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川が好き。山も好き。
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このところずっと通勤ラッシュを外した時間帯での勤務がほとんどなのですが、先日はたまの早番で久しぶりに満員電車に乗りました。
 いつもは、立っていても本を読めるぐらいのゆとりはあるのに、さすがにぎゅうぎゅう詰めの中では両手を下に降ろさないと乗れません。A4サイズ対応の肩掛けのバッグを降ろして、持ち手を両手で持っていると、手の甲が前の人のお尻あたりに触れてしまうんじゃないかひやひやします。
「痴漢に間違われないように電車の中ではスマホを見るようにしている」と、後ろの方から男性同士の会話が聴こえました。満員電車の中でも必死に腕を上げてスマホを見ている人を、通勤のちょっとした時間くらい我慢できないなんてどんだけスマホ依存なのよと、今までは冷めた目で見ていましたが、痴漢冤罪対策でもあったのか。目からうろこが落ちたところで、斜め前でスマホを見ている男性のつき出した肘が、わたしの胸に当っているのでした。
 胸、といっても薄着の夏ならともかくまだ上着を着ていて、たまたま胸の位置なだけで別に肉の感触が伝わってはいないでしょうし、スマホを見るふりして肘で痴漢してやろうなどというつもりでもないでしょう。ま、若くもない豊満でもないわたしの体。たいした価値があるわけでもない。どうでもいい。
 どうでもいい、なんてことはないのか。

 十数年前の20代の頃のこと、葬儀で帰省した山形から仙台へ戻る電車で、わたしはボックス席の車両の端っこの、半ボックス席の窓側に座っていました。隣に、中年男性が座ってきて、コートを脱ぎだしました。それから異常なことが起きました。変だなと思って、気のせいではないとわかって、でも「やめてください!」などと叫んだら何かもっとひどいことをされるんじゃないかって怖くて声も出なくて、せめてもの抵抗としてわたしは持っていたバッグを相手にぎゅうぎゅう押しつけたのですが全然効かなくて、わたしは窓側にいて逃げられず、一時間ほどの乗車時間の間、電車の壁に体を張り付けてただただ耐えることしかできませんでした。
 駅について電車を降りてわーっと自宅に帰って、電話で母に電車での中のことを泣きつきました。母は、あっそ、とか、ふーん、といった感じで、無関心でした。え、それだけ?と、感じました。自分ではひどいことをされたと感じていたのに、まるでなんでもないようにあしらわれました。
 その後、自分でもあんなことはなんでもないことだと思おうとしたのか、「すっごい気持ち悪かった~」と友達に笑いながら話したこともあります。あんなに泣きそうなくらいの、恐怖の出来事だったのに。

 あの時、母に慰めてもらったり、一緒に悲しんでもらえたり、相手を怒ってもらえたりしていたら、なにか変わっていただろうかと、数年経ってから考えるようになりました。自分をもっと大切にできて、誰かに自分を大切にされることも素直に受け入れることができて、自分の人生も変わっていたんじゃないか、なんて今でも時々思い巡らせてしまって、いい年していつまでも引きずってんじゃないよ、なんでも親のせいにするんじゃないよ、もう自分の責任だよ、ってもう考えても仕方なくて、せめてこの先は自分で自分が手ひどく扱われた時にそれを当たり前だと受け入れないように、自分を大切に生きてゆければいいのかなあと、春は残業せずに過ごしているのでした。

  一人ずつ痴漢に遭ったことあるか聞いてわたしを飛ばす女子会

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ベランダの紫蘇の花が終わったので、紫蘇の実を収穫しました。今年はベランダの工事があって、鉢を一時的に日の当たらない場所に移動したりしたこともあり、菜園は不調で、紫蘇の葉もごわごわした出来でした。それでも自分で食べる分には問題なく、充分に夏の食卓をゆたかにしてくれました、紫蘇の実もボール半分ほど穫れ、塩漬けにしました。薬味や彩りに使うつもりです。
 紫蘇の実は、穂先に少し花の残る頃が収穫時です。その前の、満開の頃も可憐でとてもかわいい。けれども、紫蘇の花を花瓶に挿して飾ったり、花束にして人に贈るようなことは、よっぽどないような気がします。少なくとも、わたしはありません。思えば、ナスの紫の花、キャベツの黄色の花、サツマイモのピンクの花なども同じくです。そもそも野菜は、花を摘んだら実が生らなかったり、花が咲く前のところを食べたりします。
 花が美しいのは、受粉を手伝ってくれる虫や鳥の目を引くためだといいます。手折って飾るだけの人間には、花はもとからなんにも期待していないでしょう。それでも、咲いたところに居合わせたからにはわたしは愛でたい、と思うのでした。

