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川が好き。山も好き。
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少しずつ、8月を振り返ってみたく思います。

 お盆の頃に、小学校の同窓会に行きました。10年くらい前にも案内が来ましたが、返信しませんでした。その数年前の成人式すら出ませんでした。理由はたった一つ、会いたくない人がいたからです。
 小学校の頃に別に仲良くもなかった人が、中学校で同じクラスになり、クラス中にわたしの悪口を吹聴するようになりました。わざと聞こえるように言われたこともあります。誰もかれも、声の大きいその人に流されているように思えました。尤も、わたしにも嫌われる要因はあったのでしょう。性格もひねくれていたし、身なりもみすぼらしかったような気がします。同じクラスには、目に見えてもっと派手にいじめられている人がいたので、先生の問題意識はそのわかりやすいいじめられっ子の人にしかなく、わたしのことは気づいていないようでした。別なクラスに「気にすることないよ」と言ってくれる友達がいても、部活が楽しくても、多感な年頃で、しんどい2年間でした。

 救いは、成績が違っていたので、高校が別々になったことでした。けれども、嫌われる自分であるという意識はこの頃から今に至るまでずっと消えず、人に対して警戒したり不安を覚えたりしてしまうし、自己肯定がうまくできないという典型的な後遺症が続いています。自分に好かれても迷惑じゃないかという慮りが先立ち、男女問わず、誰かに好感を持ってもそれを伝えるのは苦手です。

 同窓会に行こうと思ったのは、小学5、6年の担任だった先生の定年祝いという名目だったからです。先生にはお会いしたいと思いました。先生には、小学校卒業後も何度か年賀状をいただきました。集まりが悪いと聞いていたので、会いたくない人も来ないかもしれないと期待しました。もし嫌な思いをしても、それもまた人生だろうという変な開き直りもありました。

 少し歩いただけでも汗だくになるほどの当日、地元の商店街の宴会場に着くと、もうほとんどみんな席に着いていました。集まりが悪いと聞いていたから5~6人くらいしかいないのでは、と予想していたのが15人以上は出席なのでした。全員集まっても27人なのだから、それなりの出席率です。中には保育所から高校まで一緒だった人もいますが、さすがに20年ぶりともなれば誰が誰だかよくわかりません。
 名札を付けて席のくじを引くと、乾杯の係に当たっていました。「乾杯!って言うだけでいいから」と促され、これもまた人生と思い引き受けます。幹事さんによる開会の言葉の後にその役目は回って来ました、突然のことで気の利いた言葉も浮かばず、挨拶もそぞろに「乾杯!」とコップを掲げました。
 会いたくないな、と思っていた人も来ていました。わたしにした仕打ちなんてなかったかのように「久しぶり!」「中学の時も同じクラスだったよねぇ!」なんて言ってくるので、わたしは「え~? 覚えてない~」と何度も笑ってすっとぼけるのでした。

  「食物」の教科書われにゆずりたる同級生のその後を知らず

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9月号が届く前に7月号を読みましょう。塔新人賞・塔短歌会賞もとても良かったです。敬称略です。

  描きしのちママレードにする夏蜜柑皮の厚さがまこと頼もし  石井夢津子

 絵に描いた後にジャムにして、そしてこうして歌にもなる夏蜜柑の皮なのです。本当に頼もしい。物を大切に無駄なく使うのが素晴らしいです。

  父九十、母八十八、叔母八十七、三人揃つて冬を越えたり  豊島ゆきこ

 この歌はなんといっても「叔母」の登場に奥行きを感じます。老夫婦の冬に、そのどちらかの妹一人の加わる事情など、書かれていないところでいろいろな背景があるのでしょう。

  子育ては楽しいですか幾たびもアンケートにははいと答える  矢澤麻子

 風炎集の「青鷺」から。六歳、二歳、十二歳の登場する子育ての連作。お子さんの分だけアンケートの機会も多いのでしょうけれど、こういう質問があるということに、「楽しくない」と答える人もいるのだという事実が浮かび上がり、様々な社会問題なども想起されるのでした。

