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川が好き。山も好き。
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塔9月号、800号記念特集、座談会や評論ずっしり読み応えあり、アンケートの匿名ならではの本音感もおもしろかったです。敬称略です。

  どくだみの根を抜いてゆく快感は根を抜かれゆく快感に似て  花山多佳子

 根を抜かれゆく快感とは。そんな経験ないのに不思議な比喩に妙に納得して、雨上がりの湿った土のからだから根を抜かれたくなってしまう。

  木の陰に待ちゐし父を面影にたたせて荒れし庭に入り来ぬ  仙田篤子 

 ご実家を手放す一連。面影が見えるのではなく、自分でたたせているというところに覚悟のようなものが見えます。

 「生きたい」と不意に湧ききて錠剤をひと粒のんで接種会場へ  立川目陽子

 少し元気のない時があったのでしょうか、不意に生きたい気持ちが湧いてからの行動力、特に錠剤のくだりに実感と迫力を感じます。

  終戦の年に一年生ですよ教科書なんぞなんにもなくて  渡辺のぞみ 

 定型にきっちりおさまっているのに、語り部の自然な語り口そのままのよう。結句の言いさしもリアルで胸に迫ってきました。

  となり家の二歳児泣けばもっと泣けその元気欲しもっと泣けもっと  相馬好子

 命令系とリフレインが激しくも、優しい。二歳児の元気な大泣きに、心の中で発破をかけているのでしょう。

  スイッチを入れればオウム返しするクマに「がんばれ」三度言わせる  山田恵子 

 <形容詞過去教へむとルーシーに「さびしかった」と二度言はせたり/大口玲子『海量』>の歌が下敷きなのでしょう。癒しの玩具であるテディベア。オウム返しさせるために自分で最初に言った「がんばれ」があるということ。

  完治せぬ病をやうやく受け入れぬあぢさゐの花あふれ咲く日に  杉之原壽美

 上の句と下の句のつながりに惹かれるものがありました。気持ちが動いたその日に、あじさいが咲いてた、それだけのことかもしれないけれど。

  六月のカレンダーのまっさらに田植えの予定を太く書き込む  高原さやか 

 なんとも気持ちの良い歌です。まっさらなカレンダーが田植え前の田んぼのようでもあり。

  走って走って黄色いバスに乗れた人よかったねえと遠くから見る  寺田慧子

 作者と一緒に、走っている人を見守っているような気持ちになりました。「黄色いバス」が効いています。

  十四歳迎えてすぐの暑い日に戦争敗けて飢えていました  西村美智子

 下の句の率直さと舌足らずな詠いぶりが、遠い過去のこととして物語化されているような雰囲気もいじましい。

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塔8月号を読みます。敬称略です。

  シャッターを切りしは誰であつたらう笑顔の私が抽出しより出づ  大塚洋子 

 自分の笑顔を写真の中に残してくれたのは誰だっただろう、自分は誰に向かって笑ってるんだろう、といような。抽出しは実物でありながら記憶の抽出しでもあるのでしょう。

  うねうねと風呂の鏡に指で書く路線図に子は駅を足したり  澤村斉美

 ほほ笑ましい親子の入浴光景だけれども、どこか暗示的な歌でもあります。通過したり乗り降りしたり出会いや別れの交錯する駅が、お子様の手で書き足されました。

  菜の花忌のポスター貼らるる駅出でて記念館へと菜の花に沿う  伊藤文

 駅のポスターは旅心を誘われる。菜の花忌を記念する記念館への道沿いに菜の花を植えるという、人の心のシンプルさが気持ちいいのです。

  五年前二回休みて登りたる梅ヶ渕の坂けふは休まず  上大迫チエ

 数字の具体性の説得力や、地名の固有名詞の味わい。結句の否定形がなにかいじましく、五年前よりお元気でいるということもうれしい気分の読後感にさせてくれます。

  施設では食べられぬ刺身フルーツを買ひ足し母の帰るを待ちおり  江原幹子

 施設では刺身は感染症予防、フルーツは特定の制限がある方には生でお出しできず缶詰で代用したりなど気を付けているのですが、それよりもう好きなものを思う存分食べてほしいという心なのでしょう。考えさせられます。