  ブーケには選られぬ白い花がすき掃溜菊に蕎麦や紫蘇など

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祖母の初盆なので、お盆は有休を取って帰省してきました。もういろいろ簡略化されていて普通のお盆と変わらない感じですし、お盆にご先祖様が帰って来るというのもよく考えたらよくわからない理屈でもあるのですが、文化や信仰としては味わい深いものです。
 祖母は信心深くて、なにかにつけて「仏様に拝んでだんだ」と言うので、わたしの受験の合格もわたしの運転免許の取得もなんでもかんでも祖母が仏様に拝んだおかげに帰結してしまい、わたしががんばったのにと反発したものでした。
 ふと仏壇になにか立てかけてあるのを見つけて、手に取ってみると、それは祖母の実家のお墓の写真でした。なんでそんな写真があるのか母に聞いてみると、知らないけれど祖母が持っていたとのこと。12歳で母に死なれたと、なにかにつけて言っていた祖母。祖母のいう仏様とは、祖母の母のことだったのでしょうか。祖母の実家にはわたしのはとこが二人いましたが、二人ともお嫁に行ってしまい、祖母が拠りどころにしていたかもしれないお墓もこの先どうなるのか。家より個人を尊重する時代になって、お墓の在り方も変わってゆくのかもしれません。

 お盆の間は市場が休みで、家族は農作物に追われていました。出荷ができないのに野菜は育ち、育ち過ぎて出荷ができないので、食べたり人にあげたり保存したりそれでも間に合わないものは捨てるしかなかったりで、世の中は物価が上がってくるしんでいるのに、野菜が余って余ってしょうがないという現実もあり、変な感じでした。
 農作業の手伝いをわたしもしようかなと思っていたけれども、どうやら間に合っているようだったので、ご飯の支度をしました。ナスは昨日母が漬物にしていたから麻婆茄子にしよう、カボチャは昨日母が煮物にしていたからサラダにしよう、みたいに料理というより夏野菜をいかに消費するかの戦いでした。だしが食卓に並びがちなのも必然です。

 祖父のきょうだいの娘さん達が盆礼に来てくれました。わたしにとってはいとこおばに当たる人達ですが、決まった親戚の集まりにくる人ではないし、わたしも20年ほど実家を離れているので会う機会もほとんどなくて、先日の祖母の葬儀でぼんやり認識したぐらいでした。
 いとこおば達を車に乗せてきたその息子さんはわたしのはとこということになりますが、存在すら初めて知りました。母方だけでも祖父が7人きょうだい、祖母が5人きょうだいなので、父方の祖父母も併せてそれぞれの枝葉を思えば、わたしの知らないはとこがまだまだたくさんいるのでしょう。この初めて会ったはとこは、高齢のいとこおば一人残して婿に行って名字も変わっているということなので、ますます遠縁になっており、この先も親戚付き合いが続くのかどうか。祖母の初盆で来てくださった方々なのに、祖母とは全く血がつながっていなくて、初対面のわたしとはうっすらつながってる、というのが、当然のことなのに不思議な気がしてきます。3人は祖母の写真などを見てひとしきり談笑した後、ネギや糸カボチャをたくさん持たされて帰ってゆきました。

 帰省の最終日の朝に、回覧板がまわってきました。山の方で熊によるスモモの食害跡が発見されたので注意しましょう、と熊の対処法が書いてありました。地図を見ると、「開墾」と呼んでいたうち畑のあたりです。昔は小豆やプルーンを植えていましたが、今はその畑はほとんど何もしておらず、自生したニセアカシアが蔓延っていて少し荒れてしまっています。子供の頃に夏休みに通った野球場も近くにあります。野球だけでなく、キャンプもしたこともありました。テントを張って、ハンモックを釣って、ルールもわからないままドンジャラをやって。今はもうあそこで野球をする子供もいないし、そもそも野球ができるほど子供がいないです。
 人が降りて、熊が降りて、今こそ山が自然に返ってゆく途中なのかもしれません。