  とむらいの旅の帰りは菜の花も桜も富士も全部悲しい  加藤武朗

  お友達への挽歌の一連から。明るく色彩豊かな春の景色が映像として浮かんだ後に、じわじわ滲んでゆくような読後感です。

  母と寝る権利を求め争いて敗れし下の子我と寝るなり  井上雅史

 結句まで読んで露わになる家庭内の上下関係が悲しくも可笑しい。「権利」など硬い言葉や文語で仰々しく詠まれているからこそ、なおさら。

  この街で南を向けば見える山 鼓ヶ岳がわたしのふるさと  櫻井ふさ

 この街で何かつらいことがあっても、南を向けば見えるふるさとの山を心の拠りどころにして生きてきたのでしょう。固有名詞も効いています。啄木よろしくふるさとの山はありがたいのです。

  痛む背に夫の指が行き来してそのあとすうつと睡りに落ちぬ  石川泊子

 痛いの痛いの飛んでけ~みたいなことでしょうか。安心感が伝わります。そしてどことなく官能的。「手」ではなく「指」だからかも。

  扉を叩く老人たちは開店を今より早くしろと言いたり  大橋春人

 開店を早くするためには、従業員の労働時間が長くなるなど負担を増やさなければいけないのですが、お客様は自分の都合しか考えてないのでしょう。扉を叩く行為や命令形の物言いに、自己中心的さが伝わります。カスタマーハラスメント。

  本当は抱きしめたきを孫四人の父方の祖母にゆづりて眺む  栗栖優子

 こんなに自制の効いて切ない孫歌は初めて読んだような気がします。心のままに抱きしめてもいいんじゃないかと思ってしまいますが、家と家とのお付き合いで立場などいろいろあるのでしょうね。

  広島平和記念資料館本館にリニューアルオープンとふ明るき響き  永山凌平

  内容にもハッとしますし、漢字の羅列の後にカタカナという字面が効いていると思いました。声に出して読んでも「ニュ」「ー」「プ」などの響きは特に明るくて。

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10日ほど、体調を崩して寝込んでおりました。8月は同級会で地元に帰ったり、5時間ほどの映画『東京裁判』を映画館に観に行ったり、塔の全国大会で京都に行ったり、お盆休みのない中をなんとか休みをやりくりしていたので、疲れが溜まっていたのかもしれません。夏の間、職場の冷房が効き過ぎていて寒いくらいで、外との寒暖の差にもやられている気配はありました。それまで張りつめていたのか、一旦崩れるとぐずぐずみたいで、早く本調子に戻りたいです。

 職場に欠勤の連絡を入れると「病院に行ってくださいね」と言われますが、40℃の熱があってふらふらでただひたすら寝てたいのに身なりを整えて外出なんてできないよ、と心の中で思います。救急車を呼んだり、タクシーを呼んだりすればいいのでしょうか。よっぽど命に係わる重病ならともかく風邪で救急車なんてと、やっぱり躊躇します。寝てれば治る、との思い込みも強いのかもしれません。
 一人でぐったり寝ていると、何十年もの時が経って今の自分はおばあちゃんなんじゃないかと錯覚してきます。おばあちゃんになってもわたしはこんなふうに、熱がある時でも自分でおかゆを煮るために台所によたよた立つのかもしれない。おばあちゃんになってもわたしは食材入れにいつか買っておいたポカリスエットの粉を見つけて、「ああ外に買いに行かずに済んでよかったなあ」って麦茶用のポットに菜箸で溶くのかもしれない。熱に浮かされて、わたしはわたしの思い描く未来へタイムスリップをしているのでした。

 数日して落ち着いてから医者に行きました。飲み終わる前に治ると思うけど、と5日分の薬を出してもらいました。飲み終えても声がかすれたままです。このままハスキーボイスになったらどうしよう。とりあえず、「ボヘミアン」でも歌おうかと思います。

  医者へ立つ気力なければ発熱の日々を一人で寝て過ぎるなり

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京マチ子映画祭を観に行ってきていたのでした。ほんとうは『羅生門』とかもっといっぱい観たかったのですが、休みの都合などもあり、とりあえず2本です。

