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川が好き。山も好き。
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最寄りの駅までの道の途中に、保育所があります。通勤途中に、保育所へ通う親子連れと行き合います。保育所に通うのは6歳までだから、あの場所は完全に震災後の時間が流れている世界なのだな、とながめています。そんなことは来年以降は当然のことなのだけれど、震災の6年目という年にことさら意識してしまいます。
 震災後に生まれた子供を連れているお母さん達も、わたしと同世代か少し年下くらいのごく普通の女性です。自分の子が欲しい、生みたいという気持ちは強くないわたしではありますが、結局生まない方の人生を歩んでしまったな、という心の風が吹くのでした。

 6年目の3月11日である今日は、まったく普通に仕事に行きました。午後2時からしばらく業務を縮小したほかは、まったく普通の一日でした。今の暮らしの中で思い悩むことはいくつかあっても、それは震災とは関係がありません。くるしみのなにもかもが震災に繋がっていた頃を思えば、もうそののちの日々を生きているわたしです。震災を引きずっていた時は、こんな日がくるとは思いもよらず、一生ものの傷を負った気がしていました。
 わたしの中の震災が過去になってきているからこそ、他の人の被災に対して「わたしだって震災のせいでつらい!」と嘆くことなく、素直に目を向けられるようになりました。そして、まだ痛みの中にいる人のために、わたしにできることがあれば、なにかしたいと思うのでした。

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 熊本地震から一週間が過ぎました。今でも大きな余震が続いているようで、心配に思います。わたしは5年前に東日本大震災に遭い、避難所での宿泊も経験しました。ライフラインの途絶える不便さも、余震にふるえる夜も、先の見えない不安も覚えています。また、あの頃のわたしのように、誰にも頼れず、一人でがんばってしまう被災者の方もいるのではないか、他人事でない胸の痛みを感じています。
 九州のために、東北のわたしができることを探しています。

  東北に桜咲くころ熊本に地震来たれり試験紙のごとく

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 ヘリコプターの音が聞こえる。行方不明者の、5年目の捜索だろうか。2011年3月、震災の頃も、ヘリコプターの音がずっと鳴っていたから、ヘリコプターの音は不安な気持ちを呼び起こす。

 職場で被災して、その日は職場に泊まって、翌日に自宅に帰された。一人暮らしの自宅アパートは、足の踏み場もないほど散乱していた。冷蔵庫は廊下の真ん中に出てきていた。購入の際に大の男2人がかりで配達してもらった洗濯機は倒れていた。スチールラックや本棚は元の場所とは違う場所に移動していて、すっからかんになった中身は全部床の上に散らばっていた。電話が通じなくて誰とも連絡のつかない中、独りで片づけをした。水道が止まっていてトイレも使えず、区役所や文化センターまで用を足しに行った。ひび割れた窓を、余震に備えて開けたままにしておく。隙間から、冷たい風が入り込む。雪が降っていた。携帯電話のメールを何度も打っては送信ボタンを押したけれど、電波が届かず送られなかった。

 あれから5年。やっと、わたしの震災が遠くなってきたのを感じる。過去よりも、今、目の前のことで気持ちが忙しい。去年まで抱いていた、「わたしだって被災したんだから!」という思いは、もうない。ずいぶん楽になった。努力もしたのだった。仕事の業種や働き方を変えたり、意識して外へ出たりした。新しい世界に目を向けるようにした。やっと、ここまできた、と思う。やっと、今を生きられるようになった。
 よく耳にする「あの日を忘れないで」というフレーズ。けれども、被災当事者の人は、忘れてもいいような気もする。つらい気持ちをずっと抱えていなさい、なんて、とても言えない。

 今年の3月11日は晴れているので、洗濯をした。震災直後は、いろいろなうわさがあって洗濯物を外に干すのがためらわれていたことを思い出す。まだ外で子供を遊ばせない地域もあると聞く。わたしはもうどうでもよくなり、ベランダに白いシーツを広げる。

