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川が好き。山も好き。
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雪が降っていないせいかどうにも年末感がないのですが、大晦日です。
 今年は3月の地震と、そののちの日々といった一年でした。心が、というより部屋が片付かなくて、片付ける気力も湧かなくて、片付けきれず、今に至ります。わたしは塔短歌会で詠草の受付係をしており、地震の数日後に塔の月詠の締切でした。地震の不安感を引きずった中で郵便物が続々届くような状況だったのですが、一心にそうした取りまとめ作業をすることで自分が立ち直ってゆく感覚もあり、やらなきゃいけない仕事を与えられているのはつくづくありがたいことでした。

 今日は午前中に母から電話がありました。実家のわたしの部屋にあるベッドをもらってもいいか、という内容でした。年末の大掃除をしていて、大きな家具なども移動しているうちに思いついたようです。実家で暮らしていた10代の頃から、今でも帰省した時に使っているベッドですが、今は年に数回寝るくらいだし、あげることにしました。妹の部屋のベッドは既に父が使っています。布団の上げ下ろしも大変なほど、親が老いてゆくということ。引っ越ししたらとも言われました。もう何年も言われています。わたしだって好きでずっとここにいるわけじゃないのになあ。
 
 お昼過ぎて、映画を観に行きました。午前中にアセクシャルの話の『そばかす』を観ようかなと思っていたのですが寝過ごしてしまい、それでも身なりを整えて外に出かけたい気持ちがあり、昼過ぎに上映していた『川っぺりムコリッタ』を観ました。
 大晦日に一人で映画なんて、とも思わないでもなかったけれど、小さな映画館に来てみれば、老若男女問わず同じような一人客がほとんどでした。自販機でコーヒーを買うために並んでいる時に後ろにいた年配の女性に自販機について聞かれたのへ返事をしたくらいで、他は誰とも喋っていないのですが、一年の終わりを同じような過ごし方をしている人がこんなにいるということに、一人だけれども一人じゃないような不思議な安らぎを感じました。
 『川っぺりムコリッタ』、今日突発的に観ることに決めて、予告編も観たことがなかったので、タイトルの響きからして楽しくあたたかい映画かと想像していたのですが、思いのほか死の匂いの濃いヘビーな話でした。でも涙が出るほどすごく良くて、誕生日の今日にこの映画を観てよかったなと思いました。
 大晦日の夕暮れの街は静かで、つい先日までピカピカしていた光のページェントのケヤキ並木ももう素裸です。角川「短歌」と、雑煮に入れる鶏肉や牛乳を買って帰りました。

 明日のために雑煮の汁を作り、紅白とお笑い番組をがちゃがちゃしつつミカンを食べています。
 今年は筋トレをがんばりました。それなりに効果もありました。筋肉が付いただけでなく、以前は低かった体温が上がって平熱が36℃台になりました。免疫力も上がったんじゃないかと思います。来年も励みます。