  しゃぼん玉ゆらりと我を離れゆく山を歪めて海を歪めて  廣鶴雄

 自分の息を吹き込んで放たれたしゃぼん玉に歪んで映る山や海、実景なのでしょうけれど、なにか心が映されているようで、言いさしの結句にも余韻が残りました。

  母の日にプレゼントをくれし嫁も娘もみんな母になり庭にバラ咲く  宮脇泉

 息子のお嫁さんと実の娘が並列に詠まれているところに心を感じます。一男一女を授かり、それぞれが婚を成して子を設け、バラ咲く庭のある家に暮らして歌を詠む、という暮らしの健康さがまぶしい。

  手作りのカードにならぶ四匹のクマには四つ吹き出しがあり  岡部かずみ

 一読してただごと歌のような味わいですが、そもそも喋れないクマに言葉を発させているのがよく考えたらシュール。クマに託さず自分で伝えてほしいという思いもあるのでしょうか。

  短い方のポテトを君が食べるから長い方ばかり僕は食べてる  近江瞬

 ポテトの食べ方にも関係性が表れるのでしょう。長い方を相手に残すことが思いやりのようでもあり、長い方がしなしなになっている気もしたり。

  わがままな子は幸せになれないと諭しぬ少し疑いながら  中込有美

 もちろん道徳的には自分中心で人を思いやらないようではいけないのだけれど、そう諭すけれど、ほんとうにそうだろうか。実際は散々人を振り回して迷惑をかけてもわがまま放題に生きている人の方が幸せそう、と気づいてしまった。優しい人が幸せになれると信じたいけれど。

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夏が終わりそうで終わらないです。塔7月号を読みます、敬称略です。

  染めをやめ真白となれる母の髪エリザベス女王みたいと褒めおく  小林信也

 お母様世代の方の気分を良くさせるための言葉としてなにかとても納得ができて、目に浮かぶようなのでした。わたしの祖母もなんでもかんでも天皇陛下みたいと褒めるのでした。

  どくだみの匂ひが好きという吾子をまた好きになる帰り道なり  澤村斉美

 小さいお子さんを、一人の人間として親しむような距離感。「どくだみ」の濁音と他の言葉の軽やかさ、声に出して読むと気持ち良いです。カ行の響きがいいのかなあ。

  盗み見すまだ畝のみの畑の中さかりの猫がもつれあへるを  篠野京

 印象的な初句切れ。春の風物詩ですが、わざわざ盗み見するからかえって見てはいけない状況のようで、作者もあやしい行動をしているようで、なにかおかしみが感じられるのです。

