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川が好き。山も好き。
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この冬は薄く綿の入った紺色のモッズコートを着ています。東日本大震災の時に着ていたコートで、停電で暖房の効かない寒い中このコートを着ながら部屋のめちゃくちゃを片付けました。避難所のホールに泊まった際は、布団もなく板張りの床に御座が敷かれただけだったので、このコートを着たまま眠りました。
 次に冬が来て、なんとなくこのコートを着る気になれず、その次の冬も、その次の冬もとクローゼットにしまったままになっていました。
 震災以来このコートを着てみたのは、震災からふっきれたとか、そんな大げさな気持ちでもなく、単に暖冬で、他の手持ちのコートは少し重かったからです。まだ埃っぽい気のするコートを引っ張り出して洗濯ネットに入れて洗って羽織ってみたら、着れるな、と思いました。
 なにしろ古いので、もしかしたら世間の流行から外れていて変に見えるかもしれないけれど、ぼろぼろな時に着ていたのだからどうせだめになってもいいのだと、てきとうに着倒せるぐらいの気安さを感じています。
 
 今年の3月11日は、普通に仕事でした。年によっては職場の近くで震災の祈りのライトアップや灯篭などさまざまな企画をやっていることもありますが今年は何もなく、わたし自身も他の祈りの場所などに赴くこともなく一日が終わりました。13年前の東日本大震災より、今は能登半島地震、といった思いもあります。どっちが、と比べるのも違うのだけれども。
 朝起きて、駅まで歩くつもりが出遅れて自転車漕いで、仕事して、残り物を詰めただけの弁当を食べて。スペシャルなことは何もなくても、普通に一日過ごして帰ってこれるということが、つくづくありがたいです。

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昨日の深夜、震災の1、2年後あたりのドキュメンタリーの再放送を見ました。震災より日が浅い頃に作られたものは、今見るとなにか乾ききっていない生傷ように感じました。それでも、本放送の頃は今より静かに見れていたかもしれない。震災10年の少し前の頃あたりから、震災がこれまで以上に怖くつらくなってきました。想像力が及んできた、というのか、なにか迫ってくるような感覚に、胸がくるしくなります。

 今日は仕事が遅番で、少し早めに出てコーヒー店でモーニングでもいただきながら本を読んだり歌を詠んだりしたいな、なんて思っていたけれど、結局普通の時間に出ました。昨年の「ドキュメンタリー72時間」の宮城の生花店の回の再放送と、「Dearにっぽん」12年目の告白~岩手・陸前高田 漂流ポスト~」に見入ってしまったからというのもあります。震災で亡くなった方への手紙が届くという漂流ポストはこれまでもいくつかのドキュメンタリーでも見ました。震災から12年経って、管理人の方が閉じたいと考えているということ、その思いや背景。

 職場に着くと、今はとてもとても偉くなってあまり話すこともなくなっていた上司と出社が一緒になりました。挨拶をすると「髪型変えた?」と聞かれたので、「ボサボサなんですよ~」と反射的に自虐してしまい、なにか困った空気になってしまい、あ、悪い癖が出てしまったと思いました。昔の職場の上司に、無意識に自分を下げて言うのを咎められたことがあったのです。「なんか分け目が違うみたい」と言われるのへ、わたしは自分を下げずに「今日は前髪巻いてたんです、気づくなんてさすがですね!」と相手を褒めるべきでした。自虐癖を注意されたのも10年くらい前なのに、なかなか治らないものです。
 仕事は毎年3月11日は14時から2時間ほどゆるやかで、特に今日のわたしは遅番だったこともありお昼の休憩が14時からでした。休憩室のテレビに映る震災の番組を見ながら、朝作ってきたサンドイッチを食べました。14時46分を知らせるサイレンの音がテレビの中から聞こえ、黙祷をしました。目を閉じていると、後ろのテーブルから「すっごい静か!」とキャハハと笑う若い女の子の声が聞こえました。3月11日14時46分にみんなが静かに祈ることの、なにがそんなにおもしろいのでしょうか。まして東北の、まして宮城県なのに。追悼の気持ちを持つべきだ、なんて強要することではないのですが。
 