『流転の王妃』1960年公開。監督は田中絹代さん、出演は京マチ子さん、船越英二さんなど。原作は愛新覚羅浩の自伝。満州国の皇帝の弟・愛新覚羅溥傑と結婚し、終戦後に流転の日々を送った日本人女性です。学校の授業でも習った覚えがあるので歴史の人のような印象でしたが、わたしと生きている時代が重なっていたりして、そんなに遠い昔じゃないということに今さらびっくりしました。
 脚色が入っているとはいえ、実際にあったことなので、歴史のお勉強のように興味深く観ました。満州という国があったということを、いろいろ考えてみたい気がします。節子皇太后がシルエットでもなく普通に登場人物として顔まるだしでべらべらしゃべっているのが結構びっくりしました。天皇皇后と同じくらい皇太后の存在感のあった時代なのだなあ。王妃時代のゴージャスな衣装が京マチ子さんにとても似合っていました。 

『赤線の灯は消えず』1958年公開。監督は田中重雄さん、出演は京マチ子さん、野添ひとみさん、根上淳さん、船越英二さんなど。音楽は次の次のNHK朝ドラの古関裕而さん。福島歌会に赴くたびに駅前の古関裕而像を見ているので気になる存在になってしまった、これがいわゆる単純接触効果というものなのでしょう。
 売春禁止法が施行されたため、売春婦達が就職活動をする話。これもやっぱりわたしが赤線が廃止されている時代に生まれているので、歴史のお勉強のように観てしまいました。ナレーションが独特なせいもあるかもしれません。この時代の女性がこういう仕事に墜ちてしまうのには、人身売買のようなどうしようもない背景があったのでしょうか。まっとうに生きようとあがいてもあがいてもうまくゆかない様がとてもくるしい。世間の目も冷たいものです。まるで人権がないかのように扱われている場面はとても悲しく見えました。
 ハンカチで汗を拭くしぐさがとても印象的でした。顔だけじゃなく首やデコルテを拭くシーンが何度も出てきます。暑い日本の夏です。

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短歌総合新聞『梧葉』夏号(62号)現代作家新作5首に、連作「ビンゴ」を掲載していただきました。お読みいただければうれしいです。

 「旅の歌」で木ノ下葉子さんが書いてらっしゃる地域が、わたしの地元の中でもごく地元なので郷愁をそそられます。田んぼと祖母はわたしにとっても原風景なのだなあとつくづく思いました。

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あああ8月になってしまいました。6月号を読みます。

  山の下りは走っておりた四人家族そんな元気な遠い日のこと  角田恒子

 登山か、山の方に家があったのでしょうか。いくら下りで上りより楽とはいえ、ほんとうに元気。過去形のためか、家族四人が元気に山を走っている光景を思い浮かべると、なんだか泣きたいような気持になりました。

  おばあさんがぶらんこしてると言われたりあぁ私はおばあさん  林田幸 

 少女のような心地でぶらんこに乗っていたら、無邪気な声に見つかってしまったのですね。他人に指摘されるとあらためて自覚させられる感じでしょうか。「あぁ」の小さい「ぁ」が視覚的にも効いていて、結句の字足らずも力が抜けるようです。

  幼き日インコを葬りし庭先を不動産会社が明日買いに来る  大江いくの 

 子供の頃の思い出が眠る庭を手放す時。三十一文字なのに文字数以上の物語が見えるようです。一首の中でこんなに長い時間とドラマを詠えるのだなあ。買い取る側からしたら骨が出てきたら少しホラーかも。

  むずむずと気孔をひらく山毛欅の森こころのように春がざわめく  星野綾香

  風炎集「春のざわめき」から。震災が背景にあるからこそ春の描写の沁みる一連でした。この歌は下の句の比喩にとても惹かれました。「~のようなこころ」というのはよく聞きますが、逆はめずらしい。そして妙に納得させられてしまいます。

  五画目を書くまではまだわからない 春だと思う? 寿司だと思う?  拝田啓佑 

 正解はどうでもよくて、この会話や、会話の相手とのじゃれ合い感を味わう歌なのでしょう。独り言の可能性もないわけではないですが。「春」と「寿司」の取り合わせも良くて、特に「寿司」に人間臭さを感じます。

  よき人は逝くほんとうにやさしいよき人は逝くのだ妹よ妹よ  松浦哲
 
 涙でぐしゃぐしゃになっているような詠いぶり。整えようとすれば整えられそうですが、このままがきっといいのでしょう。「よき」なので「やさしき」でなくてもいいのかとか気になったりもしますが、結句のリフレインとか、もうたまらないのでした。
 