  車椅子が壁につけたるキズ跡に添ふやうにして車椅子置く  浜崎純江

 淡々とした詠いぶりからにじみ出るものがあって泣きたいような気持ちになります。挽歌の一連の中で読むと詳しい背景がわかりますが、単体でもとても伝わってくる歌。

  夢の中母と私はバスを待つ日に二本しか走らぬバスを  北山順子

 夢の歌だけれども、妙にリアルで、なにか暗示的。これまでのお母様の歌と併せて読んで沁みてくるものもあります。バスが来る前に夢は終ったのでしょうか。

  願いごとないままに手を合わせれば山鳩やけに長く鳴きいる  池田行謙

 願いごとがない、ということにまず驚きました。その場のしきたりに従い目を閉じて手を合わせながらも、無の心に、より山鳩の声は沁み入ってきたのでしょう。
 
  会うことの難しければ誰でもよい人を眺めに公園に行く  今井眞知子
 
 「誰でもよい」という切羽詰まった思いが歌の真ん中にあって切実さを感じます。「人」はもはや会う対象ではなく「眺める」ものになってしまって。

  腕を前から上にあげつつ走りきてラジオ体操の輪におさまりぬ  垣野俊一郎

 背伸び運動に遅刻しかけたのが作者か別の人かはわからないけれど、体操をしながら走ってくる光景がコミカルで、その妙なまじめな人柄にも味わいを感じました。

  残業は嫌いではないあの人が定時で帰る日は特に好き  小川さこ

 結局、働きやすさとは人間関係の良し悪しなのです、よくわかります。定型にきっちりはまってるのが内容に合っていて小気味良いです。

  生き物のように重たい大福を持つとうれしい 豆も入ってる  渋川珠子

 大福のことしか言っていなくて、しかも食べる前の、ということがなにかおもしろくて、結句も一字空けてまで言うことなのか、なんとも不思議な歌で印象に残りました。

 特集「感染症と短歌」、評論もレポートも充実していて興味深く拝読しました。短歌の記録性をあらためて大切にしたいと思いました。

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8月に入りましたが6月号を読みますよ。敬称略です。

  赤べこの背に積んでいる米二俵きっと重いとこのごろ思う  山下洋

 丑年だからかコロナ退散祈願か赤べこが今年は売れているとのこと、特に願いをかけたのが俵べこ。確かに米俵も人の期待も重そうです。そして初めて見た時というわけでなく「このごろ」なのがおもしろいのです。

  なんでこの手袋に指が入らぬかかじかんだ眼にも涙が湧きぬ  土肥朋子

 切実さが伝わってきて惹かれます。手袋そのもののもどかしさだけでなく、これまで抱えててきたものが手袋をきっかけとして噴き出したような。

  この世にはいない夫を誰よりも頼りにしつつまた春迎う  畑久美子

 いなくなってなお心の支えでいてくれるということ。神様や仏様のように、それはもはや信仰のようなものかもしれません。
  
  花の名を犬に教えてなんとしょうそれでもなずなたんぽぽの花  林田幸子

 犬に教えるというかたちをとりながら、語ることで自らが癒されることもあるでしょう。受け止めてくれる犬や花の優しい春です。

  弁当を今日はやすむと決めたときふとんふかふか私をつつむ  山名聡美

 あともう少し寝ちゃおう、と吹っ切れてふとんの存在感が増してきました。ひらがな表記と「ふ」の語感がいいです。

  馬となって五番目の孫と遊ぶには息が足りない三歩も歩めず  新城研雄

 四番目の孫までは馬になって背中に乗せて遊んであげられたのでしょうか。きっと複数の子がいての五番目の孫という家族ドラマも想像させます。下の句が河野裕子さんみたいな石川啄木みたいな。

  皮むきのムッキーちゃん添え八朔を友は呉れたり袋に入れて  竹内多美子
 
 「ムッキーちゃん」が歌に詠まれているのを初めて見ました。歌会だと「ムッキーちゃん」か「袋」かに焦点を絞った方がとか言われそうですが、要素の多さにお友達のキャラがにじみでているようにも思うのです。

  おおかたは一人暮らしのアパートの一つ一つの部屋が灯って  杉田菜穂

 人と会わなくなり、どこでも距離をとるようになり、といったコロナ禍の一連。アパートの灯に、同じように過ごしている人がいるのだとなぐさめられるのかもしれません。

  二十年使いしストーブ手放しぬ亡夫の作りし凹みも共に  成瀬真澄

 凹みを手放すという把握がおもしろいです。凹みを作ったその時はもめたりしたかもしれないですが、時を経て旦那様と過ごした日々の証にもなったのでしょう。

  朝食に弁当二つ作ること支えとなりぬ我が退職後  原田典子

 弁当が朝食、という読みであってるかな。必要とされること、役割があること、誰かのためにがんばることで逆に自分が支えられるということ考えされます。

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7月号が届いておりますが、5月号を読みましょう。バスの中でも読むようにして、少し読み終えるのが早くなったのですが、アウトプットに時間がかかるのかなあ。敬称略です。

  落としたる飯一口を蹴り出して向かい席の足元へやる人のあり  藤井マサミ
 
 作者はその目で見てしまったのです、誰も見ていないと思って自分の小さな罪を他人になすり付ける卑しい行為を。自分の足元がきれいであれば他人などどうでもいいというさもしい心を。
 
  夫逝きて一週間の過ぎにけり二日ほど雪が朝に舞ひたり  亀山たま江

 挽歌の一連の一首目。静かに淡々と詠まれることで胸に迫りくるものがあります。深い喪失や現実の慌ただしい日々を振り返った時に、思い出されるのは雪のことだったりするのでしょう。