 帰りは、献花会場だった場所を通りました。昨晩は出ていた「東日本大震災献花会場」の看板が、既にしまわれていました。1月に葉の落ちきった柳の大きな樹の細い枝々に、新しい葉が芽生え初めていました。

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11年目の3月11日、あの日と同じ金曜日です。わたしは今日は仕事でした。毎年3月11日は14時頃から仕事がゆるやかに静かになるのですが、今日はひっきりなしに電話が鳴って忙しくて、14時46分の黙祷もできずじまいで、今日が東日本大震災から11年目だなんて、もう世間では関係がなくなっているのかなと、あわただしさの中でしんみりしました。
 休憩時間にロッカー室で携帯電話を確認したら、14時40分ぐらいに、「今度ご飯食べない? 会いたいよー」みたいなノリのメールが届いていました。わたしとこの子ってこんな距離感だっけ……? というか、他県出身の余所者のわたしと違い、この子は生粋の宮城県民のはずなのに、震災とかどうでもいいんだろうか……と、くらくらしました。

 仕事帰りのバスの中、ウォークマンでラジオを聞いていました。帰宅してテレビを点けてニュースを見ると、さっきラジオで聞いたのと同じ流れで、被災地の各地での14時46分の様子と、高齢者施設が津波の心酔想定区域にたくさん建てられているという話題の後は、ウクライナの情勢と新型コロナウイルスの話題へ移ってゆきました。
 11年前の震災の他にも、大変なことが今はたくさんあります。心おだやかに暮らせる日が早く訪れますように祈るばかりです。

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昨日は髪を切ってきました。どうも8か月ぶりの美容院だったようで、伸び放題だったのがだいぶすっきりしました。「次は3か月後くらいに来てくださいね」と言われ、自分のだらしなさに身の置きどころのないような思いがしました。いまいち自分が垢抜けないのは、髪に無頓着すぎるのも要因の一つなのかもしれません。だいたいわたしはカットのみをお願いすることが多いのですが、美容院のメニューときたら多岐に渡っていて、みんなカラーやパーマ、スペシャルなトリートメントなども施術するのが一般的なんだろうか、カットしかしていないのなんてわたしだけではないのか、ケチな客だと思われているんじゃないか。
 ぐるぐる考えながら、ふと震災の頃は「シャンプー500円」と窓に貼っている美容院がたくさんあったことを思い出しました。4月半ばまで市ガスが止まっていてお湯が使えないので、髪を切るどころか髪を洗うことすらできない人がとても多かったのです。尤も、わたしの自宅はプロパンガスなので、震災の一週間後には復旧していて、美容院に髪を洗いに行く必要もなかったのでした。そのように、しんどいようなわたしの人生の中でも「運が良かったなあ」と感じることはたくさんあって、思えば髪が生まれつき直毛でストレートパーマや縮毛矯正が不要なこともその一つなのでした。

 ここ数日、震災のドキュメンタリーをよく見ています。新しく撮られたものの他に、深夜に放映されている数年前の再放送も見ます。震災の映像、大きな揺れや、津波がすごく怖い。ここ数年、というか特に今年は涙の出るくらい恐ろしく感じていて、自分の感覚の変化にびっくりしています。再放送なんて、数年前に本放送で見た当時はここまで恐怖を覚えなかったのに。震災直後の生活の不安や失職、病気など、自分の震災でいっぱいいっぱいのうちは、大きな被害への恐怖心が麻痺していたのでしょうか。何度も見たことのある映像も、初めて見たように怖くてつらい。10年経ってわたしの震災はほとんど片付いたからこそ、新しく今2011年3月11日と出会っているのかもしれません。

 東日本大震災から10年目の今日は普通に仕事で、14時26分に黙祷した以外は、普通に過ぎました。普通に過ごせることが、あらためてありがたく思います。
 仕事の帰り、一番町で『3.11希望の光』と題したライトアップを通り過ぎました。上空に向けた強い光は天に届くようにまっすぐ伸びて、遠くから見れば一本の柱のようで、なんだか泣きたくなりました。


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まだ余震が続いていてこわいです。今日は左腕がやたら痛くて、なんだろう寝違えたのかなあと思っていたのですが、筋肉痛だとやっと気づきました。地震の片付けで重たいものを持ち上げて、普段使わないような筋肉を使ったのでした。

