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川が好き。山も好き。
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5月の白石市の全日本こけしコンクールが、新型コロナウイルス感染拡大防止のために中止と聞きました。楽しみにしていたので寂しいです。会場で密集して並んでいるのは主に人ではなく、人に似たこけしなのに。こけしも人として数えられてしまったのでしょうか。残念ですが、健康あってのものですのでまたの機会を楽しみにしましょう。

 通勤の道にオオイヌノフグリが咲き始めました。小さな花がとてもかわいい。近づいて見れば花畑のようです。誰かが育ているわけでもないのに、と思うとなんだかほんとうに不思議です。オオイヌノフグリにハコベ、ヒメオドリコソウ、足下が華やかです。つくしも顔を出し始めました。
 行きと帰りは別の道ですが、帰りの道では梅の木と柳の木の側を通ります。梅は夜ごとに花が開いてゆき、冬の間は紐がぶら下がっているみたいだった柳の枝も日に日に緑を増してゆきます。
 各地のお花見の名所も今年は自粛ムードですが、道端の花見も楽しいものです。

 つくしの背の伸びゆくことを唯一の楽しみとして日々通勤す


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葉のすっかり落ちた冬木にほんの小さな芽が芽吹きだして、枝々が緑のもやもやに包まれているような、この時期の木を見るのが好きです。梅や桜の小さな蕾で薄紅のもやがかった木も。朝の自然光の中で見る木も、仕事帰りの闇の中で街灯に浮かび上がるもやもやの色もいい感じなのです。

 同僚さんが「次の歌会始の題は<実>なのよ。真実の愛を詠んでもいいのよ」と楽しそうでした。その人は普段から短歌を詠んでいるわけではなくて、歌会始だけ応募するといいます。初めてそのことを聞いた時は、そのような短歌との関わり方もあるんだ、と新鮮でした。「選ばれたら松の間でローブデコルテを着るわよ」と、冗談なのか本気なのかよくわかりませんが、楽しそうです。
 皇室と短歌については、先日「短歌研究」でも特集を読みました。いろいろ思うことがある人もいるのでしょうけれども、わたしは地元の山形の県民歌が昭和天皇の御製で幼少の頃から幾度となく歌い、愛着のようなものがありました。また、今上天皇陛下が少年の頃に書いた作文で百人一首の「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」を引用していたり、友人に送った年賀状に自作の短歌を記載していたりのエピソードに素直に好感を抱いたりしました。難しいことはよくわからないのでした。

 福祉施設に勤めていた頃、利用者の中に短歌を詠むおばあちゃんがいました。おばあちゃんは、施設のレクレーションで公園にお出かけをした後に、お花の印刷されたきれいな色紙に5首の連作を書いて持ってきました。お出かけのうれしさや草花の描写、職員さんへの感謝の気持ちの伝わるすてきな連作でした。しばらくの間施設に飾ってあったので、「いいな…」と何度もながめながら、わたしの目指す先はここだ、と思いました。自分がおばあちゃんになった時にそんなふうに詠ってたい、と今でも思い出します。おばあちゃん、なんて言ってしまっているけれど、それなりの経歴のある歌人の方だったのかもしれません。わたしは介護士ではなかったため、お話する機会があまりなかったのが心残りです。

  ぷくぷくと蕾が枝に湧き出して空の体積を少し減らしぬ

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3連休とはいえわたしはそのうち2日は仕事です。公共交通機関が休日ダイヤになっているのを忘れないようにしないと。この頃は通勤も物々しい雰囲気です。暖かくなったら関東の妹のところに遊びに行こうかなと考えていましたが、東北でもこんな感じだと向こうではそれどころではないのかもしれません。
 
 朝ドラ「スカーレット」、結局もういちど家族には、少なくとも法律的にはなっていないと受け取りました。これまでのぎくしゃくした関係からは抜け出して、あたらしい関係を築いてゆくといったところでしょうか。尤も、数年後に飛んですっかり夫婦に戻っている可能性がないわけでもないので油断できません。