 今年一年たくさんの皆さまにお世話になり、ありがとうございました。それではどうぞ良い一年をお迎えくださいませ。

  好きなだけ本散らかしてお祭りのようなひとりの枕元なり

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10月の終わり頃、映画『千夜、一夜』を観てきていました。久保田直監督作品、出演は田中裕子さん、尾野真千子さん、ダンカンさん、安藤政信さん、白石加代子さん、平泉成さん、小倉久寛さんなど。
 ずしんときてなかなか言葉にできなかったのですが、なにか書きたい気持ちもあり、まとまらないまま感想を書いてみます。
北の離島の美しい港町。登美子の夫が突然姿を消してから30年の時が経った。彼はなぜいなくなったのか。生きているのかどうか、それすらわからない。漁師の春男が登美子に想いを寄せ続けるも、彼女は愛する人とのささやかな思い出を抱きしめながら、その帰りをずっと待っている。そんな登美子のもとに、2年前に失踪した夫を探す奈美が現れる。彼女は自分のなかで折り合いをつけ、前に進むために、夫が「いなくなった理由」を探していた。ある日、登美子は街中で偶然、失踪した奈美の夫・洋司を見かけて…。
(公式サイトより)
 この映画を観ていて強く感じたのは、人物描写というか心情描写というかのなんともいえないリアルさです。監督はもともとドキュメンタリー出身で、年間約8万人という日本の「失踪者リスト」から着想を得られたようなので、実際に近い人物やエピソードもあったのかもしれません。
 時々北朝鮮の船が漂着する土地で、夫は拉致されたのかもしれないと、真剣に考えて登美子を頼ってくる若い奈美にも、30年待ち続ける登美子にも、観ている方は「それってただ単に男の人が逃げただけなのでは。無責任な人だったってだけなのでは」と訝しんでしまうけれども、当事者となると突拍子もないことを考えてまでなにかを信じてしまいたいのはわかる気がします。
 登美子に思いを寄せる春夫がまた一途というよりメンヘラっぽくてわたしは「無理」って思うのですが、夫が帰って来るまででいいから面倒見させてほしい、などという相手の思いを尊重しているふうで逃げ腰で恩着せがましい言い寄り方がほんとうに嫌で、周りを巻き込んで圧力をかけてくるのも嫌で、この嫌な感じの作りが絶妙ですばらしくも思いました。
 会ったこともない人を街の中で偶然見かけて特定する、なんてことはさすがにありえないことだとは思いましたが、そうしたことを受けての展開や心の動きが生々しくて引き込まれてゆきました。

 観ていて最後まで先が読めず、自分の中で「こういう結末じゃありませんように」という思いが強く芽生えていることに気づきました。夫の失踪の真相はわからないままがいい。ミステリー映画ではないのだから。たとえば夫が帰ってきて「なーんだ、そういう理由だったんだ」と謎が解けてスッキリ解決なんて求めない。そして、春夫とくっついてほしくもない。春夫がすてきな人だったらくっついても納得するかというとそうでもなく、男女が結ばれてハッピーエンドというのも違うような気がしました。 
 エンドロールまで観て、こうならないでほしいという結末にはならなくて、安堵とカタルシスがありました。終わり良ければすべて良し、ではないですが、後味の良さは満足感にもつながります。一方で、物語の結末としてこれで最高でも、人生としてはどうか。
 夫ではなかったし突然の失踪や蒸発でもなかったけれど、わたしは恋人の部屋に行ったら引っ越し済みで空っぽだったことがあります。不誠実で最低だ、そんな人とは一緒にならなくてよかったのだ、と他人には言えるし、自分でも理屈では理解しているのだけど、登美子が吐露した思いも、在りし日のカセットテープをくり返し再生してしまうような行為も、覚えがないわけではなくて、くるしい。やっぱり現実はどんなにご都合主義な展開でもめでたしめでたしがいい。
 

公式サイト→https://bitters.co.jp/senyaichiya/#

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「鎌倉殿の13人」の最終回をせつなく鑑賞しました。特に義時と政子の2人のラストシーンは圧巻で、しばらくはこの余韻を大切にしてゆきたいような気持ちです。
 最終回での真のタイトル回収に「そうきたか…!」と感嘆しつつ、でも13人以外に名も無き人だってめっちゃ死んでるじゃん、とも思いました。物語にならなくても一人一人にそれぞれの人生があったはずで、それが志半ばで絶たれたのに、そうした人達の命はまるでどうでもいいみたいに、(あくまでこの物語の主人公からの視点とはいえ)数に入れないということ。
 こんなことが気になってくるのは、わたし自身が主要人物じゃないその他大勢にすぎない現実の中を生きているからなのかもしれません。 

 喪服を買っておかなくちゃ、と、ずっと思っていたのですが、先月末に実家に帰った時に20代の頃に買ったものを着てみたところサイズも合っていたので、新調はしないことにしました。肩パットが入っていてどうにもシルエットが古めかしい感じがしないでもなかったけれども、どうせ何回も着るものでないし、葬儀の場ではわたしが主役ではないのだから着飾る必要もないのでした。
 不格好に見えるのはわたしの体形の崩れのせいもあるでしょう。あきらかに代謝が落ちてきていて、昔と同じように生活していたらどんどん体重は増えてしまうし、二の腕辺りにはもう抗えないほどの中年感が漂っています。無理に若作りをするつもりはないけれど、少しは抗いたい。