  夏の窓にホップ畑は広がりぬ 親戚もみな高卒なりき 『にず』


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春の山形はとてもよかった。満開の桜の向こうに、雪をかぶった真っ白な月山。新しく春の名前を授かったばあちゃんが見せてくれた景色だと思いました。

 祖母の葬儀から半月ほどが過ぎました。なにしろ山形へ向かうのですから、道中で「みちのくの祖母のいのちを一目見ん」みたいな歌をはからずも詠んでしまうのだろうと踏んでいたのですが、東根駅まで行く特急バスのバス停に着いたところ、乗るつもりでいた発車時刻のバスが4月のダイヤ改正で無くなっていて、あわてて隣のバス停に来た山形駅行きのバスに飛び乗り、車内ではガラケーで必死に乗り換えを調べたりして、歌を詠むどころではありませんでした。山形駅でみどりの窓口に相談して、新幹線を使えば東京から来る叔母との待ち合わせに間に合うとわかりました。まさか人生で山形-東根間を新幹線で移動する日が来ようとは。新幹線の窓からは今が盛りの霞城公園の桜が見えて、とてもきれいでした。たくさんの花見客がこちらにカメラを向け桜越しの新幹線の写真を撮っていました。
 なんとか東根駅で叔母と合流し、タクシーで実家へ。地名が田舎過ぎて伝わらず、赤い橋を目印にしてもらいなんとかたどり着きました。

 妹は七歳の甥っ子を連れてくるか迷っていたようですが、これまでのいくつかの葬儀を思い出し、連れてくることを勧めました。無邪気な子供の存在はこうした場を和ませてくれます。実際に、本家のかあちゃんが「よぐ来たなあ~」とよろこんだり、わたしも甥っ子が様々に聞いてくるのへ「天国に行くんだよ」みたいに答えているうちに、そんな楽しげな映像が浮かんできたりするのでした。それにしても、あやしい宗教ではなくいたって一般的な真言宗なのに、一連の儀式やおっさまのお話、お経、仏様の存在なども生きている人の作りごとのようだと思いました。子供に言い聞かせるように、大人も物語の中で悲しみを癒してゆくのかもしれません。
 親戚から、わたしの父は婿に来て一年足らずでわたしの祖父の喪主になったという話を聞きました。今まで続柄がよくわかっていなかった親戚も結構いたのですが、あらためて確認すると祖父の兄弟やその上の世代が婿に行った家など入婿がとても多いです。親戚だけでなく、近所でも多いようです。農村といえば男尊女卑で長男が偉い前時代的なイメージがありますが、意外に世代を遡るほど男性の方が名字を変えて婚家の農業を継いでいますし、長男が外に出て次男三男が継いでいる家もあります。
 わたしも婿を取っていればよかった、と悔やんだのは、祖母を運んだり棺を運んだりする場面で「男性の方、前に出てください」と呼ばれても、高齢男性しかいなかった時です。祖母は痩せてしまって軽いとはいえ、ここでわたしの夫がいれば病を患っている方や杖をついている方に負担をかけさせずに済んだのに。夫がいなくとも女のわたしでも役に立ちそうに思いましたが、なにか儀式的な意味があるのかもしれず前に出られませんでした。
 親戚がたくさん集まって、頭の中の家系図を書き加えながら、その細りゆくことを思いました。わたしの実家はわたしで断絶するし、本家も次で断絶、祖母の実家も、父の実家も、あの家もこの家もいずれ断絶します。家のために子を生むわけではないけれど、先祖代々の田んぼや畑を次世代に繋いでゆけないことが、わたしはとてもくるしい。農作業の合間に肥やし袋を尻に敷いておにぎりを食べるような時間を、自分の子や孫とも過ごしてみたかった気もしてくるのです。わたしがなりふり構わずそうなるように突き進んでいればそういう未来もあったかもしれず、結局は自分が選んできた今なのかもしれません。