  沈む前の夕陽になって照らしたいあの日に立ちすくむ私のことを  小川和恵

 過去の自分を励ましたいという思い。エッセイに震災のことがあるけれども、「あの日」は3月11日ではなく、作者自身に何かあった日と読みたいのです。

  おばあさんなれども雛を飾りつつ夢色々と語り合いたり  西村清子 

 お雛様を飾るのにも、夢を語るのにも、年齢や性別の制限なんて本当はないのに。「おばあさんなれども」という断わりに謙虚さと切なさがにじみます。

  服はいつも来ているけれど今日はじめて着たような気分にもたまになる 平出奔

 そんな気分になることってあるのかなあと思いつつ、あるのかもしれない、と何か妙に納得させられるのは、「ような」とか「たまに」とか妙にぼかされているからなのか、結句の言いきりのためなのか。

  地震ののち歌会がありて楽しくて疲れてその夜十二時間眠る  三浦こうこ

 十二時間! 地震の不安や片付けで眠れなかったのが、楽しい時を過ごして気持ちがほどけたのでしょうか。「て」のくり返しからの結句の字余りもそのように詠ませます。

  保護者からの電話ようやく切りしのち伸びたる麺をこわごわ啜る  中村英俊

 この歌の数首前に<電話線を抜きたくなるを抑えつつ保護者の要望ハイハイと聞けり>という歌があり。要望を訴える方は、自分が相手の休憩・休日の時間を侵食している事実なんでお構いなしなのですね。

  「またおいで」と土産にくれし焼海苔の空缶が叔母の形見となりぬ  清水久美子

 焼海苔の、しかも空缶が形見として遺ったというところに、叔母さんの人となりや作者との関係性が見えて味わいを感じるのです、海苔だけに。

  本能寺に上司を討ちしドラマ見つさてとあしたも仕事へゆかな  垣野俊一郎

 仕事上の上司部下のしがらみは戦国時代も現代もどこか通じる部分があるのかもしれません。尤も「麒麟がくる」はそのように共感を誘うように描かれた、ということもあるのでしょう。

  来年は撒けるだろうかと思いつつ撒いたな豆を去年も今年も  石川泊子

 つぶやくような詠いぶりが印象的。とつとつした不思議な語順が、かえってリアルで切実な声のように伝わってきます。自身の病が、豆を撒いて外に出したい鬼であるような思いもあるのかもしれません。

  善光寺に慎み拾ふ菩提樹の仄あたたかき実のつぶらなり  飯島由利子

 善光寺の景色からカメラが寄ってゆくような歌の作りで、すべてが「つぶら」であることへの序詞のようになっているのがおもしろく思いました。

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塔5月号がまだ届く前に4月号を読みましょう。10~3月号も、まとめていないだけで読み終えてはいるので、追々追記していきたい、という気持ちで。敬称略です。
 塔新人賞・塔短歌会賞からも一首づつ。受賞者の皆さま、おめでとうございます。