 油断できません、ってなんでしょう。内心、復縁しないことを期待している自分がいました。その方が、物語としておもしろいように思っていたのです。おもしろい、という言い方は正しくないのかもしれませんが、成功と引き換えに大切なものを喪った傷みや、これまで蓋をされてきた息子の寂しさ、中年女性の孤独感など、自分を通した結果の人生にしみじみ思うものがありました。ここで何もかもうまくいき出したら、少し興覚めしてしまうでしょう。

 物語としては、全てを手にしない方がおもしろくても、現実の人生はハッピーエンドの方が絶対にいいとも思います。仕事は順調、愛は成就、家庭は円満、大病も奇跡的に回復、健康で長生き、素直な人格者となって優しい人に囲まれみんなに愛されて、みんな誰もがご都合主義なくらいご都合主義で構わない。
 良い歌が詠めたからつらい目に遭っても報われた、とはなりません。いくら褒められたとしても、切ない歌や寂しい歌なんて詠まずに済んだ人生の方が絶対にいいと思うのです。

  しあわせになったらあなたはつまらないと上野駅にて言われておりぬ

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朝の連続テレビ小説「スカーレット」の、今週の副題が「もういちど家族に」です。なんだかネタバレっぽいですが、そういう展開になってゆくのでしょうか。久しぶりに再会して敬語でよそよそしく話す喜美子と八郎さんを寂しく思うのは、出会いから結婚までをまるで恋愛ドラマのように丁寧に描写していたからなのか、特に喜美子のお父さんに結婚を許してもらうために何度もお願いをしていた頃などは、強烈なお父さんのキャラクターも相まって愛の絶頂期ではなかったでしょうか。
 お父さんが去り、妹たちが去り、夫が去り、子が去り、お母さんが去り、40代の喜美子が一人でご飯を食べる場面は、家の中がやたら広く感じられます。にぎやかな頃を知っているからです。陶芸家として成功している喜美子ですが、これでよかったんだろうか、というような気がしないでもありません。

 穴窯に憑りつかれている頃の喜美子は怖かった。何度も失敗して大金を失って危険な目に遭って、心配している夫の八郎に反対されても心を曲げず、ついには息子の学費に手を出そうして、八郎は家を出て行ってしまいました。
 無茶な喜美子を幼馴染の照子も怒っていましたが、その昔、恋人とのお出かけより2週も続けて歌会を選んだわたしは喜美子のことをまったく責められません。えぐられるように、苦い気持ちを思い出しながら見ていました。喜美子はその後、穴窯が上手くゆき陶芸家として大成しましたが、わたしは別に短歌がどうにかなったわけではないし、このことだけが原因ではないのでしょうけれど、しばらくして恋人にも捨てられたのでした。当時はそんなことになるとは知らず、のんきに道中にこんな歌を詠んでいました。

  逢引きの誘いを蹴って歌会へと向かうわたしよ 行き遅れるな

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わたしの部屋がこんなに散らかっているのは本のせいだと決め込み、思い切って大きな本棚を買いました。組み立て式の本棚が自宅に届き、これでやっとスッキリするぞ、と期待しました。が、思わぬ落とし穴がありました。「必ず二人以上で作業してください」と、説明書に太字で注意書きがありました。

 こういう時にわたしにも兄がいたらよかったんだろうか。と、考えたのは昔の元同僚さんが「何か困ったことがあるとお兄ちゃんを呼んでる。いつでも夜中でも駆けつけて来てくれる」と言っていたのを思い出したからです。
 デートをしていたら親が付いてきたとか、外泊したら警察に失踪届を出されたとか、許しを得られなかったので家出をして一人暮らしを強行したとか、その人の家族の過保護ぶりは雑談の時の定番ネタでした。割と放任主義で家を出ることを望まれて一人暮らしになったわたしは、まるで別世界の話のように聞きながら、「愛されてるね」と何度も相槌を打ったものです。