 告別式で親類の挨拶などがあれば、祖母との仲からして頼まれるのはわたしだろうという自負があったのですが、泣いて泣いてとてもそんな状態ではないだろうと見越した母や伯母が、挨拶の代わりにわたしの歌集から数首を司会の方に朗読してもらうように手筈をつけていました。セレモニーホールの待合室で葬儀社の方と漢字の読み方などの打ち合わせをしていて、「タイトルがなんのことだかわからなかったけれど、この歌(表題歌)を読んでわかりました」なんていう会話の後、「この本、買えますか?」と思わぬ申し出があり、そのまま差し上げました。
 司会の女性は、たんたんとしていると評されがちな作風のわたしの歌を、情感たっぷりに読んでくださいました。そして「にず」の訛りのアクセントがネイティブで完ペキです。祖母の歌は思ったより少なくて、三首選ぶのに迷いませんでした。これからは、どんなに詠んでも挽歌です。元気なうちに元気な祖母をもっと詠んでおけばよかったと思いました。

 いい時に死んでくれた、と叔母はくり返しました。果樹の仕事がひと段落した時期でちょうどよかったというのです。祖母には果てしなく長生きしてほしかったわたしには、叔母の言葉がなんだか無神経に感じたりもしたのですが、わたしもわたしで来月の歌集を読む会の日にそうなったらどうしようと相当に心配していたので、時期の被らなかった安堵感は確かにあったのでした。また、結社誌の詠草の取りまとめ作業のある20日前後に自宅を数日離れるのも厳しかったので、なんでもない日で、なんだか祖母に渾身の力で空気を読んでもらったようです。尤も、母は予定していた一泊旅行が取りやめになり、祖母に呼ばれて旅行がなくなるのはこれで3度目らしいのでした。
 コロナ禍も落ち着いて遠方の叔母や妹が来れて、とはいえ通夜振る舞いなどの会食は弁当を持たせてお帰りいただくことで縮小できて、いつかの真冬の雪の葬儀に比べたらよっぽど体も楽で、天気が良くて、花が咲いていて、充分に長生きして、葬式代もちゃんと遺して。なんて見事な仕舞いっぷりでしょう。でも、おしゃべりでにぎやかな祖母のもういない世の中を生きてゆくのは寂しいです。

 くり返し「寂しい人生だ」とつぶやけば祖母に「楽しい」と訂正される


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仕事帰りによく寄っていた書店が一昨年の夏に閉店してから、本屋が遠くなったように感じています。少し足を伸ばせば別な書店はいくつかあるのだけれど、仕事帰りのくたびれた夜に足を伸ばすのは少しの距離でもおっくうで、書店への頻度は今では月に一度くらいになりました。代わりにネットショップを活用、というようなこともなくて、遠くなったのは心だ、と感じています。本が嫌いになったわけではないのに。なにかしら常に本を読んでいたいのに。尤も、塔の結社誌を読み切るだけで時間はかかるし、昔買った小説などはほとんど内容を忘れてしまっていて再読したら新鮮だったりして、もともと新刊を追っかけるタイプではなかったこともあり、新しく本を買わずとも間に合ってしまっているところもあるのかもしれません。

 早番の仕事帰りや遅番の仕事前によく寄っていたコーヒー店も一年前に閉店してしまいました。コーヒーを飲みながら本を読んだり、携帯電話や何かの余白に書き散らかした短歌をノートにまとめたりするのは大切な時間でした。もちろん、それほど足を伸ばさなくてもあちこちにコーヒー店はあって、なんなら職場のビルのテナントにも入っています。自分と同じような人があちこちの席でそこそこ長居していて自分がその他大勢でいられるような居心地はなくとも、しょうがない。コーヒーを飲みながら読書や物書きをすることが好きなのは変わらないのだし。

 震災の少し後あたり、この先ああなったらどうしようこうなったらどうしようと未来を悲観して不安になって、日常生活に支障が出るほどに不安感に押し潰されてしまって、不安を落ち着かせる薬などを処方してもらっていた頃がありました。もう服用をやめて数年経ちます。
 ふと、今の自分が、あの頃の自分が恐れていた想像そのままを生きてしまっていることに気づきました。こうなりたくない、と恐れすぎて強く思うあまり、それ以外の未来を思い描けずに、無意識にそうなるように生きてきてしまったのでしょうか。あがいてもあがいてもこっちに戻ってきてしまい、この頃はもうあがく気力もなくて。
 こうなりたくない未来を現実として迎えてしまったのに、あの頃に服していたような薬も必要なく暮らしてゆけています。こんな現実を乗り越えられるほど強くなったわけではないのに、不思議です。不安な気持ちに蓋でもできているのでしょうか。昔より鈍感に、わたしが変わったのでしょうか。考えてもどうせわからないので、とりあえずこのまま生きてみます、できれば少しあがきつつ。
 
