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川が好き。山も好き。
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夕飯はもやしと豚肉を炒めてポン酢でもかけて食べようかな、と思って野菜売り場へ赴いたらもやしが売り切れでした。このところ卵や乳製品を筆頭に値上げ続きで、もやしのように安くてボリュームのある食材はありがたい。考えることはみんな同じなのでしょう。もやしはこの頃人気です。
 少し前のNHKマル得マガジンでも「もやしでごちそう カサ増しグルメ」というシリーズ回でした。ああもう少し前は同じ枠でアボカドレシピなんてやっていたのに。そのアボカドも昔は100円ほどで買えたのが今は倍の価格になってしまい、なかなか手に取りにくくなりました。マグロの刺身に手が出ないから、代わりに風味の似ているアボカドにしょうゆをかけていたほどだったのに。暮らしが下降してゆき、今までの日常だったものがぜいたくになりつつあります。もともと慎ましくしていた方だけれども、今まで以上に財布の紐をしめなければ。

 今まで以上に財布の紐をしめなければいけないのに、ぜいたくをしました。この春に発売された『朝のあかり 石垣りんエッセイ集』(中公文庫)を買いました。『ユーモアの鎖国』『焔に手をかざして』『夜の太鼓』を底本とし、独自に作品を選定して再編集した一冊です。なにがぜいたくかって、わたしは底本の三冊を既に持っているのです。再編集の一冊に、書き下ろしや未収録作品の収録もありません。再読なら手持ちのものを読めばいいのです。けれども、土筆の描かれた黄色のカバーを書店で見たときに、なにか元気をもらえたような気がしました。思い入れのあった随筆の「朝のあかり」が表題作に選ばれていたのもうれしく思いました。
 夜がきたら、たとえ二つの部屋の片方に家族が集まっていても、あいているもうひとつの部屋を同じように明るくしておきたい。台所も手洗いも、みんな電気をつけておきたい、私は明るさの持つ静かなにぎわいが好きだから。(中略)電灯が宝石のように高価だったら私だって手が出ない。さいわい電気代くらいなら狭い家のこと、全部一晩中つけておいても給料でまかなえるだろう。(中略)「もったいないですって?」一日働いてくたぶれて、あれもこれもしようと思いながら、思い果たさず消し忘れた電灯。「デンキぐらい、なんの楽しみもない私の道楽なのに」と泣き落とした。(後略)/「朝のあかり」
 わたしも朝までずっと蛍光灯をつけています。わたしは一人で過ごす部屋が暗いのが怖いという理由なのでもしかしたら少し違うかもしれないけれど、それでも好きな詩人が自分と同じことをしているという事実に励まされるものがありました。「デンキぐらい、なんの楽しみもない私の道楽なのに」という思いもせつなく刺さりました。
 初読のときは20代だったわたしも、石垣りんが随筆を執筆していた年代にだいぶ近づきました。あの頃に思い描いていた将来からは遠く離れて、今のわたしにより沁みてくる言葉がたくさんありました。この一冊に選定されなかった分も含めて、石垣りんの随筆は折にふれて読み返してゆきたい。また、わたしも文章を書いてゆきたい。ぜいたくしたおかげで、心が奮い立ちました。

  カルピスを牛乳で割るぜいたくを時々はして元気でいます 『にず』

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昨日に続いて花山周子さんの第三歌集『林立』について。

  放り出されてしまったようなわがからだ冬の日差しを吸って軽いな

 もしかしたらつらい歌なのかもしれないけれども、なにか全身で詠っているような伸びやかさ。初句の字余りと結句の口語がきまっています。

  杉山に人は孤独に散らばって文明開化の音を聞くべし

 この歌は声に出して読みたくなる歌。わたしは意味がうまく取れないのですが、映像を浮かべるとなにか見えてきそうな気もするのです。

  国木なき日本にたびたび起こるとうスギを国木にせんという意思

 杉について、日本の歴史について調べてそのように感じたのでしょうか。「たびたび」という言葉選びがおもしろくも深い。

  春になり物差しもわずか伸びていん本にあて本の束を測りぬ

 ほんとうに物差しが伸びているのでしょうか、春の気分がそう思わせているような、叙情的なお仕事の歌です。

  霞ヶ関農林水産省内林野庁図書館へと堅牢な昭和の廊下を歩む

 なんといっても「霞ヶ関農林水産省内林野庁図書館」の固有名詞の力。

  友の子のまた増えにけり生まれた子しばらく抱けり友のとなりで

 「また」というからには3人目くらいか、生む人は少子化とかどこの国の話ってくらい生む。しばらくの間を友の子を抱きながら、何を思ったかを言わないところに余韻があります。