 一昨日の夜は久しぶりに大きな地震でびっくりしました。2段重ねで本棚にしていたカラーボックスが床に落ちてしまって本が床に散乱したり、冷蔵庫が廊下に進んできて、その上の炊飯ジャーが床に落ちてしまい、保温していたご飯が床に落ちてしまいました。後でラップにくるんで冷凍しようと思ってたのに、茶碗3杯分くらいはあったのに。食べ物をだめにしてしまうのは本当に心ぐるしい。

 ガスの元栓を確認して、この先もしも水道が止まった時のためにバスタブに水を貯めて、余震で閉じ込められないように窓を開けて(窓は揺れで少し開いたのだけれども)、リラックスした格好でいたのをいつでも外に出られる服に着替えて。テレビはすっかり緊急地震速報に切り替わり、サイレンの音、余震の続く中で部屋を片付けながら、こういう時に一人だとつくづく心細く感じます。気がついたら歯を痛いくらい食いしばっていて、なぜか左手には片付けの途中で拾ったらしい安全ピンやボタンをいつのまにかずっと握っていました。
 固定電話に実家の母から電話がきました。携帯電話は全然つながらないとのことでした。一人暮らしですし、固定電話をこのまま置き続けるか迷ったりもしますが、やっぱりいざという時は強いです。この夜のためにわたしはずっと固定電話を引き続けていたのかもしれません。
 変に疲れて、気持ちはそわそわしたまま、片付けも中途半端に眠りました。土曜日の深夜は吉本新喜劇を楽しみにしていますが、さすがにこんな日は中止です。

 翌日は午後からオンラインで塔の福島歌会でした。トイレのタンクの中のピタゴラスイッチ的な部分が地震でずれて、水が流れなくなっていたので、なんとか直そうと蓋を開けてごちゃごちゃ作業していたら参加時間のぎりぎりになってしまいました。昨日の今日で床は物だらけですが、カメラ位置をちょっと上げれば映らないのでバレてないでしょう。そしてガスが止まってお風呂に入れなかったのですが、オンラインなので臭い誰にも届きません。対面の歌会じゃなくて助かりました! わたしのずぼらはさておき、東北の皆さんの無事を確認できて安心しました。歌会の最中にガス屋さんが来てガスも無事に復旧しました。夕方にトイレもなんとか直しました。10年前の震災ではトイレの仕組みのずれから水漏れがして、それまで会ったこともない下の階の住人から苦情を受けた苦い思い出があるのでした。

 今日はいつも通りの仕事をして帰ってきました。風が強いです。今しがた、ニュースで「被災地」と聞こえました。どこを指すのか、いつを指すのか、今日もまた眠ります。

  余震なり臨時ニュースの声も灯も揺れ湯あがりの身は冷えてゆく  『にず』

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先日、一緒にお昼ご飯を食べていた同僚さんが「震災の頃を思い出すよね」と言いました。新型コロナウイルスの騒動についてです。
 確かに、いつ収束するのか先の見えない不安感は東日本大震災直後の頃と似ているような気はします。スーパーやドラッグストアのマスクやトイレットペーパー売り場の空の棚は、まるで震災直後の物流が滞っていた時に見た光景のようです。また、感染している人に出歩かないでほしいな…と思ってしまう気持ちは、東北に向けられていた放射能を避けようとする気持ちと共通するのかもしれません。

 つい昨日、何かの制度のために4月からの賃金が少し上がるというお知らせをいただきました。今の仕事は、いわゆる安定はしていないけれども、その分あまり大きな責任もかからなくて雇われの気楽さがあります。震災の頃とは全然違う仕事です。長く勤めるつもりだった仕事を震災後に辞めることになった時は震災のせいで人生が終わったように感じていたものですが、今となってはあまり関係ありませんでした。なんだかんだで人生はまだ続いています。
 今日は、特に希望したわけではないのですがシフトで休みでした。14時46分には黙祷をしようと思っていたのに、いつのまにか昼寝をして過ぎてしまいました。それだけ、緊張感もほどけてきたのかもしれません。祈りの気持ちは3月11日14時46分以外でも持っていたいと思います。