  服用の薬の欄は空白になりたり瓦礫のように十年

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仕事の帰り、灯りの少ない夜の道を歩いていたら、背後からハアハアと息遣いが聴こえ、それは次第に大きくなってゆきました。後ろに人がいる、というだけで不安な気持ちが湧き、背中が強張ります。このあたりの道では数年前に通り魔事件が起き、まだ犯人が捕まっていないのです。あの犯人がまだ潜んでいるかもしれない……とは思いませんが、毎日のようになにかと物騒なニュースはあり、どうしたって夜道は怖い。わたしは若い女性じゃないしお金持ちでもないから大丈夫、と思いたいけれども、「誰でもよかった」と言う動機はよく聞くし、夜の闇の中では若くないこともボロを着ていることもよくわからないでしょう。
 早足で逃げようか、つけられているんじゃないか、しばらくの逡巡ののちに思いきって振り返った瞬間、ジョギング中の男性がわたしを追い越してゆきました。まっすぐに前を向いて走って、危険な人でもなんでもありませんでした。ああ、よかった。恐怖から解き放たれて安堵しつつ、何の罪もない人を疑ったり怖がったりして、自分の被害者意識の大きさを申し訳なくなります。

 「セールスなら結構です!」と、仕事でかけた電話を冒頭から敵意丸出しでガチャ切りされることがあります。社名を名乗り、用件を伝えてセールスではないことを説明しても、嘘なんじゃないか、と信じてもらえず刺々しい言葉を投げつけられることも少なくありません。そのような対応になってしまうほどに、しつこい営業の電話や誰かのなりすましのような電話がかかってきているのでしょうか。あなたもそうなんでしょう、と疑う心情は理解できるし、しょうがないことなのかなあと割り切るしかありません。わたしにも副業でマンションを買わないかとか、20万払って短歌を新聞に載せないかとかいう不要な電話がかかってきます。あやしまれてしまうのは仕方ない。変な電話と一緒にしないで、なんて憤る気にもなれず、そういうものだ、と慣れてしまっています。

 先日、塔短歌会のオンライン新年会に参加しました。懇親会のような場で、詠草の送付の際に速達は控えていただければありがたい、という話になりました。速達だと郵便受けへの配達ではなく、郵便屋さんが玄関の呼び鈴を鳴らして手渡しになることがあり、受け取りの手間が増えたりするのです。そもそも事前連絡なしの訪問なんて不要な訪問営業や宗教の勧誘がほとんどだし、強盗事件も怖いし、実家や通販など宅配便などの心当たりがない時は呼び鈴が鳴っても用心して留守のふりをすることが多くなりました。ほんとうに大事な用なら不在票が入るので、再配達をお願いできます。不在票ではなくて地球の滅亡や救世主の冊子が入っていた時は、やっぱり出なくて良かったと安堵するのでした。

 警戒したり、されたり、いつのまにかそうしたことが常になってしまって。人を疑うより、信じて生きてゆければいいのだけど。

  刑務所の方へ沈んでゆく夕陽とても大きなとても真赤な

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「鎌倉殿の13人」の最終回をせつなく鑑賞しました。特に義時と政子の2人のラストシーンは圧巻で、しばらくはこの余韻を大切にしてゆきたいような気持ちです。
 最終回での真のタイトル回収に「そうきたか…!」と感嘆しつつ、でも13人以外に名も無き人だってめっちゃ死んでるじゃん、とも思いました。物語にならなくても一人一人にそれぞれの人生があったはずで、それが志半ばで絶たれたのに、そうした人達の命はまるでどうでもいいみたいに、(あくまでこの物語の主人公からの視点とはいえ)数に入れないということ。
 こんなことが気になってくるのは、わたし自身が主要人物じゃないその他大勢にすぎない現実の中を生きているからなのかもしれません。 