  石切り場の先に墓地ありその奥に火葬場のあり香貫山の麓

 先、奥、麓と順に景が見えてくるにつれ物語も見えてくるというか、人の気配はないのに、人の暮らしや思いがにじみ出てくるようです。

  簡単に手は放されて手は泣けり生きているのが厭だと泣けり

 なんとも不思議な表現なのですが、なにかとてもつらくくるしいということが伝わってきて、手が別人格を持っているというより、もう全身で詠っているような印象です。

  千代田線は常磐線に切り替わり背高泡立草に雨降る

 あとがきにも背高泡立草のことが書かれてあって、おもしろかったのです。何気ない属目詠のようでいて、象徴的な意味が込められているのでしょう。そして東京の路線の味わい。

  弟が出たり入ったりする家の付けっぱなしのテレビの前に父

 ぐねぐね装飾しながら父に着地するのがおもしろく、動の弟/静の父というような対比も。

  正月明けに引っ越したことにも思い及び異様に長き睦月は終る

 新しい暮らしの一日一日が新鮮で充実していたのでしょう。「思い及び」という妙な理屈っぽさ。似たテーマの<春になれば桜が咲くのを知っている目黒川にまず長い冬がある>という歌もあり、こちらは春の待ち遠しさが冬を長くしているようでもあり。

  瓦礫を見んと顔あげるとき海風は向かい風なり目に瓦礫入る

  五月に行った大槌町のことを思う今は秋、既にないだろう瓦礫も

 震災の歌、破調の多い作風ですが、特にこのあたりの歌はもっと言葉を整理してすっきりできるんじゃないかとも思いつつ、やっぱりこの文体によって沁みてくるものがあるのです。

 『林立』は、日常の歌の中に、杉をテーマにした表題作の連作「林立一~七」が制作時期の順に挿入されてくるという構成がとても良くて、一冊通して読むことで深まる感慨というものがあります。現在形の歌の多さも特徴的に思いました。過去の国の政策や歴史も、今と地続きであるという感覚によるものなのかもしれません。ひらめいたことや関心を持ったことにとことん没頭する姿勢や、定型に捉われない歌いぶりなどに、芸術家肌を感じました。

花山周子『林立』
http://www.honamisyoten.com/bookpages/ST201814023.html

ランリッツ・ファイブ
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昨日に続いて、橋場悦子さんの第一歌集『静電気』の感想を書きましょう。

  盗み聞きしてゐるうちに好きになるけなされてゐる知らない人を

 対象の人間性が伝わるほど具体的に貶されていたのでしょうか、悪口とはそういうものです。耳に入るものを真に受けることなく、同情でもなく、自分の気持ちで好意を持つということ、その心の在りように注目したい。

  キャプションに笑顔とあるが私には仏頂面に見える一枚

 この歌も、一首目と同じように、キャプションに流されず、自分の感覚が大切にされています。実際の写真を見てみたくなります。わたしが見たら泣いているように見える、なんていうこともあるかもしれない。

  よく読めばしどろもどろの主張さへ明朝体のもつともらしさ

 見た目で判断せずに、自分で内容を見極める、というのは先にあげた歌とも共通するテーマでしょうか。「しどろもどろ」と「明朝体」の字面の対比もおもしろいのです。

  相手からもわたしが見えるのを忘れひとを見つめてしまふときあり

 座談会で共感するかしないかが分かれるんじゃないかと話題になった歌。言われてみればわたしは違うタイプだな、と気づくのですが、おもしろい歌です。没入した後で自分を客観視しているのがおもしろいのかも。

  男にはわからないわと女ならわかるでせうは少し異なる

 多様性について一時代前を思わせる発言ですが、どちらの声にしても、心を寄せずに「少し」などと言って分析しているのに可笑しみがあります。

  壇蜜は嫌ひではない壇蜜を好きと言ひ張る女が嫌ひ

 壇蜜を好きな自分が好き、みたいなあざとさでしょうか。独自の路線を行く壇蜜さんが自己アピールに利用されるのもなにかわかる気がする。そして彼女もわれわれと同じ年齢なのでした。