 近々関東の方に行きたいと思い、妹に電話をしてみたところ、「今はまだ止めた方がいいよ」と言われました。近況などを話している途中で、甥っ子が電話に出たがっていると言って甥っ子に代わりました。甥っ子は幼稚園でのことなどを喋ってくれました。わたしと話したい、というよりは、電話で喋るということ自体が楽しいんじゃないかという気がしますが、かわいい。
 ずっと前に、妹に結婚の決め手を聞いた時、理由の一つに「震災があったから」という返答がありました。それ以上の突っ込んだことは聞きませんでしたが、一人では心細い心境は東北だけに限ったことではなく、確かな絆を結びたくなるのだろうと想像がつきます。こうしてぺちゃくちゃ喋っている甥っ子も、震災がなかったらいなかったのかもしれないな、と思ったりするのでした。

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3月に入ってから、なにげない雑談の中で、震災の頃の話題が出ることが多くなりました。東北で被災した人だけでなく、当時は東京にいた人も帰宅困難者としての体験や、仕事が中断した話、東北の家族と連絡のことなどを、昨日のことのように語り出します。「忘れてはいけない」「風化させてはいけない」などと言い聞かせなくとも、みんなあの日のことを語りたいのだとあらためて感じます。そうして、被害の大小にかかわらずどんな些細なことも、被災の一つなのだと気づかされます。

 わたしが避難所として泊まった文化センターが、追悼式会場になっていました。出席は見送りましたが、センターの外にも案内や警備の方がたくさんいたり、無料送迎バスが何台も出ていたり厳粛な空気が流れていました。
 あの日々のことを語ろうと思えば語れるのだけれど、自分の中では震災が過去になったという感覚が、ここ数年はしています。震災当時を忘れた、というわけではなくて、震災前の生活に執着がなくなったという心境です。あの時なくしたものを取り戻したいとは、もう思わない。
 とはいえ、また震災が起きたらまた同じようなことにくるしむようなわたしだろうということが懸念されるので、自分の心の偏りの矯正はしていかないと、思うのでした。

 職場に河北新報が置かれるようになったので、佐藤通雅さんと花山多佳子さんが選者をしている河北歌壇を久しぶりに読んでいます。震災にまつわる歌が毎回いくつか載っていることに少し驚きました。震災から5年目までの分は河北新報出版センターから『震災のうた 1800日の心もよう』という本にまとめられていて、とても良い作品集ですが、その続きが8年目の今までずっと続いています。震災詠というより、東北の人にとっては日常詠なのでしょう。常連の投稿者の方などは、被災してからの暮らしぶりが近況報告のように伝わってきて、詠み続けることの大切さにあらためて胸を打たれます。その時その時の今を詠った歌を追い続けながら、その人その人の人生に思いを馳せています。

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北海道の地震の翌日、すれ違った通学中の小学生が「北海道が震度7って、東日本大震災と同じくらいなの?」というような会話をしていました。
 見た感じ、10歳にもなってないぐらいの子供達です。7年半前の震災は記憶に残っているのかな、と疑問に思いました。覚えていなくとも、ニュースやドキュメンタリーなどテレビで見たのでしょうか。もしかしたら、親御さんに話を聞いたり、学校の授業で習ったりするのかもしれません。

 各地で災害が相次いでいる今こそ、東日本大震災をどう伝えてゆくか、というような番組を北海道の地震が起こる前に見ました。
 伝える意味について、あらためて考えています。災害が起きたときにはてんでんに逃げようとか、水道が止まる前にバスタブに水を貯めておこうとか、停電時もガスが使えれば鍋でご飯が炊けるよ! とか、実用的な部分はどんどん伝えてゆこうと思います。非常時こそ自分の心を一番大事に、ということも、何度も何度も伝えてきました。
 けれども、被害についてはどうしたらいいのかよくわかりません。未だに雑談の中で震災当時のことを話したりしますが、そこに「この体験を後世に伝えてゆかなければ」という意思はありません。震災詠も詠んできましたし、きっとこれからも詠みますが、自分の身の回りのこと、感じたことを詠んでいただけで、「あの日を忘れてはいけない」という使命感を持ったこともありません。また、わたしに震災体験を語ってくる人も、記憶の風化に抗っているわけではなく、ただただ吐き出したいだけのように感じます。
 
 東北に暮らす子供達は、どのように震災を伝えられ、どのように受け止めているのでしょうか。わたしの時代にはなかった色のピンクや水色のランドセルが揺れていました。

 災害に遭われた各地の皆さま、お見舞い申し上げます。大変なことと思いますが、どうぞ無理はされませんように。

  函館への旅の約束いつしらに流れてゆけり握り飯食む

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大阪北部地震、その前にも新潟や群馬など方々で地震続きでしたが、大丈夫でしたでしょうか。非常時においてはいろいろ混乱することもあるでしょうけれど、何より自分の心を一番大事にされますように。

 大変そうな人が目の前にいても、自分だってつらかったらまずは自分を優先しましょう。
 不安で誰かに会いたくなったら、相手はこの非常時をご両親や他の大切な人と身を寄せ合って過ごしているかもしれない、なんて慮りはひとまずおいといて、「会いたい」と伝えましょう。
 たくさんの人から安否確認の連絡が来ているだろうから、自分の連絡は邪魔になるかもしれない、なんて気遣いはこの際どこかにやってしまって、連絡したい相手にはしましょう。
 停電で貴重な携帯電話の充電をわたしの連絡ごときで消費させては申し訳ない、事態が落ち着くまで控えよう、なんて考え過ぎずに、自分の気持ちのままに電話をかけましょう。
 誰かが自分を助けてくれようとした時に、わたし一人はどうにでもなる、それよりもっと大変な人の所へ行ってあげてください、なんて遠慮せずに、助けてもらいましょう。
 心細い気持ちに蓋をして「わたしは大丈夫!」なんて気丈に笑ったりせずに、「一人で居たくない」と素直に泣きつきましょう。
 必要以上にがんばり過ぎないようにしましょう。

 全部、わたしが東日本大震災でできなかったことです。
 自分の心に嘘を吐くと、しばらくしてから体に不調が現れます。そのように病気になってしまわないように、他人に気を取られ過ぎて自己犠牲せず、何よりも自分の心を守らないといけません。思うだけで、難しいのだけれども。
 
  次なんてないかもしれないなんてことあの三月に知ったはずなのに

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3月に入って、テレビで震災の特集が流れるようになりました。職場の休憩室、一緒にお昼ご飯を食べていた人達でそれらを見遣りながら、やはり「あの日、わたしは」という話になりました。東北に暮らすわたし達はそれぞれの被災経験を持っており、それはこうした談笑の場での共通した話題として機能したりします。あの日々はほんとうにつらかったのに、今こうして「あの時は本当に大変でしたよね」と過去形で笑い合えることを、幸福に思います。

 震災の経験を過去形で語れるようにはなりましたが、震災での教訓を全く活かしきれていない自分の心を、この頃は思い知らされています。自分を変えなきゃと思っていたし、変えてきたつもりでいました。けれども、結局またなにかに直面する度に、あの日と同じような心の動きをくり返してしまっています。どうしてわたしは自分を一番に大切にできないのでしょう。自分の心細さを隠して「わたしは大丈夫!」とうそぶいたために後々無理がたたって押しつぶされてしまった震災後の日々。そのように、自分で自分の心に嘘をついたために招いた出来事へ、ことさら嘆いて悲劇のヒロインぶってしまう自分のことも好きになれません。

 7年目の3月11日は仙台歌会で、わたしは司会でした。黙祷の時間を設けようとアラームをセットしていましたが、会場の施設では14時46分に黙祷を促す館内放送が流れました。
 海の方角に向かって目を閉じながら、もっと大きな被災をした人や、今もくるしんでいる人に比べたら、自分の心に関する問題なんてどんなぜいたくな悩みかと省みたりもするのでした。

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HN:
おとも
性別:
女性
自己紹介:
短歌とか映画とかこけしとか。
歌集『にず』(2020年/現代短歌社/¥2000)

連絡・問い合わせ:
tomomita★sage.ocn.ne.jp
(★を@に変えてお送りください)
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