性もうかがえます。

  六十年経ちて黄ばみし家計簿は花十円で始まりており  清水千登世

 新生活が始まって一番最初の支出が花だということがすてき。当時の物価で十円の花がどれくらいなのかはよくわかりませんが、十円というささやかさもいいです。贈り物というよりは、自分の暮らしを彩るための花と読みました。 

  サビじゃないところはじめて聴いたけどやっぱお前の好きそうな曲  長谷川麟 

 「やっぱ」というほど相手の好みのをわかっているという関係性。口語体も歌の内容に合っています。おそらく作者はこういう曲が好きではないのでこれまでサビしか聴いたことがなかったのだと思いますが、他のメロディに対してこういう思いを持つこと、歌に詠むことが美しいなと思いました。うまく言えないのですが。

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プロフィール
HN:
おとも
性別:
女性
自己紹介:
短歌とか映画とかこけしとか。
歌集『にず』(2020年/現代短歌社/¥2000)

連絡・問い合わせ:
tomomita★sage.ocn.ne.jp
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