 喪服を買っておかなくちゃ、と、ずっと思っていたのですが、先月末に実家に帰った時に20代の頃に買ったものを着てみたところサイズも合っていたので、新調はしないことにしました。肩パットが入っていてどうにもシルエットが古めかしい感じがしないでもなかったけれども、どうせ何回も着るものでないし、葬儀の場ではわたしが主役ではないのだから着飾る必要もないのでした。
 不格好に見えるのはわたしの体形の崩れのせいもあるでしょう。あきらかに代謝が落ちてきていて、昔と同じように生活していたらどんどん体重は増えてしまうし、二の腕辺りにはもう抗えないほどの中年感が漂っています。無理に若作りをするつもりはないけれど、少しは抗いたい。

 実家に滞在中、東京から日帰りで帰省した叔母と偶然にも日程が合い、8年ぶりくらいに再会しました。わたしがなにげなく「ばあちゃん元気かな」と言うのへ笑顔で「動物だよ」と返してくるのにはびっくりしましたが、姑の介護をしていた経験からの言葉でもあるのでしょう。思い起こせば、叔母は昔から笑顔できついことをさらっと言う人で、昭和の終わり頃にも連日のように健康状態を報道するテレビに向かって何か言っていて、子供心にふるえたものでした。
 コロナ感染対策で、祖母の施設では外から窓を隔てて面会します。外から祖母の部屋に回って窓越しに「こっち見てー」「あー笑ったー」などと声を掛けていると、確かに動物園のようなのでした。介護士さんは祖母に「(母の名)さんと(叔母の名)さんとともみちゃんだよ」と声を掛けて窓の外を見るように促していました。きっと祖母に合わせてわたしはちゃん付けにされているのでしょうけれど、介護士さんよりわたしの方が年上そうでした。介護士さんはいつも感じが良くて安心します。どんなふうになっても、祖母には生きていてほしいと思いました。
 ほとんど会えなくとも、会えても以前のような祖母でなくとも、祖母が生きているということがわたしの心の支えの一つです。全然良いばあちゃんでもなかったのに。

  窓ガラス越しでも会えてよかったな会えたというか見たというか

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8月の終わりに、山形に帰省しようと思ってお盆を外して3連休を取っていたのですが、帰ったところで祖母との面会が難しそうだったので、予定を変えて帰省せずに過ごしました。遅い夏休みのつもりで、有意義に過ごせれば良かったのですが、1日目、2日目はほとんど眠ってしまいました。疲れていたのでしょうか。かろうじてスーパーに買い出しに行ったくらいです。最近は鶏むね肉の1kgパックを買って一気に照り焼きにして冷凍と冷蔵で保存しつつ丼にしたりパンに挟んだりサラダにしたり。自家製サラダチキンよりは保存が利いていろいろ使えるという実感です。
 3日目には京都行きに備え美容院の予約を入れていたのですが、2時間前くらいに電話がきて美容師さんの体調不良とのことで急遽別な日に変更することになりました。残念だけれど、このご時世なので仕方ないです。出掛ける心の準備を整えていたところだったので、勢いのままに3月の地震の片付けをしました。本棚の本がほとんど床に落ちたまま、本棚も地震で浮いてズレた場所に落ちたままのぐちゃぐちゃ具合だったので、部屋の模様替えぐらいの大仕事で、汗だくです。まだ全然きれいな部屋にはなっていないけれど、床が見えるようになったので、だいぶすっきりしました。部屋のみだれは心のみだれ。自分で散らかした時とはまた違う、地震という不可抗力で崩れた部屋と心でしたが、少しずつ、立ち直ってゆきましょう。

 コスモスが咲き始めました。もう秋です。

  炊飯器床に落ちれば床の上でおにぎり作る余震またくる

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昨日は晴れていたけれど、コインランドリーの帰り、自転車のハンドルを握る手が冷えて、これから雪が降るかな、と思いました。肌で感じる、雪が降る前の空気です。
 夜が明けたら、ベランダの手すりに夕べから振り始めた雪が積もっていました。外に出れば、春はまだ遠そうな雪景色です。
 こんな日に子が生まれたら、迷わず「雪子」と名付けるでしょう。