 生育環境の違いは思わぬ時に影響を及ぼします。震災の翌朝、わたしとその当時の同僚さんは、それぞれ別の人に車で自宅に送られることとなりました。わたしは自宅アパートの前で降ろしてもらい、めちゃめちゃになった部屋を一人で片付け、トイレを借りに役所に行ったり来たりしつつ、夜は避難所に行って冷たい床の上で眠りました。
 同じくらいの年齢で同じ時間に同じように同じ場所を出発した同僚さんは、その後を同じようには過ごしていませんでした。自宅アパートまで送ってもらった後、送ってくれた人が部屋の中まで片付けてくれ、こんなところに置いてゆけないと心配され、みんなと一緒の所へ引き返していたのでした。

 片づけを手伝ってほしいと頼んだのか、自主的に世話したのか、詳しい話は聞いていません。この際どちらでも同じようなものでしょう。それぞれの送ってくれた人の人柄の違いや相性もあるでしょう。けれども、組み合わせが逆だったとしても結局わたしは一人で避難所に行く流れになる気がしました。愛されて育った人特有の可愛げだとか素直さだとか守ってあげたくなるような雰囲気だとかそういうものがわたしには足りなくて、そうした人格形成の差がこういう非常時に運命を分けるのだ、と知りました。尤も、大きな被害に遭った人がたくさんいる中で、わたしの個人的な小さな衝撃なんて些細なことに過ぎません。命が助かっただけでもう充分にわたしは幸運な側にいるのでした。

 本棚は一人で組み立てました。一人の腕の力では重くて持ち上げられなかった物も、腰を下げて肩に担ぎ、背負うようにすれば、どうにかなんとかなりました。自分の身長より高くなった本棚に、床いっぱいの本を収めてゆきました。ずっとこんなふうに生きてきたし、ずっとこんなふうに生きてゆくのかと思いました。窓の外はすっかり夜になっていました。

  「たすけて」とときどき叫びたいけれどあの日のようにまたがまんする

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朝起きたら、昨夜の大雨が嘘みたいに晴れていました。台風はすっかり過ぎたみたいです。わたしは幸い自分の体がずぶ濡れになったぐらいで済みました。とはいえ、各地の被害状況などをニュースで見ると胸が痛みます。

 昨日は仕事でした。前日には「無理をして出勤しないように」という連絡がありました。実際に、交通事情で休みの人や、運休時間前に早退して帰宅する人もいましたが、わたしは特に影響なさそうなので予定通りに出勤です。朝はそんなに雨も降っていなかったので、少し甘く見ていたのもあります。仕事中に、翌日の歌会の中止のメールが来ました。残念だけどしょうがない。
 ほぼ定時で仕事をあがり、雨の中を10分ほど歩いて駅に着くと、バス停は閑散としていました。街中だというのに、デパートもドラッグストアも早々と閉店しています。いつもより薄暗い街に、バスの灯りが煌々としていました。

「ただいまー。雨すごいよー。わたしともう一人と運転手さんしかバスに乗ってなかったよ、こんなの初めて。街も暗くて、みんな休んでるのに、こういう時って運転手さんは大変だよね。レインシューズ履いてったけど、道路も水浸しでもうだめ、靴下もびちゃびちゃ。傘も全然役にたたなくて、早く着替えなきゃ風邪引いちゃう。あ、ベランダの桃の鉢も部屋に入れててくれてありがとう。え、お風呂沸かしてくれてるの? ご飯もできてるの? やったー!」
 、とかなんとか帰った時にこの状況を分け合える相手がいたらいいのになあと思うけれども、一人暮らしなので昨日作っておいた親子丼とわさび菜とツナのサラダを冷蔵庫から出して食べました。するうち実家の母から「停電になった、あ、点いた」と電話が来たので、こっちもこれから停電するかもと思い、備えの確認をしました。懐中電灯も、LEDのランタンも、ろうそくも、カセットコンロも、非常用トイレも、なんだかんだで揃っています。震災の時に揃えてリュックに詰めていたのでした。