  「ほいじゃあねー」と祖母はいつも手を振った ほいじゃあねーで棺桶を閉ず  瀧川和磨 

 他の歌から挽歌だというのはわかるのですが、それでも和やかな雰囲気からの結句でびっくりしてしまう。最期のお別れもいつもと同じように、ということでしょうか。方言がいいなと思いました。

  娘婿の送りの車の早く着き一本前の電車に乗れり  平田優子 

 お嬢様の婚家に赴いたところ、帰りにお婿様が駅まで送ってくれたという、そのままの歌だと思うのですが、こういう些細なところで立ち止まって歌に詠めるのがいいなあ。一本前の電車の電車に乗れるというささやかな喜び。良好な関係性もうかがえます。

  六十年経ちて黄ばみし家計簿は花十円で始まりており  清水千登世

 新生活が始まって一番最初の支出が花だということがすてき。当時の物価で十円の花がどれくらいなのかはよくわかりませんが、十円というささやかさもいいです。贈り物というよりは、自分の暮らしを彩るための花と読みました。 

  サビじゃないところはじめて聴いたけどやっぱお前の好きそうな曲  長谷川麟 

 「やっぱ」というほど相手の好みのをわかっているという関係性。口語体も歌の内容に合っています。おそらく作者はこういう曲が好きではないのでこれまでサビしか聴いたことがなかったのだと思いますが、他のメロディに対してこういう思いを持つこと、歌に詠むことが美しいなと思いました。うまく言えないのですが。

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近所の八百屋さんに行ったら、八百屋のおじちゃんが「ぶどう200円にするから買ってよ~」と言うので、買ってしまいました。デラウェア2房で200円はお買い得。わたしはデラウェアがとっても好きなので、思いがけずありがたいことでした。
 八百屋のおばちゃんは、お会計の時にいつも調理法を教えてくれます。今日はニラを買ったので、ニラと何かの野菜のタラコ炒めという斬新なレシピを教えてくれました。昨日作ったそうですが、ニラの他に何の野菜を使ったのか忘れてしまったそうです。タラコで味付けをするというのならジャガイモかな~と思って聞いてみましたが、どうやら違うようです。他にいけそうなのはキャベツとか、タマネギあたりでしょうか、謎です。せっかく教えていただきましたが、ニラ玉にするか、一緒に買ったナスと甘じょっぱく炒める予定です。

 「お姉ちゃんはもう行くよ」と、八百屋さんの駐輪スペースに、買い物を終えたらしい姉弟がいました。10歳になったかなってないかぐらいの女の子が呼びかけると、男の子は「ぼくまだいる」としゃがんで石で遊んでいました。「何がおもしろいの」と女の子は呆れているようでした。呆れているようでしたが、ちゃんと男の子を待っているのでした。お使いでしょうか。なんだか懐かしいような光景です。

 わたしにも、自分のことを自分で「お姉ちゃん」と呼んでいた頃があったのを思い出しました。誰かに、「お姉ちゃんという一人称を使いなさい」と指示されたわけでもないのに、妹や弟に接する時にそう言うようになりました。どういう経緯でそうなったのか覚えていませんが、自然にそう自称してしまうような流れや、わたしの心の動きがあったのだろうと思われます。
 自から自分のことを「お姉ちゃん」と言い始めた田舎の小さな女の子を思うと、自分のことなのに、なにかかなしいようないじましいような気持ちになるのでした。

 ある人の会話の中で「お姉ちゃんが」「お姉ちゃんが」と頻出していて、その人の姉のことだと思って聞いていたら、何人かいるお子様の中の、高校生の長女さんのことだった、ということがありました。「仕事で遅くなった時はお姉ちゃんが夜ご飯作ってくれてる」などという話に、妹一家の食事の支度をお姉様がしているの?って不思議に思っていたので、腑に落ちました。
 お母さんの姉ではないのに、お母さんから「お姉ちゃん」と呼ばれる長女さんは、家庭の中で「お姉ちゃん」という一人称を使っているのではないでしょうか。一番下のきょうだいはまだ幼稚園児だそうです。長女さんが面倒見のいい優しい女の子だということが話からは伝わってきますが、長女さんが「私はお姉ちゃんなんだから」と自分に言い聞かせて無理はしていないか、他人事ながらちょっと心配になったりもするのでした。