 3.12はさいふの日だと書かれおり海に沈みしあまたの財布  吉川宏志 

 何より、財布に着地するのがすごい歌だと思いました。もちろん海に沈んでいるのは財布だけではないのだけれど、このズラし方にも鎮魂の思いが伝わります。

  入院し夫の居らねば鏡餅小さくてたびたび橙落つる  亀山たま江

 おもしろくも寂しい歌。鏡餅が小さいだけで十分おもしろいのだけど、結句がとても好き。ここまで詠めるようになりたいとつくづく思いました。

  窓のなきデパート地下の売り場にも割引札の夕暮れは来ぬ  森純一

 地下に居て、外の景色を思うことがあまりないことに気づかされました。割引札を見て夕暮れの時間を思う、というのがいいです。

  野ねずみを殺しし猫のひつたりと吾に身を寄せ夜を眠りぬ  青木朋子

 どきっとする入り。残虐な行為の後の身の寄せ合いに危うさを感じ、いろんな表情があるのは猫だけではないのかもしれないと思わされます。

  孫七人在るが生きゆく道となり今年も米を作らむとする  福島美智子

 健康さに惹かれました、人生の健康さです。自分が3人生んで、それぞれが2~3人生んで孫7人。「米」なのも良くて、力強さに泣きそうになります。

  星型の穴を通つて来たことも忘れて溶けてゐるマヨネーズ  千葉優作

 実景なのでしょうけれど、観念のようにも読めて考えさせられます。最近のマヨネーズは細穴のキャップが付いていることもあり、星型にノスタルジーを感じたりもしました。

  石地蔵の赤き前掛新しく取り替へられて明日は元旦  石川啓

 色の薄い冬景色に前掛けの赤が際立ちます。新しい年を迎えるにあたり、人知れず前掛けを取り替えた人がいるということ、その心に思いを馳せたくなるのでした。

  いとし子を包むごとくに水道栓凍てつく明日耐へよと囲ふ  壱岐由美子

 雪国では大げさでなく実感のこもる比喩なのだと思いました。やわらかであたたかな赤ん坊と、凍てつく水、氷の対比もおもしろいです。

  エナメルの靴を履かせてくれた日は母が誰かに頭を下げる日  森山緋紗

 塔新人賞受賞作「海を縫う」から。「エナメルの靴」がとても効いていて、どきどきする歌。連作でいろいろわかってくるけれども、この一首だけでも背後の物語を感じさせます。

  昇るがに雨はふりしく 破綻した湖のホテルのみどりの屋根を  澤畑節子

 塔短歌会賞受賞作「水の霊香」から。天候という大きなところから徐々に屋根にフォーカスしてゆく構成が光ります。連作の一首目で舞台設定の提示がされて、この後の展開に興味をそそられました。

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もう12月、塔11月号まで読み終えております。次号が、せめて次々号が出るまでには書き留めておきたいものですが、こういうのは1回ペース崩れるとずるずる行くなあ。
 10月から若葉集の受付をしております。宛先が都市部から北の方に移ったことにより、南にお住まいの皆さまにおかれましては〆切が実質早くなってしまって申し訳ないです。
 9月号から遡ってみましょう、敬称略です。

  永遠のごとくにわれの子を膝にのせてるおとうと 生前のこと  岩野伸子

 子が膝に乗る大きさであるのは限定的な時間であると思えば、「永遠のごとく」「生前」といった言葉にドラマを感じずにはいられないのです。
 
  席ひとつ空けて映画を観る五月ふたりに透明な子のあるごとく  大森静佳

 映画館のコロナ感染予防対策がこんなせつない歌になるのだなあ。4句目の字余りに透明さが強調されるようです。

  作ったはいいがどこかが恥ずかしいやい歌集め恥ずかしいぞ  小山美保子 

 下の句の呼びかけが楽しい。歌が歌集として形になったことで、自分から離れたような感覚が伝わってきます。そして『灯台守になりたかったよ』すてきな歌集ですよ!

  箱庭の駅を灯して永遠に来ない電車を待つ人を置く  佐藤涼子

 「永遠に来ない電車」とわざわざ言葉で表現されると、なんてことのない箱庭が急に意味を持って見えてきます。箱庭に置く「人」が自身の投影であるかのような。

  この家に何年住んでゐるのかと三回も聞き友 夕方帰る  山田トシ子

 淡々と詠まれていますが「三回も」の「も」に作者の感情がにじみ出るようです。後半の「聞き友」といった不思議な言い回しや一字空けのひっかかりも同様に。

  コンビニの前に咲いてたねじ花を見つけたことを今日は話そう  吉原真

 ねじ花が咲いてたのも見つけたのも過去形なので、今咲いてると伝えたいわけではないのだなあと思うとなんとも不思議な歌。ささやかな記憶に、作者だけの特別な思いがあるのでしょう。

  我が家には夕焼け見える窓三つそのうち二つを行ったり来たりす  朝日みさ

 三つのうち二つだけを、という具体性がリアルでいいなと思いました。なぜなのか明かしていないのですが、理由がわかるとかえって野暮になる歌でしょう。

  かなしみをだれにでも言ふひととゐて手持ち花火の火を分け合へり  千葉優作

 特別に心をゆるした相手だからというわけでなく、誰でもいいから気持ちを吐き出したい、という人。受け止める側の心情が花火に託されていて、その火がかなしく優しく点っているようです。