  病室でやさしい言葉ばかり言ふやさしいひとであるかのやうに

 相手を慮ってやさしい言葉を言う、ということもやさしさではないかとわたしは思うのですが。「やさしい」のリフレインは結構思いきった表現で効いています。

  ついていい嘘ならいくらでもつくし譲れるものはなんでも譲る

 先の「やさしい言葉」を受けてのこの歌、ではないのですが、一貫した作者のスタンスというものがにじみ出ていて印象に残りました。

  髪を切る決断はすぐ成就する伸ばす決意はさうはいかない

 切ろう切ろうと思いながらずるずる髪が伸びてしまうわたしと全くの真逆なので、新しい世界が拓けたで個人的におもしろかった歌です。「髪」だけでなく、他のことでも当てはまるのかもしれません。

  いくつものルートがあるが乗換へはいづれも二回必要である

 なにか人生の暗喩のようでいて、普通に実感なのだとも思う。というか、実際にほとんどの人が経験したことがあるのではないでしょうか。こういうところで立ち止まって歌に詠めるのがすごいし、「二回」の具体性や、結句の妙な断定口調に味わいがあります。

  ほんたうの真冬であれば真冬並みの寒さとはもう言はれなくなる

 確かに。確かに、以外の言葉がうまく見つからないのですが、好きな歌です。

  刑事より被疑者の署名の字のうまき供述調書もまれにはありき

 先入観や、こうだろう、こうであってほしいとの心の期待の勝手さを正されるような、それでいて実景としてもおもしろい、事実を見つめる一首。

  墓場まで持つていけずにたいていのことは喋るか忘れるだらう

 そうだろうなあ、と納得して笑ってしまう。そのような人を責めるでもなく、許すでもなく、あきらめるでもなく、そうだろうなあという感じの肯定感。

 橋場さんの歌は難しい言葉や、意味の取れない歌もないのでとても読みやすく、そしておもしろい。おもしろくしようとしているわけではなくて、まじめにしていて素でおもしろいのだと思う。定型意識の素晴らしさにも味わいがあります。そして物事についての姿勢も公平というか、なんとなくマニュアルのギアがニュートラルに入っていて手で遊ばせているようなイメージが浮かんできます。そうした作風に、表紙の抽象画が絶妙に合っていて、本のかたちで手元に置いておくのをお勧めしたいです。

橋場悦子『静電気』
http://www.honamisyoten.com/bookpages/ST202014863.html

ランリッツ・ファイブ
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5月15日発行の同人誌『ランリッツ・ファイブ』では、わたしは山川藍さんの『いらっしゃい』の歌集評を担当しました。他の歌集についても、なにか文章にしてみたいという思いと、通販の申し込み期限がもうすぐなので販促も兼ねて。
 あいうえお順で、石川美南さんの『体内飛行』からまいりましょう。

  見入っても石にかはらぬものなれば存分に見る森を入り日を 

 自分のまなざしに不穏な力が宿っているという自己否定感。森や入り日を見つめる時には、そうした自意識から解放感されるのでしょう。

  絵巻物の紫式部小さくて霞は横へ横へ伸びたり 

 気づきの歌。「横へ横へ」の句またがりのリフレインに伝わってくる巻物感。 

  食ひ意地に支へられたる日の終はりどら焼きの皮買ひに神田へ

 どん底にしんどい時は食欲が失せてしまうのです。食い意地という一点で自分を繋ぎとめているぎりぎりの状態が、下の句の具体にしがみつくように詠われています。

  柏餅の餅含みつつ恋人の故郷の犬に吠えられてゐる

 この最低限の言葉選びで季節や恋人と深まってゆく状況、キャラクター性などが伝わるのがすごい。そして「故郷で」ではなく「故郷の」という助詞の力。
  
  ドレスから足を抜くとき上体が揺れて鏡に触れさうになる

 なにげない実景のように見えて、心象のようにも思えます。意味深で、「鏡」もなにか象徴的。わたしはこの歌が一番好きかもしれないです。

  腰に手を当ててあなたは部屋に入る風と光の量を評価す 

 「あなた」という人のキャラクター性と、これから始まる新しい暮らしの明るさが伝わってくる歌。初句は完全に「あなた」が自分の腰に、と読んでいたけれど、作者の腰という読みもあると今気づきました。