 雨風の音はどんどん強くなってゆきました。サイレンは聞こえるし、携帯電話に不安を煽るような音で市からの避難指示や避難勧告が何度も届きます。テレビの台風情報で各地の被害状況を見るにつけ、あの人は大丈夫かな、この人は大丈夫かな、と心配になりました。
 けれども、心配だからといって連絡をして向こうの携帯電話の電池を消耗させてしまったら申し訳ないという配慮が先立ちます。停電して充電ができないような状態だったらわたしとのやりとりよりもっと大切な人にその貴重なエネルギーを使うべきだし、わたし以外の人からたくさんの心配の連絡が来ていて連絡に追われて大変かもしれない、家族など大切な人と身を寄せ合っているところに水を差すかもしれない、などと思いめぐらせ、結局は今は遠くから祈るのみにとどめました。
 言葉で伝えてはいないからといってなにも思っていないわけではなくて、案じています。みなさん無事でありますように。

  言葉ほどあてにならないものはなくそれでも言えばよかった言葉

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少しずつ、8月を振り返ってみたく思います。

 お盆の頃に、小学校の同窓会に行きました。10年くらい前にも案内が来ましたが、返信しませんでした。その数年前の成人式すら出ませんでした。理由はたった一つ、会いたくない人がいたからです。
 小学校の頃に別に仲良くもなかった人が、中学校で同じクラスになり、クラス中にわたしの悪口を吹聴するようになりました。わざと聞こえるように言われたこともあります。誰もかれも、声の大きいその人に流されているように思えました。尤も、わたしにも嫌われる要因はあったのでしょう。性格もひねくれていたし、身なりもみすぼらしかったような気がします。同じクラスには、目に見えてもっと派手にいじめられている人がいたので、先生の問題意識はそのわかりやすいいじめられっ子の人にしかなく、わたしのことは気づいていないようでした。別なクラスに「気にすることないよ」と言ってくれる友達がいても、部活が楽しくても、多感な年頃で、しんどい2年間でした。

 救いは、成績が違っていたので、高校が別々になったことでした。けれども、嫌われる自分であるという意識はこの頃から今に至るまでずっと消えず、人に対して警戒したり不安を覚えたりしてしまうし、自己肯定がうまくできないという典型的な後遺症が続いています。自分に好かれても迷惑じゃないかという慮りが先立ち、男女問わず、誰かに好感を持ってもそれを伝えるのは苦手です。

 同窓会に行こうと思ったのは、小学5、6年の担任だった先生の定年祝いという名目だったからです。先生にはお会いしたいと思いました。先生には、小学校卒業後も何度か年賀状をいただきました。集まりが悪いと聞いていたので、会いたくない人も来ないかもしれないと期待しました。もし嫌な思いをしても、それもまた人生だろうという変な開き直りもありました。

 少し歩いただけでも汗だくになるほどの当日、地元の商店街の宴会場に着くと、もうほとんどみんな席に着いていました。集まりが悪いと聞いていたから5~6人くらいしかいないのでは、と予想していたのが15人以上は出席なのでした。全員集まっても27人なのだから、それなりの出席率です。中には保育所から高校まで一緒だった人もいますが、さすがに20年ぶりともなれば誰が誰だかよくわかりません。
 名札を付けて席のくじを引くと、乾杯の係に当たっていました。「乾杯!って言うだけでいいから」と促され、これもまた人生と思い引き受けます。幹事さんによる開会の言葉の後にその役目は回って来ました、突然のことで気の利いた言葉も浮かばず、挨拶もそぞろに「乾杯!」とコップを掲げました。
 会いたくないな、と思っていた人も来ていました。わたしにした仕打ちなんてなかったかのように「久しぶり!」「中学の時も同じクラスだったよねぇ!」なんて言ってくるので、わたしは「え~? 覚えてない~」と何度も笑ってすっとぼけるのでした。