  晴れた日は晴子、雪降りなら雪子 生まぬ子の名を考えており   『にず』

 わたしの父は「ゆきお」という名前です。漢字が違うので、名付けの由来が雪だということは、つい最近父に聞くまで知りませんでした。そういえば父は冬生まれでした。ついでに言えば父の兄は「朝男」で、その線で行けば、もしかしなくても朝に生まれたのでしょう。わたしは、『鉄道員(ぽっぽや)』で雪の降る日に生まれた娘に「雪子」と名付けるシーンがとても好きで感銘を受けたのだけれども、実は父方の祖父母譲りのセンスだったのか。しかも「雪」だと画数が多いので簡単な漢字にした、というめんどくさがりっぷりも、確実にわたしは受け継いでいます。由来も不明で画数の多いキラキラネームを自分の子に付けてしまった妹とは違うところです。
 わたしは母方の祖母とその姉夫婦と同居していたため、父方の祖父母とは関わりが少し薄くなってしまっていたのですが、こんなふうにわたしの中に父方の祖父母の要素が息づいているのだ、と思うと不思議な感じがしました。

 今期の朝ドラ「カムカムエヴリバディ」は3世代に渡る百年の物語で、3人のヒロインはそれぞれ自分の人生を生きているのだけれども、視聴者であるわたし達は、ああ、こんなふうに受け継がれてゆくのだ、と神の視点でながめることができます。物語も終盤に差し掛かり、これからなにか大きな伏線の回収が待っているのかもしれませんが、今の段階で感じ取れる程度の、ことさら誰々の血筋がどうとか押しつけがましくない程度のバランスが心憎いように感じています。
 ノンフィクションの話でも、武士から華族から現代の要人に繋がってゆくような層々たる家系図にはロマンがあります。また、NHKで時々放映される「ファミリーヒストリー」のような市井の人々の命のリレーにもとても惹かれます。番組の性質上、最終的には著名人にたどり着くけれども、その親世代、祖父母世代の一人一人の庶民としての人生の営みもかけがえなくて尊い。この世の誰もが、そのような縁の繋がれた先で生きています。わたしも。

 一週間ぐらい前、父の叔母が105歳でご存命だという話を聞きました。父方の親戚に疎くて会ったこともたぶんないけれども、とてもありがたいような気持ちになりました。寒い日が続きますが、お元気でいてほしいです。

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一〇〇〇円の時には受けたオプションの乳がん検診今年は付けず  「踵を上げて」/現代短歌2021年5月号

 オプション料金が以前より高くなっていたので、定期健康診断ではスキップしてしまいましたが、その後、一定の年齢につき市から無料クーポンをいただいたので、検査してきました。夏に申し込んで検診日が年明けなのだから、よっぽどたくさんの人が受けているのでしょうか。廊下の待合椅子には他にも何人か順番待ちをしていて、ここにいるみんなが同じ年齢の女性なのかと思うと、なにか不思議な気がしてきます。待ち時間に『女性とジェンダーと短歌』を読みました。持ち運びやすいソフトカバーの本を、と選んでバッグに入れてきただけだったのに、よく考えたらなんだかつきすぎです。

 これまでただ寝てるだけのエコー検査は受けたことがあったのですが、マンモグラフィーは初めてです。「手を上げてくださ~い」「肩を合わせますね~」と女医さんに指示を受けながら、「右のお胸は押さえてもらってていいですか~」といったふうに、乳房は「お胸」と呼ばれるのになにかおかしみを感じました。
 短歌では当たり前のように詠われていても、わたしは実際に「乳房」などと日常会話で声に出して言うことはないし、人が言っているのを聞いたこともありません。これは書き言葉だな、とあらためて確信しました。以前、女性主人公の一人称で進む小説で「私の乳房に」みたいな表現を見た時も違和感を覚えたのでした。「私の――」って、モノローグだとしてもそんなふうに自分の体を言う人いるかな。いるのかもしれないけれど。これが三人称で「彼女の――」「○○(名前)の――」であれば全く気にならないのに。
 手を「お手て」、肩を「お肩」と丁寧に言う以上に、「お胸」に漂う丁寧さはなんなのでしょう。痛くされるからなのでしょうか。まだ痛いです。

 検査が終わって階段を降りていたら、エレベーターを待つ車椅子のおばあちゃんと若い男性職員の優しい会話が聴こえました。わたしの祖母もあんなふうに優しくしてもらえているといいな、と思いながら病院を後にしました。

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プロフィール
HN:
おとも
性別:
女性
自己紹介:
短歌とか映画とかこけしとか。
歌集『にず』(2020年/現代短歌社/¥2000)

連絡・問い合わせ:
tomomita★sage.ocn.ne.jp
(★を@に変えてお送りください)
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