  柔らかなミッションとして人間の肌の一部に触れて寝ること

 人に触れることが自然にできる人もいれば、決心がいる人もいて、作者は後者なのだろうと、一首目の歌からも察します。自分の見るものが石になるのだと、視線を向けることも躊躇っていた人だったと思うと、なにか安堵感に包まれる歌なのでした。

  自らの意思ではめたる指の輪が手すりを握るときカンと鳴る

 属目詠として無駄な言葉一つない一首でとても惹かれるのですが、この歌もなにか深読みを誘われます。

  遺言のやうだと思ふ 延々とつづく新婦の、わたしのスピーチ

 直前にお祖母様の挽歌があるから、というだけではなく、婚姻によって喪失するものもあるのでしょう、例えば今までの自分など。この歌あたりの詞書の多さも、なにかごちゃごちゃしている気持ちのようで。

  五音七音整はぬまま寝そべつて妊娠初期といふ散文期

 「整わぬ」と言いながら、初句以外は調子良くまとまっているのがおもしろい。わたしは妊娠したことがないけれども、体に言葉を支配される感じはわかりそうな気がしてきます。

  「予定日まであと何日」を確かめて山本直樹『レッド』のやうだ 

 あまりに不穏な比喩で衝撃を受けました。産まれるまでの日と、死までの日を重ねるような、自分に溺れすぎない客観性に歌は支えられているのかもしれません。

  宿主の夏バテなんぞ物ともせずお腹の人は寝て起きて蹴る

 妊娠初期に比べて余裕を感じる詠いぶり。わが子とのこうした距離感がおもしろいし、実際におもしろがっているのでしょう。畳みかけるような結句が楽しい。

 「ワンダーに満ちた日々の記録」という帯文がすてき。第一回塚本邦雄賞受賞、あらためておめでとうございます。
 この歌集では人生の大きな出来事が詠われています。朝ドラ「スカーレット」では妊娠出産のエピソードが飛ばされて突然成長した息子が出てきたので、一部に不満の声があったとの記事を見たことがあります。その昔、二次創作のBL同人誌を描いていた友人は、男性キャラを女性に変換して妊娠ネタを描いていました。わたしはBL愛好家ではないのでそうしたロマンはよくわからないのですが、他にも様々な事例を通じて、題材として多くの人に好まれ、高品質のものを求められているということを感じています。自身の大きな出来事を作品として昇華させつつ、世の中の期待に応えるという、ものすごく難しいことを『体内飛行』は見事にやってのけていると思いました。
 こうして一首一首取り出して読んでも、いいな、としみじみするのですが、歌集で通して読んだ時の、読み終えた時のカタルシスを味わってほしい一冊です。
 
石川美南『体内飛行』
https://tankakenkyu.shop-pro.jp/?pid=149907690

山川藍『いらっしゃい』
https://www.kadokawa.co.jp/product/321707000970/

ランリッツ・ファイブ
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やっぱり山本周五郎が読みたくなり、ここ最近の気分で『野分』を読み返しました。(結末まで書いてしまいますので未読の方はご注意ください。)

 職人気質の祖父と暮らす下町娘・お紋は、大名の庶子に生まれた若殿・又三郎と心を通わせます。又三郎は町人としてお紋や祖父・藤七老人と人間らしく正直に生きてゆきたいと思うようになります。けれども情勢の変化で父の後を継ぐことになり、残された唯一つの夢としてお紋を妻として貰いたい、と藤七老人に懇願します。
 藤七老人は、又三郎の真意をお紋に伝えず、お紋と共にその地を立ち退いてしまいます。
 ある日、お紋は昔の同僚と再会し、又三郎が(正式にはよそから奥方を迎えなければいけないけれど)お紋を生涯の心の妻と決めて恋しがっている、振るなんてあんまりだと責められます。お紋は「あたし若さまが好きだったのよ、若さまの気持さえ本当なら、お部屋さまだってよかった、一生お側で暮らせるならお端下にだって上ったわ、それなのにお祖父さんはあんなひどいことを云って、あんなひどいことを」嘘をついた藤七老人を問い詰めるのでした。
 藤七老人は、腰から手拭を取り、両の目を押しぬぐいながら云います。
「若さまはいまお糸さんの云う通り仰しゃった、他から奥方は貰うが、身も心もゆるす本当の妻はお紋ひとり、生涯変わるまいと仰しゃったんだ」
「……だがお紋、おらあ考えた、本当の妻になって、生涯可愛がってもらえるおまえは、しあわせだろう、けれどもそれじゃあ奥方になって来る方が気の毒じゃあないか、お大名そだちだって人の心に変りはない筈だ、一生の良人(おっと)とたのむ人が自分には眼も向けず、同じ屋敷のなかでほかの者をかわいがっているとしたら、どうだ、悲しくも辛くもねえか、平気で一生みていられるか」
「そんなむごい、不人情なことに眼をつむる訳にはいかねえ、人に泣きをみせてまで、自分の孫を仕合せにしたかねえ」
 それは、藤七老人の江戸っ子としての意地でした。そうして「……あたしだって江戸っ子だわ」と、お紋は祖父の思いを汲み、又三郎に居場所を知られないようにふたたび引っ越してゆくのでした。