 実家に滞在中、東京から日帰りで帰省した叔母と偶然にも日程が合い、8年ぶりくらいに再会しました。わたしがなにげなく「ばあちゃん元気かな」と言うのへ笑顔で「動物だよ」と返してくるのにはびっくりしましたが、姑の介護をしていた経験からの言葉でもあるのでしょう。思い起こせば、叔母は昔から笑顔できついことをさらっと言う人で、昭和の終わり頃にも連日のように健康状態を報道するテレビに向かって何か言っていて、子供心にふるえたものでした。
 コロナ感染対策で、祖母の施設では外から窓を隔てて面会します。外から祖母の部屋に回って窓越しに「こっち見てー」「あー笑ったー」などと声を掛けていると、確かに動物園のようなのでした。介護士さんは祖母に「(母の名)さんと(叔母の名)さんとともみちゃんだよ」と声を掛けて窓の外を見るように促していました。きっと祖母に合わせてわたしはちゃん付けにされているのでしょうけれど、介護士さんよりわたしの方が年上そうでした。介護士さんはいつも感じが良くて安心します。どんなふうになっても、祖母には生きていてほしいと思いました。
 ほとんど会えなくとも、会えても以前のような祖母でなくとも、祖母が生きているということがわたしの心の支えの一つです。全然良いばあちゃんでもなかったのに。

  窓ガラス越しでも会えてよかったな会えたというか見たというか

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街中のケヤキの木に電飾が巻き付けられ、イルミネーションの準備が始まっています。わたしも季節に追いつかなければ。

 9月10日は河野裕子記念シンポジウムへ。塔に所属しているので河野裕子さんは必修科目のように思っていて、もちろんわたしも全てではないけれど様々に読んできて、その良さを味わいつつ、正直なところどこか遠いような、何か膜に隔てられているような感覚もありました。なぜなのか、ずっと考えていました。
 たとえば『河野裕子読本』(角川学芸出版)の赤い帯には「普通の日々は、有難い。妻として、母として、女として――。」と書いてあります。なるほど、わたしは妻でも母でもないし、女であることもうまく肯定できず育ってきているので、いまいち共感できなかったのか。と、当初は考えてみましたが、そんな単純な話では決してないでしょう。境遇が違うから歌が届かないなどということはあり得ず、職業や年齢、性別、生きていた時代が違っていても好きな歌はたくさんあるのです。
 妻や母、女としての立場に限らず河野裕子さんの歌や文章、逸話などからは愛情深い人柄が伝わってきて、心根の屈折しているわたしにはその愛情深さが少し息ぐるしい、のかもしれない。と、この頃は思い始めました。自分の心を測るように、河野裕子さんの歌などに向き合ってみたい。
 そんな思いもあってシンポジウムに赴いたのですが、講演や鼎談などとても充実していて、はるばる京都まで来てよかったと思いました。たくさんの方々がそうであるように、わたしも実際にお会いすることがあったなら、その人柄に魅了されていたのかもしれないなあと思いました。

 9月11日は全員歌会、選者の方の評付きのの詠草一覧を参照しつつ別の選者の方々がステージ上で評をさくさくハイペースで200首ほど。的確な評にうなづきながらも、わーっと聞いてしまった感はあるのですが、机を並べて皆が発言を求められる歌会に比べ喋る人が限られている分、マイクを回したりの接触や飛沫対策の面では良かったのかもしれません。大変な中を様々な工夫をして開催していただいて、たくさんの方ともお会いできてよかったです。ほとんど「こんにちは」しかお話できていないような、またご挨拶しそびれた方もたくさんいたと思うのですが、ぜひ次の機会に。

 帰りの新幹線のホームには修学旅行生がうじゃうじゃいました。専用の車両を写真に撮っている撮り鉄もいました。わたしも新幹線での京都行きは高校生の時の修学旅行以来なので、凡そ半世紀ぶりです。
 行きは平日だったこともありゆとりがあったのですが、帰りの新幹線は満員でした。お腹がすいてもこの人混みの中で口を開くのは躊躇われ、持参したアルコール消毒を指に塗り込めつつ飴を舐めてやり過ごすぐらいが精いっぱいです。窓際の席で歌集などを読みながら、ふと窓の外が明るくなる瞬間があり、そのたび顔を上げると、そのたびに川がありました、矢作川、天竜川、大井川、安倍川、橋を見て名前を確認できたのはこれだけですが、他にもいくつかの川を見ました。はるかに遠いと思っていた京都へ、4時間程度で行けたことが自分の中で新鮮な驚きでした。自宅に帰宅して「鎌倉殿の13人」に間に合ったのがとてもとてもうれしかったです。