  「食物」の教科書われにゆずりたる同級生のその後を知らず

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10日ほど、体調を崩して寝込んでおりました。8月は同級会で地元に帰ったり、5時間ほどの映画『東京裁判』を映画館に観に行ったり、塔の全国大会で京都に行ったり、お盆休みのない中をなんとか休みをやりくりしていたので、疲れが溜まっていたのかもしれません。夏の間、職場の冷房が効き過ぎていて寒いくらいで、外との寒暖の差にもやられている気配はありました。それまで張りつめていたのか、一旦崩れるとぐずぐずみたいで、早く本調子に戻りたいです。

 職場に欠勤の連絡を入れると「病院に行ってくださいね」と言われますが、40℃の熱があってふらふらでただひたすら寝てたいのに身なりを整えて外出なんてできないよ、と心の中で思います。救急車を呼んだり、タクシーを呼んだりすればいいのでしょうか。よっぽど命に係わる重病ならともかく風邪で救急車なんてと、やっぱり躊躇します。寝てれば治る、との思い込みも強いのかもしれません。
 一人でぐったり寝ていると、何十年もの時が経って今の自分はおばあちゃんなんじゃないかと錯覚してきます。おばあちゃんになってもわたしはこんなふうに、熱がある時でも自分でおかゆを煮るために台所によたよた立つのかもしれない。おばあちゃんになってもわたしは食材入れにいつか買っておいたポカリスエットの粉を見つけて、「ああ外に買いに行かずに済んでよかったなあ」って麦茶用のポットに菜箸で溶くのかもしれない。熱に浮かされて、わたしはわたしの思い描く未来へタイムスリップをしているのでした。

 数日して落ち着いてから医者に行きました。飲み終わる前に治ると思うけど、と5日分の薬を出してもらいました。飲み終えても声がかすれたままです。このままハスキーボイスになったらどうしよう。とりあえず、「ボヘミアン」でも歌おうかと思います。

  医者へ立つ気力なければ発熱の日々を一人で寝て過ぎるなり

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近所の八百屋さんに行ったら、八百屋のおじちゃんが「ぶどう200円にするから買ってよ~」と言うので、買ってしまいました。デラウェア2房で200円はお買い得。わたしはデラウェアがとっても好きなので、思いがけずありがたいことでした。
 八百屋のおばちゃんは、お会計の時にいつも調理法を教えてくれます。今日はニラを買ったので、ニラと何かの野菜のタラコ炒めという斬新なレシピを教えてくれました。昨日作ったそうですが、ニラの他に何の野菜を使ったのか忘れてしまったそうです。タラコで味付けをするというのならジャガイモかな~と思って聞いてみましたが、どうやら違うようです。他にいけそうなのはキャベツとか、タマネギあたりでしょうか、謎です。せっかく教えていただきましたが、ニラ玉にするか、一緒に買ったナスと甘じょっぱく炒める予定です。

 「お姉ちゃんはもう行くよ」と、八百屋さんの駐輪スペースに、買い物を終えたらしい姉弟がいました。10歳になったかなってないかぐらいの女の子が呼びかけると、男の子は「ぼくまだいる」としゃがんで石で遊んでいました。「何がおもしろいの」と女の子は呆れているようでした。呆れているようでしたが、ちゃんと男の子を待っているのでした。お使いでしょうか。なんだか懐かしいような光景です。

 わたしにも、自分のことを自分で「お姉ちゃん」と呼んでいた頃があったのを思い出しました。誰かに、「お姉ちゃんという一人称を使いなさい」と指示されたわけでもないのに、妹や弟に接する時にそう言うようになりました。どういう経緯でそうなったのか覚えていませんが、自然にそう自称してしまうような流れや、わたしの心の動きがあったのだろうと思われます。
 自から自分のことを「お姉ちゃん」と言い始めた田舎の小さな女の子を思うと、自分のことなのに、なにかかなしいようないじましいような気持ちになるのでした。