 妹や弟が大きくなってくるにつれ、わたしが自分を「お姉ちゃん」と呼ぶことはなくなりました。

  赤子なるいもうとの子と話す時のわれの一人称の「おばちゃん」

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『ソローキンの見た桜』を観てきていました。監督は井上雅貴さん、出演は阿部純子さん、ロデオン・ガリュチェンコさんなど。というかわたしはイッセー尾形さんが出てると観ますね。

 日露戦争の頃、松山に設けられたロシア捕虜収容所で、ロシア兵捕虜・ソローキン少尉と日本人看護婦・ゆいが恋に落ち――という実話をもとにしたラジオドラマの実写映画化とのこと。戦後生まれなせいか第二次世界大戦、太平洋戦争に関する物語の方はいくつも触れましたが、よく考えたら日露戦争ものはあまり知らなかったので、なんだか新鮮でした。日露戦争において日本は戦勝国ですから、そのあたりの雰囲気はやっぱり違うようです。

 敵対していたはずの二人が、唐突に相思相愛になったように感じられてついていけない感じもなくはなかったのですが、そういうふうに気持ちが盛り上がることも男と女にはきっとあるのでしょう。
 なんとなく予告編などから勝手に想像していた流れとは違ってきて、「あ、こういう方向に行き着くのか」という驚きがあり、驚きと共に変にほっとしたりもしていました。そうして、自分の心より国とか社会とか家とか人とかを優先するような話をわたしは好ましく思う傾向にある、と再確認したのでした。
 桜が美しかったです。
 
  公式サイト→https://sorokin-movie.com/

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先日は甥っ子の四歳の誕生日だったので、タンバリンを送りました。妹からお礼の電話が来て、「喜んでる?」と聞くまでもなく、受話器向こうからシャンシャンパンパンと音が聴こえてきます。

 わたしは人を呼び捨てにすることが苦手なので、妹と弟しか呼び捨てで呼んだことがなかったのですが、甥っ子のことは自然に最初から呼び捨てで呼んでいました。甥っ子は妹や妹の旦那さんにはニックネームで呼ばれているし、母や他の親戚、周囲の人からは君・ちゃん付けで呼ばれているようだし、わたしにしか呼び捨てで呼ばれていないような気がしています。

 少し前、野球の応援歌の歌詞の「おまえ」が不適切だと自粛のニュースがありました。繊細過ぎやしないかなあ、と思いながらも、よくよく考えたらわたしも人に「おまえ」なんて呼ばれるのは気分が悪いし、同じように感じる野球選手がいるのも当然なのかもしれません。野球選手なんだから、男性なんだからそれくらい、なんていうのは今の時代ではきっと差別やハラスメントにあたるのでしょう。
 わたしが「おまえ」と呼ばれても気にならないのは、昔からそう呼ぶのが当たり前になっている親や祖母、地元の地域の目上の人くらいです。地元は母世代だと女性でも「おれ」と言うような荒っぽい方言なので気にならないのかもしれません。そういうところで育っているせいか、わたしも妹や弟、犬だけは「おまえ」と呼んでいました。自分の普段の言葉からは出て来ない単語なので、たった3件とはいえわたしが「おまえ」と言うなんて、と今さら自分でびっくりしてしまって不思議なのですが、沁み込んだ方言は勝手に出てしまうのでどうしようもないのでした。
 甥っ子のことも「おまえ」と自然に呼んでいました。妹や甥っ子は関東方面に居るので地元ではないし、年に1回会うか会わないかぐらいですが、身内の目下の者だと認識しているのか、もしかしたら犬のように思っているのでは、と自分の深層心理も興味深いです。尤も、関東で今の時代を生きる甥っ子からしたら「失礼なおばちゃんだなあ」と思われるかもしれません。

 甥っ子が電話口に出て「ありがとう」と言いました。と、いうより言わせられている気配もするのですが、続けて「気に入った」とも言いました。「気に入った」なんていう言い回しを、四歳児がするかなあと首を傾げたくなりましたが、ちょっとおもしろかったのでそれはそれで素直に受け取ることにします。