 わたしはこうした山本周五郎の人情ものがとても好きで、初めて読んだ時にはあまりにいじましくて、せつなくて、涙が止まらなかったのを覚えています。ほんとうに、なんてうつくしい物語かと思います。
 ただ、最近になって考えるのは、このような生き方をして、お紋その人はしあわせになれるのだろうか、ということです。物語の主人公ならばこうして読者が心に寄り添うことができます。けれども、生身の人間が、自分の心を押し込めて義理や人情を優先したところで、誰が見ていてくれるでしょう。現実には、他人の事情などお構いなしに誰に迷惑をかけようと自分に正直に生きている人の方が、最終的にはしあわせをつかんでいるような気がします。お人好し過ぎては人生を損してしまうだけなのでは、と、初読の時には芽生えなかった思いが、自分の来し方も振り返りつつ浮かぶのでした。
 『野分』は新潮文庫の『おごそかな渇き』という短編集に収録されています。その中の『将監さまの細みち』も、だめな夫に心身疲弊していたところに真面目で自分を思ってくれる幼なじみが現れて、結局は夫と共に生きることを選ぶあたりがもう山本周五郎で、人間というものがなんともかなしく思われるのでした。

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久しぶりに、山本周五郎「三十ふり袖」を読み直しました。
 主人公のお幸は賃仕事をしながら病身のお母様と二人で裏長屋に暮らしています。不景気で生活が行き詰まっていたところに、近所の飲み屋「みと松」のおかみさん・お松から、常連客である巴屋の旦那の妾の話を持ちかけられます。巴屋の旦那は四十五、六でとても良い人だと言います。
 ――あたしもう二十七なんだわ。
 と、くり返されるお幸の独白がかなしい。江戸時代の二十七は今でいう三十七の感覚でしょう。それでも、わたしがこの作品を初めて読んだ時の年齢が二十七くらいだったので、当時はお幸の心に寄り添うように読んだものでした。
「心を鬼して云うわよ」と、お松は言います。「世間がこんな具合だし、病身のお母さんを抱えていては、お嫁に行くこともお婿さんをもらうこともできやしない。それにあんたも年が年だし、もしかして縁があっても、子持ちの処へのちぞえにゆくぐらいがおちだわ、ねえ、そのくらいならいっそちゃんとした人の世話になって、ゆっくりお母さんにも養生をさせ、あんたも暮しの苦労からぬけるほうがいいじゃないの、世の中には十五十六で身を売る娘だって少なくはないのよ」
 お幸が承知したところで、この話がうまくまとまれば巴屋の旦那から世話料を貰える、それが貰えれば助かるから、心の中ではそれをあてにしていたのよ、とお松は泣き声で白状するのでした。
 ――誰が悪いんでもない、こういうめぐりあわせなんだもの、世間にはもっと、いやな辛いおもいをする人だって、たくさんいるんだもの。
 と、お幸は自分に言い聞かせながらも、自分のことをあんまりかわいそうだと思うのでした。

 完全なる善意から、五十歳近い男性を紹介されることになりました。仲介の知人女性が無邪気に「うまくいくといいな~」とウキウキしている様子に、わたしはどこか傷ついています。わたしが勝手に傷ついています。誰も悪くありません。
 水を差したいような気持ちになり、仲介の女性に、障がいがあってまともに社会生活の送れない弟がいることを伝えました。女性は困ったようになり、しばらく逡巡した後、相手には黙っていましょうと言いました。
 ――あたしもう三十七なんだわ。
「三十ふり袖」のお幸のように、わたしは心の中でくり返しています。