 ある人の会話の中で「お姉ちゃんが」「お姉ちゃんが」と頻出していて、その人の姉のことだと思って聞いていたら、何人かいるお子様の中の、高校生の長女さんのことだった、ということがありました。「仕事で遅くなった時はお姉ちゃんが夜ご飯作ってくれてる」などという話に、妹一家の食事の支度をお姉様がしているの?って不思議に思っていたので、腑に落ちました。
 お母さんの姉ではないのに、お母さんから「お姉ちゃん」と呼ばれる長女さんは、家庭の中で「お姉ちゃん」という一人称を使っているのではないでしょうか。一番下のきょうだいはまだ幼稚園児だそうです。長女さんが面倒見のいい優しい女の子だということが話からは伝わってきますが、長女さんが「私はお姉ちゃんなんだから」と自分に言い聞かせて無理はしていないか、他人事ながらちょっと心配になったりもするのでした。

 妹や弟が大きくなってくるにつれ、わたしが自分を「お姉ちゃん」と呼ぶことはなくなりました。

  赤子なるいもうとの子と話す時のわれの一人称の「おばちゃん」

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先日は甥っ子の四歳の誕生日だったので、タンバリンを送りました。妹からお礼の電話が来て、「喜んでる?」と聞くまでもなく、受話器向こうからシャンシャンパンパンと音が聴こえてきます。

 わたしは人を呼び捨てにすることが苦手なので、妹と弟しか呼び捨てで呼んだことがなかったのですが、甥っ子のことは自然に最初から呼び捨てで呼んでいました。甥っ子は妹や妹の旦那さんにはニックネームで呼ばれているし、母や他の親戚、周囲の人からは君・ちゃん付けで呼ばれているようだし、わたしにしか呼び捨てで呼ばれていないような気がしています。

 少し前、野球の応援歌の歌詞の「おまえ」が不適切だと自粛のニュースがありました。繊細過ぎやしないかなあ、と思いながらも、よくよく考えたらわたしも人に「おまえ」なんて呼ばれるのは気分が悪いし、同じように感じる野球選手がいるのも当然なのかもしれません。野球選手なんだから、男性なんだからそれくらい、なんていうのは今の時代ではきっと差別やハラスメントにあたるのでしょう。
 わたしが「おまえ」と呼ばれても気にならないのは、昔からそう呼ぶのが当たり前になっている親や祖母、地元の地域の目上の人くらいです。地元は母世代だと女性でも「おれ」と言うような荒っぽい方言なので気にならないのかもしれません。そういうところで育っているせいか、わたしも妹や弟、犬だけは「おまえ」と呼んでいました。自分の普段の言葉からは出て来ない単語なので、たった3件とはいえわたしが「おまえ」と言うなんて、と今さら自分でびっくりしてしまって不思議なのですが、沁み込んだ方言は勝手に出てしまうのでどうしようもないのでした。
 甥っ子のことも「おまえ」と自然に呼んでいました。妹や甥っ子は関東方面に居るので地元ではないし、年に1回会うか会わないかぐらいですが、身内の目下の者だと認識しているのか、もしかしたら犬のように思っているのでは、と自分の深層心理も興味深いです。尤も、関東で今の時代を生きる甥っ子からしたら「失礼なおばちゃんだなあ」と思われるかもしれません。

 甥っ子が電話口に出て「ありがとう」と言いました。と、いうより言わせられている気配もするのですが、続けて「気に入った」とも言いました。「気に入った」なんていう言い回しを、四歳児がするかなあと首を傾げたくなりましたが、ちょっとおもしろかったのでそれはそれで素直に受け取ることにします。

  恋人を「おまえ」って呼ぶ女子高生と二〇時のバス停に列なる

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短歌とか詩とか本とか。
(文末の短歌は既作から拾ってくるので本文と直接は繋がってなかったりもしますよ。)
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