 会場は駅の出口に直結だったので、わたしはいちいち駅に行って地下に降りて地下から出て両日を通ったのですが、後々よく地図を見れば、わたしの宿泊先は会場のすぐそばでした。土地勘がないからと、わざわざ反対方向の駅に行ったり地下に降りたりぐるぐるして、そんなふうにわたしはきっと人生も回り道をしているんだろうなあと思いました。

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秋晴れの昼間、アーケード街に山形からお越しの露店が出ていました。里芋やアケビ、キノコ類など秋の味覚の並ぶ中、郷愁に駆られてイナゴの佃煮を買いました。100gで600円、イナゴは田んぼにいるのをしぇめる(つかまえる)ものという認識だったので、よく考えたら相場がよくわかりません。わたしが子供の頃は伯祖母が大きな鍋で煮ていたものでした。今は実家でも作っていません。わざわざイナゴを食べなくとも肉や魚などでたんぱく質はとれるし、イナゴも農薬で退治しているのか昔ほど見かけなくなりました。
 久しぶりのイナゴの佃煮はとてもなつかしい味がしました。けれども、3匹も食べれば郷愁は充分に満たされてしまい、むしろ満たされ過ぎたような気すらしてしまい、かつて日常的に食卓に並んでいた一品が、なにか非日常の権化であるような不思議さに包まれるのでした。

「うた新聞」10月号<ライムライト>のコーナーに、小文「じわじわ」を掲載していただいておりました。様々なところで書いた文章の再構築になってしまった感じもありますが、お読みいただけましたら。
https://www.irinosha.com/

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9月9日、10日の河野裕子記念シンポジウム&塔短歌会全員歌会in京都2022に参加してきました。帰宅後、少し喉が痛くなってしまい、「京都に行ってきた」と大っぴらに言うのが憚られていたのですが、数日で落ち着いてほっとしました。思えば、コロナ禍前の前回の京都大会から帰宅後も検査をしても原因不明の咳が半月続いたので、京都に行くと喉が痛くなる体質なのかもしれません。前回は行きも帰りも夜行バスであまり眠れず疲れたのがよくなかったと思うので、今回は新幹線にしました。遠出するにもバスや鈍行を利用しがちで新幹線にあまり乗らない人生なので、チケットを取るのも、新幹線のホームに並ぶのもいちいち緊張します。眠れないのもよくなかったと思い、思い切って前泊しました。連泊するのにもいちいち思い切る人生なのです。

 3日自宅を空けるので、冷蔵庫の2つのトマトがあやういと思い、出掛ける前にトマトご飯を炊きました。味付けはコンソメ、塩コショウ、オリーブオイルを適量。お昼に新幹線の中で食べようと、クリームチーズを包んで海苔で巻いておにぎりにします。ご飯の残りはラップに包んで冷凍しました。おにぎりだけでは栄養が心許ないですが、ご飯の炭水化物、トマトのビタミンにチーズのたんぱく質、海苔のミネラルでバランスはとれているでしょう、と思うことにします。
 新幹線に乗るのは浜松大会以来です。その時に、隣の席の人に教えられて窓から富士山を観たのを思い出し、東京が近づいた頃に窓の外をながめていましたが、見つけられませんでした。顔を上げるのが遅かったのか、気づかず過ぎてしまったのか、そもそも反対側の席だったのか、残念でした。
 京都へは15時過ぎに着きました。感染対策で観光は控えてホテルに籠るつもりでいましたが、思いつきで京都御苑を散歩しました。この辺りを歴史上のあの人やあの人も通ったのかな、と昔に思いを馳せながら歩きつつ、地元らしき人達が自転車で通って行ったり学校帰りのようだったりジョギングしていたり普通の公園として過ごしているのが見えて、なんだかいいなあと思いました。