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経過観察中だった検査から半年経ったので、再検査に行ってきました。採血とエコーでした。結果がわかるまで一時間ほど待つということだったので、待合室に置いてある本を読みました。前回の受診時に3頁くらい読んでいた、村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の続きです。

 村上春樹は数年前に当時の同僚さんが『ノルウェイの森』を貸してくれて読んだ程度です。わたしとは別世界のお話、わたしとは相容れない登場人物達といった印象で、それ以降は遠のいていました。
 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、主人公の多崎つくるがある日突然、理由も告げられず友人達に絶縁されたという過去を探ってゆく、という話です。
 理由も告げずに去って行った元恋人が、ハルキストでした。思えばいつかリストのCDを聴いた、あれは作中に出てくる『巡礼の年』だったかもしれません。「愛の夢」も「ラ・カンパネラ」も、一向に流れてこなかったのでした。
 村上春樹の小説はやっぱり別の世界のお話といった感じで、多崎つくるとわたしはやっぱり相容れないのだけれど、多崎つくるが友人達と向き合ってゆくことと、わたしが村上春樹を読むということは、どこか似たことのように思えました。読み進めているうちに、自分を責めていた気持ちが少しほどけてゆくような気がしました。自分の知らされないところで、思いもよらない様々なな事情が絡み合っていることもある、きっとそれは小説の中だけではないでしょう。

 結局、待ち時間内では読みきれず、帰りに図書館に寄って続きを読みました。それでも、図書館の閉館時間がきてしまって読みきれず、途中のまま本棚に戻しました。続きは、またそのうち読みに来ることにします。

 検査結果は前回と特に変わりなく、一年後にまた診てみましょうということになりました。一年後のわたしは、どんなふうに暮らしているでしょうか。楽しく過ごせているといいな。

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阪神大震災から22年が過ぎました。それから、中越地震、東日本大震災、熊本地震、たくさんの地震がありました。東日本大震災を経験してからは、避難所の光景などをテレビで見る度に、あの日を思い出し胸が痛くなります。震災にまつわるドキュメンタリーもできるだけ見ています。

 酒井順子『地震と独身』は、とても印象に残る本でした。独身女性をテーマにしたエッセイに定評のある著者ですが、そんな著者が「ふと思ったこと」を、わたしも震災当初からずっと感じていました。震災関連の報道で取り上げられるのは、家族を亡くした悲しみ、家族との支えあい、家族の物語ばかりということです。子供や高齢者ではない世代の独身で被災した人について焦点があてられることはあまりありません。家族の絆を押し出した方が反響が良いのでしょうか。けれども、一人で震災の日々を生きるという事実は確かにあるのですから、見過ごされがちな独身者達の声に耳を傾けてくれたこの本を、ありがたく思いました。
 東京で過ごした独身で親や子のない著者自身、被災地に暮らして働いていた人、遠方からボランティアに来た人、被災地在住ではないもののもっと遠方へ移住した人、震災を機に結婚をした人、たくさんの独身達の震災に取材してあり、家族を優先した同僚の仕事が独身者に背負わされるなどメディアであまり語られることのない独身ならではのエピソードは興味深いものです。中でも、わたしが「そうそう!」とうなずいたのは、地震直後、既婚者はいち早く家族の元へ向かおうとするのに対し、独身者は帰宅を急がなかった、という部分です。実際に、わたしが職場で被災した時、こんな混乱した中を一人暮らしのアパートになんて怖くて帰りたくないと思っていたのに対し、既婚者の方が「ごめんね、先に帰るね」と謝って帰って行くのへ、意識のズレを感じたのでした。
 この本は2014年に出版されたものですが、2016年の文庫化にあたり書き下ろされた後書きとして、取材された方々のその後の様子などが知れたのもよかったです。当時に独身だからこそ震災を機に変わってゆく人生というものが思われます。
 
 わたしが震災を短歌に詠むときにも、意識して独身女性の視点を大事しています。自分が訴えたいというのもあるし、他の人があまり詠まれないことだとも思うので。歌に残してゆくということに、意味があると思いたいです。