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 アパートの更新手続きをした。震災の年もアパートの更新手続きをした。更新の手続き後に震災が起こったから、印象に残っている。震災後はライフライン関係など様々な手続きがめちゃめちゃになったから、アパート更新のようなめんどうな手続きを先に済ませた後でよかったって安堵してた、当時。あれからもずっと同じ部屋に暮らしている。震災でひび割れた壁紙もそのままに。
 震災時を助け合った、近所に住んでいた友人は引っ越して、震災以降一度も会えないまま疎遠になってしまった。わたしには仕事がある、と震災時にわたしを支えてくれていた当時の仕事も、職場の仲間も、そのごの職場環境変化やパワハラに追われるように失職した今では無縁になった。「絆」なんていうものの空々しさを思う、あの日々あんなにはびこっていた言葉。

 先週、文化施設内の図書館へ行くついでに向かいのイベント小ホールを覗いたら、津波の瓦礫の中から見つかった写真や携帯電話などの返却会をしていた。なんだろう? と思いながらうろうろしていると、スタッフらしき人に「なにかお探しですか?」と声をかけられた。東日本大震災で、物は何も無くしていないわたしが興味本位で居てはいけないような場所に思えてきて、早々に出た。未だに、持ち主の下に戻っていない品々があんなにいっぱいあって、震災で無くしたものを探している人があんなにいっぱいいて。

 4年前の2011年3月12日、その隣の展示ホールで、わたしは眠った。ろうそくの頼りない灯りと、終始流され続けるラジオのニュースと、幾たびも訪れる余震の中で、知らない人達にまぎれて、一人で。一緒にいたかった人とは自分の独りよがりな遠慮と虚勢から離れた後で、寝る場所を探してたどり着いた、臨時の避難所。配給のバナナ、リンゴと選べたのだけど、リンゴは体が冷えそうだからバナナを選んだ。毛布なんて自宅から運べなくて、風呂敷に包んで持ってきたタオルケット一枚で、コートを着込んだまま縮こまって眠った。眠れなくて、泣いた。「一人はこわい」って縋りつけばよかったのに、わたしは大丈夫! なんて笑顔で自ずから一人になって、どうしてあんなに強かった、あの日々のわたし。
 昨日のことみたいな思いの残るあの文化施設が、今年は追悼式会場になる。わたしは仕事で行けないけれど。看板が立ててあった。

 去年の今頃は震災の揺り戻しがひどくて、心がこわれていた。震災3年が目処だったのか2014年3月いっぱいで終了してしまった「東日本大震災こころの相談電話」、というようなものにも話を聞いてもらってずい分お世話になった。毎年この日は文章を書くと決めているけれど、去年のはひどい。今は、去年の今頃のような父と母の間に入って川の字で眠りたいような欲求はないので、むしろそんなの気持ち悪いとさえ思うようになってきたので、気持ちが落ち着いてきたのだと思う。いろいろなことができるようになってきた。新しいことにも踏み出せるようになってきた。少しずつ前を向けるようになってきた。震災の痛みが消えたわけではないけれど。一生消えないのだろうけれど。

 3月に入って、震災のドキュメンタリー番組をいくつも見ている。つらくなってしまうこともあるけれど、見る。あの日の痛みを忘れたくない自分がいる。忘れたい自分もいるのだけれど。
 震災が起きなかったらよかったのに。と、まだ、毎日のように思う。でも、震災後の日々を生きてゆく。がんばって生きてゆく。
 

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 2015年1月12日(11日深夜)、NHKで『その街のこども』というドラマの再放送を見た。森山未來さんと佐藤江梨子さん演ずる、こども時代に阪神淡路大震災を経験して大人になった二人の話。ドラマの中でも震災は過去のことであるから、大きな出来事があるわけじゃない。ほとんどが、大人になった二人のやり取りで淡々と進められてゆく。
 2010年、このドラマが最初に放送された時に、わたしはリアルタイムで見ている。もともとNHKの単発ドラマが好きで、脚本が好きな渡辺あやさんだったのにも惹かれた。