  沢山の馬に囲まれうれしさのあまり詠草浮かばずにいる  芳賀直子

 吟行でしょうか。どういう状況?って想像すると楽しい光景です。「うれしさのあまり」という短歌らしくない表現もなにかおもしろくて。やっぱりうれしい時ではなくつらい時かなしい時に歌は詠ってしまうものなのだ、ということにも気付かされます。

  田の畦にひとり小草を引く男、力ある尻クッとつき出し  飯島由利子 

 こういう健康的な農の歌は惹かれる題材なのですが、「クッ」というオノマトペに勢いがあって、「ク」の字が尻をつき出している人に見えてきておもしろいです。

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塔8月号を読みます。河野裕子一首鑑賞が圧巻です。敬称略です。

 子どもらは三月を家に籠りいて最も姿を見ぬは次女なり  荒井直子

 きょうだいの個性がこんなところにも出てくるのだなあと興味深い。長女でも末っ子でもなく次女というのも。過度に心配するでもなく淡々とした詠いぶりに健康的な親子関係の距離感が感じられます。

  美しき切り口みせて卵焼き椎茸と鮭のあはひに詰める  山縣みさを

 卵焼きの断面の美しさにハッとしました。特別なものはなくても彩り豊かでおいしそうなお弁当。たぶん詠われていないところで緑の絹さやも入っているでしょう。

  マスクは洗つてまた使ふんだと義父を叱る夫ゐて長き家居は続く  小林真代

 親御さんが叱られて小さくなっている姿というのはなんともいえずかなしい。つい数か月前の使い捨てのマスクが貴重品だった頃、マスク一つで争いが起きてしまう日常がとてもかなしい。

  良子さんよしこやんよっこやんよっこ様々な名でわれは呼びにし  川口秀晴

 仲の良さげな歌ですが、挽歌と思えば上の句いっぱいの名前の連呼がせつなさでいっぱいになります。ずっと名前で呼んでいたという関係性も見え、「良子」という名前もなにか絶妙です。

  亡き君にいまも友あり自転車で取れたての豆とどけてくれたり  西山千鶴子
 
 きっともう作者宛てに豆を届けているのだろうし、自転車の距離なのでご近所付き合いでもあるのでしょうけれど、自分の交友ではなく亡き君の友という把握に「君」に対する尊重の思いを感じました。

  モッコウバラじゃんじゃん咲けよ人類が鳴りを潜める卯月の道に  中井スピカ

 命令系が気持ちいい。上の句と下の句のひらがな漢字の表記のバランスも内容に合っていると思いました。今年の4月はほんとうに人類が鳴りを潜める感じでした。

  しばらくは商店街の会合もなしと決まりぬ今日の会合  坂下俊郎

 深刻な状況ですが、リフレインでオチがついておかしみが感じられます。定型にしっかりハマっているのも効果的。

  俊太郎が今日出ていったと電話せりかつてわが子に去られし母に  垣野俊一郎

 かつて母の元を去ったわが子こそが自分で、家族の歴史がくり返されているのですね。今の自分の寂しさの一番の理解者は、同じ経験を持つお母様であるということに気づき、母の心を思うのでしょう。

  想像の最後に君がいなくても埋めていこうとスコップを買う  濱本凛

 心を「埋める」というような比喩だと思って読んでいたら、結句でスコップを買っているので、物理的に埋めるのか! と驚きました。

  冬の夜わたしの影が9号線沿いの田んぼに自転車を漕ぐ  田村穂隆

 自転車を漕いでいるのは自分なのに他人事のような詠いぶり。この影は実景ではなく心象なのでしょうか。冬に自転車に乗れて田んぼがあるという地域性の味わい。

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9月に入ってしまいましたが、塔7月号を読みましょう。塔短歌会賞・塔新人賞発表なので、それぞれ一首ずつ。仕事でオンライン受賞式に参加できなかったのが悔やまれます。おめでとうございました! 敬称略です。

  コロナにてどこにも行けぬ今日は嗚呼わが誕生日夫よ米を炊け  落合けい子

 「嗚呼」という嘆きも位置もおもしろいし、「夫よ」という呼びかけも結句の命令形もおもしろくて、切実さが伝わる文体ながら、米を炊くだけでいいのかなあという慎ましさも不思議な味わい。