 余震は今でも続いています。

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角田光代さんの小説は自分には絶対に合わないのだろうと、一作も読む前から思っていた。一作も読む前から、雑誌かなにかで、「自分は彼氏主義で、彼氏がいないという状態が耐えられない。彼氏がいなくなると、すぐ次の彼氏を作る」というようなインタビューを読んだのだ。
 相容れない人だと思った。当時のわたしは恋愛嫌いで、恋愛脳の人を冷ややかな目で見ていた。たとえば学生時代の友人のあからさまな恋愛>友情な有様に辟易していたのもある。わたし自身が自分の女性性を肯定できずに育って、Aセクシャル気味に陥ってしまっていたのもある。とにかく、恋愛至上主義な思考には嫌悪感があったため、件のインタビュー記事にケッと思ったのだ。

 初めて角田光代さんの小説を読んだのは、「ダ・ヴィンチ」に掲載されていた短編だったと思う。単行本ではないから偶然に読めたのだと思う。単行本ならば、インタビューでの先入観から手に取らなかった。
 あれ? おもしろいな、と思った。てっきり、恋愛脳バカ女の出てくるくだらない小説かと決めつけていたのに。そんなふうにわたしの認識が変わってきた頃、角田さんは『対岸の彼女』で直木賞を受賞した。

 それから数年後、ある日、わたしは失恋した。失恋の痛みを引きずる日々の中で、角田光代さんの短編小説が読みたい、と、ふと思った。初めて著作を購入し、読んでみれば、なんだかぶきような恋の物語ばかりで、ぶきようなわたしの心にすっとなじんだ。
 それから、『だれかのいとしいひと』『トリップ』『ドラママチ』『おまえじゃなきゃだめなんだ』いくつも短編小説を購入しては読んだ。通勤のバスの中で、仕事の休憩中に、ちょっとした待ち時間に。これからもいくつも読むと思う。どこかぶきような人達の物語を、わたしは好きだと思った。
 今では、角田光代さんは「好きな作家は?」と聞かれて、答える作家のの一人である。

  バスのなか角田光代を読みており明日は予定のない日曜日

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僕には是非とも詩が要るのだ
かなしくなっても詩が要るし
さびしいときなど詩がないと
よけいにさびしくなるばかりだ

僕はいつでも詩が要るのだ
ひもじいときにも詩を書いたし
結婚したかったあのときにも
結婚したいという詩があった

結婚してからもいくつかの結婚に関する詩が出来た

おもえばこれも詩人の生活だ

ぼくの生きる先々には
詩の要るようなことばっかりで

女房までがそこにいて
すっかり詩の味おぼえたのか
このごろは酸っぱいものなどをこのんでたべたりして
僕にひとつの詩をねだるのだ

子供が出来たらまたひとつ
子供の出来た詩をひとつ
(山之口獏「生きる先々」)
 
 すっかり短歌の人になりつつあるわたしだけれど、この間、久しぶりに新しい詩を書いた。久しぶりに詩を書いて、表現の手段は短歌が主になってきたけれど、やっぱり、わたしの本分は詩だなあ、という気がした。短歌を詠んでいて、「影響を受けた歌人は?」と聞かれても、石垣りんや吉野弘、山之口獏、黒田三郎、茨木のり子といった詩人の名前ばかり浮かんでくる。
 山之口獏の「生きる先々」という詩が好きだ。好き過ぎて前のブログのタイトルのネタ元にしたくらい。自分の生きる先々には詩が要る、生活があって詩がある、というような詩との関わり方が、ほんとうに好き。そんな獏さんだから、貧乏暮らしも、故郷の沖縄への思いも、結婚への憧れも、娘さんのミミコとのやり取りも、詩に正直に綴られる。
 久しぶりに新しい詩を書いた。わたしの短歌と同じように、わたしの実生活を詠った詩だ。わたしの生きる先々にも詩の要るようなことばっかりで。
 短歌界隈での虚構問題に対して、わたしがどちらかといえば無しという立場にいる(あくまで好みの話で、虚構短歌を否定したいわけではなく、それはそれでそういう表現方法もあっていいと思う)のは、わたしが山之口獏の「生きる先々」のような詩が好きだからなんだろうな、と思った。

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プロフィール
HN:
おとも
性別:
女性
自己紹介:
短歌とか映画とかこけしとか。
歌集『にず』(2020年/現代短歌社/¥2000)

連絡・問い合わせ:
tomomita★sage.ocn.ne.jp
(★を@に変えてお送りください)
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