  恋人を「おまえ」って呼ぶ女子高生と二〇時のバス停に列なる

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7月になってしまいましたが5月号を読みます。敬称略です。

 「子を産みていません」呆けたる母が一度言いけり忘れていいいのに  小島さちえ
 
 産んだことを忘れる歌は割とありそうな気がするのですが、産んでいないとことを覚えているのは初めてみました。他の歌から養子だということが明かされていますが、「義母」ではなく「母」という言葉選びが一読して困惑を招きつつ、それも含めて良いと思いました。

  けふあたり蝋梅の咲く縁に出で友は開かむわたしの文を  西山千鶴子
 
 書く時、ポストに入れる時に、届いた頃という少し未来の相手を思えるのが手紙のすてきなところだと常々感じているのですが、この歌を読んであらためて再確認させられました。相手の暮らす地域で蝋梅の咲く頃に届くように送られたのでしょうね。

  寄る辺なくわが庭に降りし雪ならむ寄る辺なき雪スコップに寄す  加藤和子 

 雪国の歌。「寄る辺なく」「寄る辺なき」のリフレインに、降り続き積み重なる雪の重みが伝わります。「スコップ」のカタカナも、スコップの硬さ、片付けられた雪の状態と合っているようです。

  孫がありてよかりしと思う家中が明るくなれりありがたきなり  須藤冨美子

 孫効果、みたいな詠いぶりがちょっとおもしろい。結句は感謝というより、崇め奉っているような印象です。孫という全存在そのものへの圧倒的な肯定感。

  身の内にいつも尻尾を揺りたがる犬のいること知られたくない  王生令子

 犬は尻尾で感情を表すといわれています。素直な犬のような自分の心は律して、私より公の立場を大事にしているということでしょうか。自制ということをこういうふうに表現できるんだなと思いました。

  何をしても平成最後と思いおり明日あることを疑わずいて  相馬好子

 平成最後、平成最後と何かにつけて謳われている時、確かに明日地球が滅亡するかもしれないとか、明日病に襲われ倒れるかもしれないとか考えたりしないのでした。世の中の浮かれモードへの違和感が鋭く詠われています。

  おまえのことを祈ったのだとは言わねどもおまえのことを祈っていたり  荒井直子
 
 風炎集「釘抜地蔵」から。お嬢様とお参りの一連ですが、「おまえ」がお嬢様だとわからなくても、読者が自分の大切な相手を重ねても、または「おまえ」に自分を重ねて読んでもいいのかもしれません。「おまえ」という二人称にもなんだか泣きたくなるのでした。

  神功皇后が舟を繋ぎしという岩を散歩の折り返し点と出でゆく  荒堀治雄

 神がかりの伝説の岩が、日常の生活に溶け込んでしまっています。かつてお札にもなって崇められていながら今となっては実在が疑われている神功皇后と、散歩というごく個人的な日常の取り合わせになんともいえない味わいがあります。

  病も体の一部俺だ俺そのものだ よろしく元旦  久長幸次郎 

 なんだかすごい破調で、それだけに率直に気持ちが伝わってくるようです。「よろしく元旦」という結句、しかも一字空けて、なかなかこんなふうには詠えない。なんという清々しさでしょう。

  ただただ生きてきたよという告白を同窓会で繰り返したり  永久保英敏

 「ただただ生きてきた」ということが報告でもつぶやきでもなく「告白」だということに、その破調も相まってただならぬものを感じます。しかも繰り返すとは。しかも同窓会という同年齢の集まりで。この歌では多くを語っていないからこそ、かえって伝わってくるものがあります。

  大声で気もちがいいと言ってから本当にそんな気もちになる日  松岡明香

 アファメーションの歌。「大声で」がとても良いです。実際に大声で「気持ちがいい」と言っている姿を思うとなかなかシュールですが、それもまた良いのでしょう。もともと気持ちが良かったらこういう行動には出ない、というせつなさも感じるのでした。

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短歌とか詩とか本とか。
(文末の短歌は既作から拾ってくるので本文と直接は繋がってなかったりもしますよ。)
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