 初回放送を見た時は、他人事だった。良いドラマだと思ったけれど、ほんとうに他人事だった。けれど、2011年に東日本大震災が起きた。震災の当事者となった今ふたたび見ると、もう、もう、なんていうか。何度も出てくる「100年に一度の震災」という台詞。ほんとうにそうだと思ってた。そののち東日本大震災に遭って、ドラマの中のユッチのおっちゃんみたいに、喪失感によってわたしがこわれてしまうなんて、思いもよらなかった。

 東日本大震災の過去に、わたしは向き合えるのだろうか。なんだかこの頃は、震災のことなんてもう忘れてしまいたいと思う。忘れることが、最終的なわたしの心の復興のような気がする。一方で、忘れてはいけないとも思う。わたしが震災に遭ったことを忘れないで、とも思う。ふとした時に、震災で負った心の傷を人に見せびらかしたくなる。そんなことをしても、痛々しいだけなのに。まだ、ごちゃごちゃしている。

  そのままにしておく白い壁紙のひび割れ 時にそっと触れおり


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折に触れて震災のことは書いてきたし、一年目、二年目もこの日は更新してきたので、義務のような気持ちで、文字を打ってはみるものの、気持ちがまとまらない。
 不思議、ほんとうに震災直後は不安だけど元気だった。がんばらなきゃがんばらなきゃって。当日は自分がこんなにも一人ぼっちな気はしてなかったから。帰る場所も待っててくれる人もいたような気がしてたから。みんなでがんばろうって。

 つらい。震災以降の不調と、震災以前から抱えていて震災で浮き彫りになったわたし自身の心のずれや思い違い、もう頭も心もいっぱいいっぱいで。短歌にすることで整理をしたり、そうした短歌が褒めてもらえることで自分を見失わないようにできていたところも、以前はあったのだけど、今はそういうものでも埋まらないみたい。なんだかんだいって去年の記事はまだ余裕あったよね。つらかったけど、これからはこんなふうに生きてこうって。前に進んでゆけるものと思ってたのに。

 手を握りたい。

 震災以前のわたしはどうして自分の中のそうした感情に気づかなかったんだろう。ずっと一人で、ほんとうに一人で、そうした安心感を知らずにいた時期が長かったから。知らないぬくもりは欲せない。知らないって、かなしいことだ。気づいてたらよかった。そしたらまるく収まったのに。わたしが自分の本心に気づかなかったから、わたしのせい。
 ろうそくの頼りない明かりの中、避難所で知らない人達にまぎれ一人で眠った夜も昨日のことみたいだ。
 こわい夢を見るから、目が覚めたときとなりに心ゆるせるひとがいてほしい。寄り添って眠りたい。人が番う理由が今は切にわかる。みんな同じ気持ちなんだって。わたしが震災前まで知らなかっただけで。

 読んでもらうためじゃなくて吐き出したいだけの文はここには書きたくないのに。そういう思いは短歌の形にすれば見られものになるかもしれないのに。歌を詠む力も残ってない。今日だけはゆるして。後で恥ずかしくなって消したくなると思うけど、消さないことにするね。今も恥ずかしい。
 仕事にも、人にも、短歌にも、愛されていた時、愛されるような自分だったよ。でも今はそうじゃない。そうじゃなくなってしまった。

 一人じゃ生きてゆけない。一人じゃ生きてゆけないよ。たすけて。きて。



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二年が過ぎた。なんて信じられない、まだ昨日のことのように覚えてる。と、思ってたのに、いろんなことを忘れていたと、たった今、前のブログを読み返して気づいた。そうだ、そうだ、そうだった、そんなことがあった、そんなふうに思ってた二年前、って。
 そんなふうに、ゆっくりと、忘れてