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川が好き。山も好き。
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この冬は薄く綿の入った紺色のモッズコートを着ています。東日本大震災の時に着ていたコートで、停電で暖房の効かない寒い中このコートを着ながら部屋のめちゃくちゃをを片付けました。避難所のホールに泊まった際は、布団もなく板張りの床に御座が敷かれただけだったので、このコートを着たまま眠りました。
 次に冬が来て、なんとなくこのコートを着る気になれず、その次の冬も、その次の冬もとクローゼットにしまったままになっていました。
 震災以来このコートを着てみたのは、震災からふっきれたとか、そんな大げさな気持ちでもなく、単に暖冬で、他の手持ちのコートは少し重かったからです。まだ埃っぽい気のするコートを引っ張り出して洗濯ネットに入れて洗って羽織ってみたら、着れるな、と思いました。
 なにしろ古いので、もしかしたら世間の流行から外れていて変に見えるかもしれないけれど、ぼろぼろな時に着ていたのだからどうせだめになってもいいのだと、てきとうに着倒せるぐらいの気安さを感じています。
 
 今年の3月11日は、普通に仕事でした。年によっては職場の近くで震災の祈りのライトアップや灯篭などさまざまな企画をやっていることもありますが今年は何もなく、わたし自身も他の祈りの場所などに赴くこともなく一日が終わりました。13年前の東日本大震災より、今は能登半島地震、といった思いもあります。どっちが、と比べるのも違うのですが。
 朝起きて、駅まで歩くつもりが出遅れて自転車漕いで、仕事して、残り物を詰めただけの弁当を食べて。スペシャルなことは何もなくても、普通に一日過ごして帰ってこれるということが、つくづくありがたいです。

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年末年始は実家の山形に帰省しました。雪国なのでブーツを履いていったのですが、雪が積もってなくて拍子抜けしました。
  移動中や実家滞在中は大岡信『あなたに語る日本文学史』を読んで過ごしました。万葉集から子規まで。空き時間が想定されるときは文字数のなるべく多い文庫本をお供にしておくと荷物の感じとかコスパがいいなと感じます。

 昨年は、フットワーク重めなわたしにしてはめずらしくあちらこちらへ出かけました。2月は青森で是川縄文館の合掌土偶と対峙したり、岩手の花巻で宮沢賢治の世界に触れたり、10月は京都で「ドキュメント72時間」で印象に残っていた鴨川沿いを歩けたり、11月は東京で高尾山に登ったり。山形への帰省や福島での定例の歌会などは毎度のことで遠出といった感じはしないけれども、ハプニングでやむなく山形駅と東根駅を新幹線で移動するなんて普段は絶対にしないこともしました。慣れた場所でも移動手段やルートの些細な違いで景色が違って新鮮で、そんなふうに代わり映えしない日常の中でも様々な表情に触れることにより、より味わい深い日々になってゆければいいな、と思ったりします。
 歌集の重版をしていただいたのもありがたいことでした。恥ずかしくみっともない自分がいっぱい詰まった歌集ではあるのですが、うれしい言葉をいただくこともあり、つくづくしあわせな歌集です。歌よりも人生、の心持ちは変わらずです。
 昨年はどうにも筆が重いというか、筆が乗らないというか、筆が迷うというか、文章以外にも、取り組んでいた連作もまとめきれないままだったり、なにか時間の感覚も使い方も思うようにいかずもどかしかったので、今年はなんとか軽やかにゆきたい。と元旦に心から思ったはずなのに、もう三月だなんて。
 
 喪中ということもあり静かなお正月でした。実家では餅つき機を新調していました。今までのものは大きく重く、年老いてきた両親には出し入れが大変になってきていたのでした。新しい餅つき機は前のものよりだいぶ小ぶりですが、餅しかつけなかった前のものと違ってパン生地をこねたり味噌を作ったりもできるのだとか。とはいってもたぶん家では餅にしか使わなそうです。使わない機能、使いこなせない機能、使う気のない機能。世の中もっとシンプルでいいのに、と思うこともあったりなかったり。やっぱり生餅は美味しいです。
 近所のお弥勒さまに初詣でに行きました。普段は鍵がかかっていますが、元旦なので開いています。久しぶりに中に入ったけれども、地域の人の奉納した千羽鶴や手作りの吊るし飾りが飾ってあったり、今はもう亡くなった方々の昭和に書かれた署名の和紙などが貼ってあったり、八畳ほどの小さな空間ながら祈りを強く感じました。正座して、手を合わせました。新年の願いごとをするつもりが、母が熱心に般若心経を唱えているのに気を取られ忘れてしまいました。祖母が亡くなって以来、母は毎日ぽくぽくと般若心経を唱えています。生前はあんなにあんなだったのに、不思議なものです。
 お弥勒さまから帰宅後、能登半島地震が起きて、ずっと案じています。

  餅ならばいくつ食べても今日だけは良いと決めたり一月一日 


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「高尾山に行こう」と、春の祖母の葬式で叔母に誘われ、迷うことなく「行きたい!」と即答していました。高尾山が東京の行楽地だということは認識していても、現実的に自分が登るとは全く考えたことがなかったのですが、「行こう」と言われた途端に自分が行く場所だという気がしてきたのです。行けるうちに行こうと思い、叔母の梨の仕事の落ち着いたこの秋に行ってきました。
 
 11月の高尾山は紅葉の真っ盛りで、平日でも賑わっていました。わたし達のような中高年女性二人連れの他に、家族連れ、カップル、高齢者グループ、行事らしき子供達、外国の方々、犬連れや赤ちゃんを乗せたベビーカーを押している人もいて、たくさんの人に愛されている山なんだなと感じました。整備された道沿いには根っこが剥き出しの樹木がたくさんあり、根っこが土を抱いている様はなんともいえない命の迫力があります。途中の権現茶屋で味噌団子を食べるなど休憩を挟みつつ登りました。
 山頂に着き、叔母に写真を撮ってもらおうと山頂を記す看板に並んでいると、前に居る若い女性にシャッターを頼まれました。ポーズもしっかりキマってて、まるでモデルさんみたいです。一人で来たのでしょうか、腰が重くて叔母から誘われなければ来てなかったわたしには、なにかとても軽やかで清々しく見えました。行こうと思えば一人でもどこへも行けるんだなあ、わたしもきっといろんなことをこれから楽しんでゆけるんだなあと気づかせてもらえたようでした。
 天候に恵まれたおかげで山頂からは富士山も見えました。前日の仙台から東京への新幹線の窓からも富士山が見え、高尾山口駅まで向かう電車の窓からも富士山が見え、この旅で3度目の富士山との邂逅ではありましたが、窓ガラスを隔てずに見たのは初めてでした。うれしくてしばらくの間をながめていました。富士山にまつわる個人的な思い入れも何にもないのに、富士山を見るとなんでこんなにありがたい気持ちになるのでしょう。さすがに富士山は圧倒的過ぎて、もし誘われても登る体力がないけれども。
 
 叔母の家に泊まるのも何年振りで、あまり会う機会もなくなったからか、恐縮するくらいのおもてなしをしてもらいました。なるべく荷物を少なくして来たつもりが、帰り際にあれも持って行ってこれも持って行ってと特売の瓶のインスタントコーヒーや叔母が若い頃に着ていた服などもいただいてしまい、結局紙袋が一つ増えて、実家で母に野菜を持たされるのとまったく同じ状況です。思えば、祖母も箪笥から何かを引っ張り出してはわたしに持たせようとしました。わたしも将来甥っ子などに同じことをするのでしょうか。するんだろうな。
 帰り際、ちょうど夜勤から帰ってきたいとことも会えました。このいとことも全然会う機会がなくて、お互い大人になって喋るのは初めてだったのですが、弟に顔がよく似ています。顔つきが似ていても、渋谷でスカウトされてスポットライトを浴びかけたいとこと、隣町のブックオフで万引きを疑われたことのある弟、これが都会と地方の分断。というわけでなく、顔は似ていても服装や髪型、身だしなみ、姿勢や佇まいで人の印象って全然違うというわかりやすい実例です。わたしも持って生まれた分はもうしょうがないので、自分で磨いてなんとかなるところはがんばってそれらしく見えるよう努めようとあらためて奮い立ちました。

 行きは新幹線であっという間でしたが、帰りは高速バスにしました。新幹線の半額以下な分、倍以上の時間はかかるけれども、昼でも夜行と同じ3列シートでカーテンで仕切りもできて窮屈な感じもあまりなく、一番後ろの席だったので気兼ねなくシートを倒して景色を眺めつつ読書もできて、これはこれでゆたかな時間でした。東京滞在中には塔の東京歌会にもお伺いできて、充実した2泊3日でした。

 富士山が見えてきたよと隣席の知らない人と指差しはしゃぐ


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先週の朝ドラ「ブギウギ」、スズ子の弟の六郎に赤紙が来て無邪気にはしゃいでいる姿が心に残りました。現代に生きるわたし達はこの戦争で日本が負けることをも、当時の日本が間違っていることも知っているので、六郎がこの先つらい目に遭うことがわかっています。だからこそ、六郎の純粋さがとてもせつなく映ります。
 赤紙がきたら当人は絶望して家族は嘆き悲しんでと、物語ではみんなが戦争に反対していたように現代の価値観で描かれがちですが、実際はよろこんだり誇りに思ったりした人も結構いたんじゃないか、という気もしています。というのは、実際に戦争を経験した祖父や祖母などの身近な人達に好戦的な面が見えたり、以前の職場だった高齢者施設では利用者さん達が戦時中の話や兵隊時代の話で楽しく盛り上がっていたり、といった生の声に触れたからです。尤も、わたしが聞いたのはあの時代をくぐり抜けて生き残った人の声ばかりだし、当時はくるしくても何年も経って青春の思い出として笑って話せるようになったのかもしれないし、まして東北は空襲などの被害も少ないので他の地域に比べたらどこか呑気なところがあるとか、わたしに届いた声にも偏りがあるのでしょう。ただ、一般の市井の人達の中で、後世から見れば肯定できないようなことでも、その時その時にその人にそういう思いがあった、という事実は事実として受け止めたいようにも思うのです。当時は情報が操作されていたということも念頭に置き、もちろん、戦争には反対しながら。

 11月のお知らせ二つ。

 佐藤通雅さんの個人誌「路上」155号(2023.11)に22首「蔓の刺繍」を掲載していただいております。いろいろ迷いつつの一連ではあるのですが、たまたま一首目に「路上」という言葉が入り、ねらったわけでなく挨拶歌っぽくなったのが自分の中でうれしくもありました。

 「うた新聞」2023年11月号に5首「水遣り」掲載していただいております。
https://www.irinosha.com/

 お読みいただけましたらうれしいです。


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ベランダの紫蘇の花が終わったので、紫蘇の実を収穫しました。今年はベランダの工事があって、鉢を一時的に日の当たらない場所に移動したりしたこともあり、菜園は不調で、紫蘇の葉もごわごわした出来でした。それでも自分で食べる分には問題なく、充分に夏の食卓をゆたかにしてくれました、紫蘇の実もボール半分ほど穫れ、塩漬けにしました。薬味や彩りに使うつもりです。
 紫蘇の実は、穂先に少し花の残る頃が収穫時です。その前の、満開の頃も可憐でとてもかわいい。けれども、紫蘇の花を花瓶に挿して飾ったり、花束にして人に贈るようなことは、よっぽどないような気がします。少なくとも、わたしはありません。思えば、ナスの紫の花、キャベツの黄色の花、サツマイモのピンクの花なども同じくです。そもそも野菜は、花を摘んだら実が生らなかったり、花が咲く前のところを食べたりします。
 花が美しいのは、受粉を手伝ってくれる虫や鳥の目を引くためだといいます。手折って飾るだけの人間には、花はもとからなんにも期待していないでしょう。それでも、咲いたところに居合わせたからにはわたしは愛でたい、と思うのでした。

  ブーケには選られぬ白い花がすき掃溜菊に蕎麦や紫蘇など

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祖母の初盆なので、お盆は有休を取って帰省してきました。もういろいろ簡略化されていて普通のお盆と変わらない感じですし、お盆にご先祖様が帰って来るというのもよく考えたらよくわからない理屈でもあるのですが、文化や信仰としては味わい深いものです。
 祖母は信心深くて、なにかにつけて「仏様に拝んでだんだ」と言うので、わたしの受験の合格もわたしの運転免許の取得もなんでもかんでも祖母が仏様に拝んだおかげに帰結してしまい、わたしががんばったのにと反発したものでした。
 ふと仏壇になにか立てかけてあるのを見つけて、手に取ってみると、それは祖母の実家のお墓の写真でした。なんでそんな写真があるのか母に聞いてみると、知らないけれど祖母が持っていたとのこと。12歳で母に死なれたと、なにかにつけて言っていた祖母。祖母のいう仏様とは、祖母の母のことだったのでしょうか。祖母の実家にはわたしのはとこが二人いましたが、二人ともお嫁に行ってしまい、祖母が拠りどころにしていたかもしれないお墓もこの先どうなるのか。家より個人を尊重する時代になって、お墓の在り方も変わってゆくのかもしれません。

 お盆の間は市場が休みで、家族は農作物に追われていました。出荷ができないのに野菜は育ち、育ち過ぎて出荷ができないので、食べたり人にあげたり保存したりそれでも間に合わないものは捨てるしかなかったりで、世の中は物価が上がってくるしんでいるのに、野菜が余って余ってしょうがないという現実もあり、変な感じでした。
 農作業の手伝いをわたしもしようかなと思っていたけれども、どうやら間に合っているようだったので、ご飯の支度をしました。ナスは昨日母が漬物にしていたから麻婆茄子にしよう、カボチャは昨日母が煮物にしていたからサラダにしよう、みたいに料理というより夏野菜をいかに消費するかの戦いでした。だしが食卓に並びがちなのも必然です。

 祖父のきょうだいの娘さん達が盆礼に来てくれました。わたしにとってはいとこおばに当たる人達ですが、決まった親戚の集まりにくる人ではないし、わたしも20年ほど実家を離れているので会う機会もほとんどなくて、先日の祖母の葬儀でぼんやり認識したぐらいでした。
 いとこおば達を車に乗せてきたその息子さんはわたしのはとこということになりますが、存在すら初めて知りました。母方だけでも祖父が7人きょうだい、祖母が5人きょうだいなので、父方の祖父母も併せてそれぞれの枝葉を思えば、わたしの知らないはとこがまだまだたくさんいるのでしょう。この初めて会ったはとこは、高齢のいとこおば一人残して婿に行って名字も変わっているということなので、ますます遠縁になっており、この先も親戚付き合いが続くのかどうか。祖母の初盆で来てくださった方々なのに、祖母とは全く血がつながっていなくて、初対面のわたしとはうっすらつながってる、というのが、当然のことなのに不思議な気がしてきます。3人は祖母の写真などを見てひとしきり談笑した後、ネギや糸カボチャをたくさん持たされて帰ってゆきました。

 帰省の最終日の朝に、回覧板がまわってきました。山の方で熊によるスモモの食害跡が発見されたので注意しましょう、と熊の対処法が書いてありました。地図を見ると、「開墾」と呼んでいたうち畑のあたりです。昔は小豆やプルーンを植えていましたが、今はその畑はほとんど何もしておらず、自生したニセアカシアが蔓延っていて少し荒れてしまっています。子供の頃に夏休みに通った野球場も近くにあります。野球だけでなく、キャンプもしたこともありました。テントを張って、ハンモックを釣って、ルールもわからないままドンジャラをやって。今はもうあそこで野球をする子供もいないし、そもそも野球ができるほど子供がいないです。
 人が降りて、熊が降りて、今こそ山が自然に返ってゆく途中なのかもしれません。

  夏の窓にホップ畑は広がりぬ 親戚もみな高卒なりき 『にず』


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トークイベント<『細倉を記録する寺崎英子の遺したフィルム』をめぐって>に行ってきました。出演は写真評論家の飯沢耕太郎さん。当初は写真家の小岩勉さんとの対談の予定だったのが、ご体調の都合でご欠席とのことで残念でしたが、興味深いお話が聞けて実りある時間でした。

 写真に撮るのと写生で歌に詠むことは似ているし、写真のシャッターチャンスは短歌における切り取り方のようだし、まなざしや技術に独自性が表れることなども、写真と短歌は通ずるところがあると思っています。写真の心得のないわたしがカメラを構えてシャッターを押せば写真が撮れてしまうのように、歌心がなくても言葉を五七五七七に収めれば短歌ができてしまうところなども。

 細倉鉱山閉山が発表された1986年から鉱山の町に暮らす身近な人々を撮り始めたという寺崎英子さん。ご自分でもほとんどプリントもしないままの膨大なフィルムを写真家の小岩勉さんに託され、当初はお困りになったとのことですが写真を見てみたらとても良かったということで、助成金の申請など様々にご尽力を受けて、写真展が催され、こうして写真集もできて、寺崎さんのご存命中に叶わなかったことがとてもせつなく思われます。
 いくつかの写真の解説などもお聞きして、わたしは写真のことがさっぱりわからないのでためになりました。寺崎さんはご病気で小柄だったこともありローアングルの視点の写真が多いというのが特徴のようでした。そうした視点や構図、色彩のバランスだとか、この瞬間を捉えたのがいいとか、ここにこの具体が写っているのがいいとか、何でもないような写真だけどいいとか、一枚一枚スクリーンに映されながらお話を聞いていると、まるで短歌の評のようでした。実際に寺崎さんは俳句や短歌も詠んでいたことも無関係ではないのかもしれません。
 わたし自身は短歌を詠んでいてなにか足りないような時、いまいちきまらない時に自分の撮った写真を参考にすることがあります。自分で記録したもの、自分の目に映っていたものを詠み込むことで歌に説得力が出てくる、ことを期待したい。頭で言葉をひねり出すより、自分で納得できる感じがするのでした。

 わたしが最初の写真展を見たのは、所用で訪れた場所でやっていたのでついでに、みたいなほとんど偶然でした。けれども、なにかとても充実した思いを抱きました。写真集として手元でいつでも見られるようになったのがうれしいです。写真の解説を聞いて、なぜ良い写真だと感じるのか、具体的に理解に近づけた気がします。そうした技術的な部分以外にも、わたしが子供だった頃の1986年から数年の時代の空気感への懐かしさや、鉱山が閉じたようにわたしの故郷の農村もいずれ山に返ってゆくのかもしれないと重ねて見えてしまうことなども、わたしが寺崎さんの写真に深く惹かれる理由なのだと思います。
 
 行き帰り、仙台七夕祭りの街を通りました。せっかく七夕飾りの中を歩くのだから浴衣でも着て行こうかと一瞬思い、思い直しました。着付けが手間だし、ヘアセットも苦手です。なにより、和服にはポケットがないので鍵やハンカチの仕舞いどころに迷います。大叔母の遺した着物がいくつもあって、しつけ糸の付いたまま袖を通していないものすらあって、わたしが受け継いで着てゆきたい、なんて気持ちばかりで。

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平日の休みに、映画『遠いところ』を観てきました。脚本・監督は工藤将亮さん、出演は花瀬琴音さん、石田夢実さん、佐久間祥朗さんなど。
 夫と子供と暮らす17歳の主人公・アオイ、勤務するキャバクラにガサ入れが入り働けなくなり、働かない夫は暴力を振るったり、お金を持ち出して疾走したり、逮捕されたり、と様々に悲劇がおそってきてしんどい話、ではあるのですが、アオイの態度がどうにも悪くて共感も同情もできず。夫に一途っぽいのと子供に愛情があるのにはかろうじて救われるのですが。夫の暴力はひどいけれども、そもそもそんな相手を選ばなければいのでは、今からでも離れればいいのでは、そんな相手とそんなに若くして子供を作らなければよかったのでは、と自業自得に感じてしまうところがあります。
 ただ、離婚してそれぞれ新しい家庭を持ちアオイに愛情のない両親や、仕事で関わる大人達など、アオイの周りの人もクズばかりなので、そりゃあこのような荒んだ環境にいればこうなっちゃうのも仕方ないと悲しくもなります。違法な働き方を咎める警察や、虐待を疑って息子を引き離す児童相談所の人は圧倒的に正しいのに、アオイには響かない。まだ言葉も話せない幼い息子は無邪気でとてもかわいいのですが、この子も当然のように暴力を振るうような大人になってゆくか、その前にアオイがシングルマザーになってその彼氏に暴力を振るわれるのだろうと想像がついてしまうのは、こうした生い立ちを現実の事件で見聞きすることが多いからかもしれません。主人公に寄り添うのではなく、もっと大きな視点で貧困の連鎖に思いを馳せる映画なのだと思いました。

 週末、熱帯夜の寝苦しさに目が覚めてテレビを点けたら「朝まで生テレビ」をやっていて、少子化がテーマでした。日本に子供が増えないのは日本の現状に希望が見えなかったり、子育てにお金がかかったり、女性の生き方が多様化してきたり、氷河期世代の問題だったり、娯楽が増えたりと、政治家や活動家の方々が様々に議論をしていました。子供を生まない選択をする、または選択肢すらなく生めない人が大勢いる一方で、『遠いところ』の発端となったルポルタージュのように貧困が連鎖しようともぽんぽん生む人もいて、なにか世界の違いのようなものを考えさせられます。
 わたしが子供を生まなかったのは、社会の問題も無関係とはいえないけれど、つまるところ、ただ、縁がなかったからです。
 
 公式サイト→https://afarshore.jp/

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先日の金曜ロードショーで『もののけ姫』を観ました。ジブリ作品は既に観たことがあるものが多く、そこそこの頻度でテレビ放映されるので、観れる限り観たい『思ひ出ぽろぽろ』以外は今日観なくてもまた次の機会に観ればいいかな、と見送ることもあります。特に『もののけ姫』は映画館で観たこともあり、テレビでくり返し観ることはしていなかったので、ずい分久しぶりにちゃんと観ました。

 久しぶりに『もののけ姫』を観て、やっぱりおもしろかったです。昔は敵のように見えたエボシ様は今見るととても恰好良くて。それぞれに思いがあって、どれが正解というわけでなく、様々に折り合いをつけて生きてゆく、ということは大人になった今の方が身につまされて感じ入るものがあります。
 触れると命が吸い取られると言って、暴走したシシ神様の透明な姿から水の中を皆で逃げ惑う場面などは、震災の津波を彷彿とさせるようでとても怖くなりました。震災より14年も前の映画に津波を感じるのも、不思議な感覚です。

 公開の1997年、何もない小さな田舎町の女子高生だったわたしは、友達3人で『もののけ姫』を観に行きました。学校帰りに、映画館のある山形市まで一時間に一本あるかないかのバスと電車を乗り継いで、今みたいに山形駅に映画館が直結もしていない頃のこと、どこをどうやってどこの映画館までたどり着いたのか、なんだかもうほとんど覚えていません。けれども、親の車がないとどこへも行けないような暮らしの中で、友達だけで制服を着たままこんなに遠出することは初めてで、まるで大冒険みたいでした。
 もう2人ほども誘ったのだけど「お金がない」と断られました。思えばほんとうにお金がなくてかつかつというわけではなく「そんなことにお金を使いたくない」という意味だったのでしょう。その子は他のことも「お金がない」と断ることが多く、そう言われてしまうとなにか決まり悪いような思いがしたものでした。
 一緒に行った友達の一人はその後サウンドトラックCDを買い、わたしにも貸してくれました。彼女はエレクトーンを習っていて、「アシタカとサン」という曲のエレクトーンとピアノの連弾の楽譜もくれました。命の芽吹きを感じるようなとても美しい曲です。わたしはピアノをがんばって練習したけれど、難しくて弾けるようにはなりませんでした。エレクトーンとピアノが一緒に置いてある場所もなく、友達と一緒に合わせて弾くことも結局ありませんでした。
 友達とは、高校卒業後の最初の夏に同窓会で再会したっきり、今となってはどこでなにをしているのか全くわかりません。当時は今のようにSNSなどもなく、ポケベルが衰退しPHSから携帯電話を持ち始めたような時代です。時々手紙を書くような友達もいましたが、一人暮らしを始めても携帯電話ではなく固定電話を引き、長らくメールアドレスも持たなかったわたしは人と疎遠になりがちでした。世の中の主流に合わせて通信手段も持ち合わせていれば、続く縁もあったのかなと時に寂しく省みることもあります。けれども、大人になってからのきっと難しい付き合いがきっぱりとないからこそ、楽しい青春の思い出として振り返ることができるのかもしれません。
 
 サントラを聴いて、楽譜をもらって、希望あふれる壮大な曲のように感じていた「アシタカとサン」は、実際に映画では控えめにしか流れず、その直後のエンディングの「もののけ姫」の歌声にかき消されてしまいました。それでもなんだか懐かしく、まだ楽譜が残っていたら再び挑戦したいと思いました。

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夕飯はもやしと豚肉を炒めてポン酢でもかけて食べようかな、と思って野菜売り場へ赴いたらもやしが売り切れでした。このところ卵や乳製品を筆頭に値上げ続きで、もやしのように安くてボリュームのある食材はありがたい。考えることはみんな同じなのでしょう。もやしはこの頃人気です。
 少し前のNHKマル得マガジンでも「もやしでごちそう カサ増しグルメ」というシリーズ回でした。ああもう少し前は同じ枠でアボカドレシピなんてやっていたのに。そのアボカドも昔は100円ほどで買えたのが今は倍の価格になってしまい、なかなか手に取りにくくなりました。マグロの刺身に手が出ないから、代わりに風味の似ているアボカドにしょうゆをかけていたほどだったのに。暮らしが下降してゆき、今までの日常だったものがぜいたくになりつつあります。もともと慎ましくしていた方だけれども、今まで以上に財布の紐をしめなければ。

 今まで以上に財布の紐をしめなければいけないのに、ぜいたくをしました。この春に発売された『朝のあかり 石垣りんエッセイ集』(中公文庫)を買いました。『ユーモアの鎖国』『焔に手をかざして』『夜の太鼓』を底本とし、独自に作品を選定して再編集した一冊です。なにがぜいたくかって、わたしは底本の三冊を既に持っているのです。再編集の一冊に、書き下ろしや未収録作品の収録もありません。再読なら手持ちのものを読めばいいのです。けれども、土筆の描かれた黄色のカバーを書店で見たときに、なにか元気をもらえたような気がしました。思い入れのあった随筆の「朝のあかり」が表題作に選ばれていたのもうれしく思いました。
 夜がきたら、たとえ二つの部屋の片方に家族が集まっていても、あいているもうひとつの部屋を同じように明るくしておきたい。台所も手洗いも、みんな電気をつけておきたい、私は明るさの持つ静かなにぎわいが好きだから。(中略)電灯が宝石のように高価だったら私だって手が出ない。さいわい電気代くらいなら狭い家のこと、全部一晩中つけておいても給料でまかなえるだろう。(中略)「もったいないですって?」一日働いてくたぶれて、あれもこれもしようと思いながら、思い果たさず消し忘れた電灯。「デンキぐらい、なんの楽しみもない私の道楽なのに」と泣き落とした。(後略)/「朝のあかり」
 わたしも朝までずっと蛍光灯をつけています。わたしは一人で過ごす部屋が暗いのが怖いという理由なのでもしかしたら少し違うかもしれないけれど、それでも好きな詩人が自分と同じことをしているという事実に励まされるものがありました。「デンキぐらい、なんの楽しみもない私の道楽なのに」という思いもせつなく刺さりました。
 初読のときは20代だったわたしも、石垣りんが随筆を執筆していた年代にだいぶ近づきました。あの頃に思い描いていた将来からは遠く離れて、今のわたしにより沁みてくる言葉がたくさんありました。この一冊に選定されなかった分も含めて、石垣りんの随筆は折にふれて読み返してゆきたい。また、わたしも文章を書いてゆきたい。ぜいたくしたおかげで、心が奮い立ちました。

  カルピスを牛乳で割るぜいたくを時々はして元気でいます 『にず』

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プロフィール
HN:
おとも
性別:
女性
自己紹介:
短歌とか映画とかこけしとか。
歌集『にず』(2020年/現代短歌社/¥2000)

連絡・問い合わせ:
tomomita★sage.ocn.ne.jp
(★を@に変えてお送りください)
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