 なるべく荷物を減らしたく、1日目と3日目の服を着まわすことにして、速乾性でシワになりにくい素材のワンピースを着てきました。お弁当用のしょうゆ入れに液体洗剤も仕込んできました。ホテルのバスルームでごしごし洗濯をして、京都1日目の夜を眠りにつきました。

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8月の終わりに、山形に帰省しようと思ってお盆を外して3連休を取っていたのですが、帰ったところで祖母との面会が難しそうだったので、予定を変えて帰省せずに過ごしました。遅い夏休みのつもりで、有意義に過ごせれば良かったのですが、1日目、2日目はほとんど眠ってしまいました。疲れていたのでしょうか。かろうじてスーパーに買い出しに行ったくらいです。最近は鶏むね肉の1kgパックを買って一気に照り焼きにして冷凍と冷蔵で保存しつつ丼にしたりパンに挟んだりサラダにしたり。自家製サラダチキンよりは保存が利いていろいろ使えるという実感です。
 3日目には京都行きに備え美容院の予約を入れていたのですが、2時間前くらいに電話がきて美容師さんの体調不良とのことで急遽別な日に変更することになりました。残念だけれど、このご時世なので仕方ないです。出掛ける心の準備を整えていたところだったので、勢いのままに3月の地震の片付けをしました。本棚の本がほとんど床に落ちたまま、本棚も地震で浮いてズレた場所に落ちたままのぐちゃぐちゃ具合だったので、部屋の模様替えぐらいの大仕事で、汗だくです。まだ全然きれいな部屋にはなっていないけれど、床が見えるようになったので、だいぶすっきりしました。部屋のみだれは心のみだれ。自分で散らかした時とはまた違う、地震という不可抗力で崩れた部屋と心でしたが、少しずつ、立ち直ってゆきましょう。

 コスモスが咲き始めました。もう秋です。

  炊飯器床に落ちれば床の上でおにぎり作る余震またくる

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今日の早朝に震度4の地震がありました。3月の時みたいに本棚が倒れてこないように全身を使って必死で抑えながら、まるで船に乗っているような揺れだと思いました。夏の地震は薄着なのが怖いです。何かが落ちてきたりぶつけたりした時に体に傷ができやすく、3月の地震でも生足だったところに擦り傷や大きな痣ができてなかなか治らなかったものでした。
 3月16日の深夜に大きな地震があり、部屋の中がめちゃくちゃになってしまい、それからずっとどこか途方に暮れております。11年前の東日本大震災の時でさえ数週間後には人を呼べるくらいには片付けられたけれど、今回はもうまったく気力が湧かず。あの頃よりも部屋に物が増えたから、という単純な理由でもなくて。地震にまつわる文章も書いたり消したりうまくまとまらず。地震と関係ない文章からすこしずつ書いていきましょうか。

 映画『ぼけますから、よろしくお願いします。~おかえりお母さん~』を観てきておりました。前作がとても良くて、続編ができたのを知って迷わずに観に行きました。
 東京で映像制作の仕事をする住友直子さんが、広島のご両親を撮ったドキュメンタリーです。認知症の母に100歳を迎える父、老々介護でもあり遠距離介護でもあり、実の親子なだけになかなかに厳しい現実ではあるのですが、お母様やお父様のキャラクター性やエピソードにくすりとしながらも、わたしは終始泣きどおしでした。
 サブタイトルが「お母さん」であることを思いました。映画の中でも直子さんが「お父さん」「お母さん」と話しかける場面は多くあり、ご両親もお互いそう呼び合っています。また、直子さんが実家に帰った際の第一声の「お父さん」は広島弁のイントネーションも相まってでとても印象に残ります。両親が高齢になったからと言って「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼び方が変わるわけではなく、変わるとしたら子供ができてから子供に合わせて「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼び始めるのでしょう。わたしも両親を「お父さん」「お母さん」と呼んでいます。わたしがこのシリーズにおいて特に惹かれてしまうのは直子さんが独身女性であるというところで、作中でも「仕事が恋人」と語られるほど自立した格好いい女性で、だからこそ40代で乳がんを患ってしまってめそめそする直子さんを元気だった頃のお母様が明るく励ましてくれる場面などは、とてもせつなくなるのでした。お母様が認知症を発症するのはそれから5年後のことです。