  吾家にもいつか来るとふ二ひらの白きマスクを思ひて眠る  酒井久美子

 マスクの単位として「二ひら」という表現にとても惹かれました。白い色も、実際に白いのだけど、歌の雰囲気に合っていると思いました。こんなふうにマスクを待てる心にも胸を打たれるものがあります。

  わが母は義母の、義母はわが母の病気の話をいきいきと聴く  山下裕美 

 人間くささに笑ってしまうのですが、母/義母は婚姻関係の子を挟まなければ全くの他人な分、貼り合ったり複雑な感情も芽生えるのでしょうか。わたしの母方の祖母も父方の祖母を悪く言うときいきいきしてました。

  ジオラマの四角の町にかかる橋赤くて冬がとても小さい  川上まなみ 

 ジオラマの町の橋に注目する視線がよくて、雪の白や抑えた色彩の冬の町に、橋の赤さが際立ちます。ジオラマの小さな町を見ながら、「冬が」という主語もいいなと思いました。

  わら半紙の文集ひらけば憧れのように死をいう少女のわれは  数又みはる

 死に憧れる時期というのがわかる、というかだいたいその頃って変に自分に酔っていて黒歴史になりがちだと思うのですが、こうして歌にできるほどの月日の経過を感じさせます。「わら半紙」という具体も懐かしい。

  下りられず三階窓より手を振れり母は額をガラスにつけて  江原幹子

 額をガラスにつけているというお母様の切羽詰まった姿がせつない。読み進めるほどにせつなさの増してゆく語順。三階だから表情が見えないのでしょうけれど、かえって動作が際立ちます。

  春といふやさしきもののかたちしてましろき蕪の売られてゐたり  千葉優作

 スーパーより八百屋という気がする、というかわたしが八百屋で蕪を見つけると買ってしまうからかもしれないのだけど、確かにこんなふうに蕪は見えるのです。ひらがなの丸っこさが蕪の形を思わせていいなと思いました。

  生きてゐればいいこともある負動産が県道拡幅、札束となり  河野純子

 定番の励ましのフレーズと思いきや、下の句の生々しい展開に笑ってしまうものがあります。「負動産」のやりすぎ感や、読点からの「札束」のダメ押しも清々しい。

  家や車をシェアするように肉体も君と私でひとつでいいのに  大井亜希

 こういう気持ちをわたしは抱かないので、こんなふうに真っすぐに詠われる歌に出会うとたじろいでしまうと共に、自分の心の有りようを省みさせられます。「ひとつで」は「ひとつが」よりももどかしい感じがします。

  タガラシの黄に咲き咲かる堤防をシルバーカー押し夫と歩みぬ  西村千恵子

 「シルバーカー押し」にぐっときました。夫が側にいますが、自分で歩く、という意思を感じます。野の花の「タガラシ」も良くて。サ行の音がさわやかで気持ちのいい歌です。


  プリン状の魚は魚のかたちなりお魚ですよと言いて救いぬ  塔新人賞受賞作「紙箱」吉田典

 福祉施設で働いていたことがあるので、個人的な懐かしさや共感もありつつ、静かな詠いぶりが印象的な一連でした。特にこの歌は、まさに魚をプリン状にして形づける仕事をしていたので、自己満足に過ぎなかったことを思い知らされました。


  ネジCが別の説明書の中でネジEとして使われている  塔短歌会賞「ネジCとネジE」近江瞬 

 この一首単体でもシニカルでおもしろいのですが、連作の中で読むとより深く考えさせられるものがありました。都合のいいように扱われるネジは、自分自身でもあるのでしょう。

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塔6月号を読みましょう。敬称略です。3月20日〆切分、世の中がざわざわしてきて、テレワークが始まったり学校がお休みになった頃でしょうか。

  いのししが四頭捕れて一頭を丸焼きにしようと誘いの電話  小島さちえ

 豪快さに惹かれました。野性的な歌なのに、結句で「電話」という文明の利器がでてくるのもおもしろいです。残りの三頭はどうしたのでしょう、気になります。

  思ふほど夫は不自由してをらずやきそばの残りが冷蔵庫にある  豊島ゆきこ

 作者の入院の一連から。自分がいないことに困っていればよかったのに、というようなガッカリ感を感じるのは、2首目の「この世からこぼれてしまつた媼たち」という言葉のせいでしょうか。冷蔵庫で冷えた焼きそばが寂しい。

  逝きし子が幾度か入浴せしという銭湯の前を散歩してみる  石飛誠一

 わが子を悼む歌で「銭湯」というのが珍しいと思いました。側を通るだけで、湯に浸かったりはしないのでしょうか。まだ追体験はできない、といった心情なのかもしれません。

  ずっと死にたかったのですと言いながらホットケーキを注文しおり  中山悦子

 思いつめたような吐露の内容と、「ホットケーキ」の取り合わせ。ですます調も関係性なのかキャラクター性なのか想像がふくらみます。ホットケーキなだけに。

  家を出し子の帰らぬに母ひとり雛飾りたり雛納めたり  加藤宙

 「帰らぬ子」なので、独立したというよりは家出や失踪のような印象です。下の句の畳みかけが、形式的な行事のようでもあり、いつまでも飾っていて嫁に行き遅れないようにという祈りのようでもあり。

  おかえりといつでも言うよ長崎の港に戻る船に向かいて  寺田裕子

 一首で読むと気持ちのいい港町の歌で、もちろんそう読んでも良い歌ですが、前の歌からこの「船」は長崎で作られたダイヤモンド・プリンセス号のようです。曰くの付いた船に対して、上の句の口語がとても優しくあたたかい。

  『文芸くにとみ』二百余冊に正誤表挟み届ける小寒の朝  別府紘

 なんといっても『文芸くにとみ』の冊子名の味わい。「二百余冊」という数字も絶妙に自分で頑張れそうな冊数です。正誤表挟みという面倒で事務的な作業もこうして歌になるのだなあ。

  水筒に残ったお茶を飲み干して今日という日が今日また終わる  紫野春

 明日また新しいお茶を入れるために、残りを飲み干すのでしょう。今日一日仕事や何かの活動に伴った水筒の残ったお茶、というのが一日を終えての余力や気持ちのようで象徴的です。

  郵便局までの冒険終えしのち子は眠りたり我も眠れり  魚谷真梨子

 塔の月詠を出しに(?)郵便局まで、という何気ない移動を冒険と呼ぶのが楽しい。お子さんにとって未知の冒険なのでしょうし、子を伴って郵便局に行くということもお母さんの冒険なのでしょう。

  管理者の木札各々つけられて石川川に河津桜咲く  村上春枝

 花の季節、大切に管理された桜に木札が付けられている光景は誇らしいものでしょう。桜守はとても難しく専門的な仕事のようなので、込める思いも並々ならぬはず。それにしても「石川川」という川の名前。

  叶っても夢の向こうに生活はありて学費はコンビニ払い  仲町六絵

 夢が叶ったからこそ見えてくる現実もありましょう。「コンビニ払い」がなんとも世知辛い。きっちり定型に収まっているのが歌の内容に合っていていいと思いました。

  引き算をして生きてゆく感動を伝へる会を退会したり  澤﨑光子

 「感動」まで行く仰々しさをセミナーのように読みましたが、断捨離や最近話題のミニマリストなども浮かびます。四句目まで続くまわりくどい会の名前からの結句の「退会」という構成にすっきり感を感じました。

  銀山のパン屋でカヌレを一つ買いカヌレを二つ買う人を待つ  丸山恵子 

 銀山温泉だろうか。相手が大食いということなのだろうか。会計待ちか、待ち合わせだろうか。「人」というのは他人っぽいので友達ではないのだろうか。読めそうで読みきれないのですが、声に出して読むとなんとも楽しい響きです。


 歌会記を注目して読みました。外出の自粛の中、ネット歌会、詠草集配布、お手紙歌会、紙上歌会、メール歌会など各地で工夫して楽しそうです。

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プロフィール
HN:
おとも
性別:
女性
自己紹介:
短歌とか映画とかこけしとか。
歌集『にず』(2020年/現代短歌社/¥2000)

連絡・問い合わせ:
tomomita★sage.ocn.ne.jp
(★を@に変えてお送りください)
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