 帰りに寄った本屋で、直子さんが「中国新聞」に連載していたコラム「認知症からの贈り物」に大幅加筆した『ぼけますから、よろしくお願いします。~おかえりお母さん~』(新潮社)を購入しました。お父様やお母様がとても魅力的で、ほんとうは結構しんどいであろう日々がユーモラスであたたかな筆致で描かれています。誰にもドラマがあり、誰もが老いてゆく。わたしもいつまでもぼんやりせず、少しずつ何か書いていきたい。

  公式サイト→https://bokemasu.com/

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11年目の3月11日、あの日と同じ金曜日です。わたしは今日は仕事でした。毎年3月11日は14時頃から仕事がゆるやかに静かになるのですが、今日はひっきりなしに電話が鳴って忙しくて、14時46分の黙祷もできずじまいで、今日が東日本大震災から11年目だなんて、もう世間では関係がなくなっているのかなと、あわただしさの中でしんみりしました。
 休憩時間にロッカー室で携帯電話を確認したら、14時40分ぐらいに、「今度ご飯食べない? 会いたいよー」みたいなノリのメールが届いていました。わたしとこの子ってこんな距離感だっけ……? というか、他県出身の余所者のわたしと違い、この子は生粋の宮城県民のはずなのに、震災とかどうでもいいんだろうか……と、くらくらしました。

 仕事帰りのバスの中、ウォークマンでラジオを聞いていました。帰宅してテレビを点けてニュースを見ると、さっきラジオで聞いたのと同じ流れで、被災地の各地での14時46分の様子と、高齢者施設が津波の心酔想定区域にたくさん建てられているという話題の後は、ウクライナの情勢と新型コロナウイルスの話題へ移ってゆきました。
 11年前の震災の他にも、大変なことが今はたくさんあります。心おだやかに暮らせる日が早く訪れますように祈るばかりです。

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ドイツの映画監督ヴィム・ヴェンダース作品の上映をいくつかやっていて、1985年公開の『東京画』を観てきました。ヴィム・ヴェンダース監督が、敬愛する小津安二郎監督の没後20年の東京を訪れ、『東京物語』のおもかげを探したり主演の笠智衆や撮影の厚田雄春に会ったりするドキュメンタリー映画です。

 1983年の東京でヴィム・ヴェンダース監督の目に映るのは、墓地の付近で場所を取ってのお花見であったり、パチンコであったり、ゴルフ練習場だったり、アメリカの格好をして踊る若者達であったり、食品サンプル工場であったり、景気の良い当時の日本の日常です。なつかしい……というほど1983年の記憶がわたしにはないのですが、それでも自分の生まれていた頃の光景はなつかしいような気がします。半ズボンの男の子が駅でだだをこねたり遊んでいましたが、思えば今はあの半ズボンはあまり見かけなくなりました。
 タクシーやホテルの中ではテレビをザッピングしていて、「銭形平次」が映りました。そういえば、子供の頃のわたしは「水戸黄門」「暴れん坊将軍」「大岡越前」「遠山の金さん」等々時代劇ばかり見ていましたが、今は地上波ではほとんどなくなりました。一方で、「タモリ倶楽部」のオープニングは今とまったく変わっていなくて、こんなに昔から、とびっくりしました。
 笠智衆、厚田雄春両氏により語られる小津安二郎監督は、独自の美意識がありとてもこだわりが強くて少しめんどうな気すらしてしまうのですが、お二人にとってどれだけ小津監督が大きな存在であったか伝わってきて胸が熱くなりました。役を演じていない笠智衆をわたしは初めて見ました。

 公開から凡そ40年を経た2022年の今になってこうしたドキュメンタリーを観たのも不思議なめぐり合わせでした。劇中にはさらに30年前の1953年公開の『東京物語』のいくつかの場面が時々挿入されます。何度か観たはずのラストシーンは何度観てもやっぱり良くて、良いものは何年経っても良くて、変わりゆくもの、変わらないものについて考えてみたくなるのでした。

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プロフィール
HN:
おとも
性別:
女性
自己紹介:
短歌とか映画とかこけしとか。
歌集『にず』(2020年/現代短歌社/¥2000)

連絡・問い合わせ:
tomomita★sage.ocn.ne.jp
(★を@に変えてお送りください)
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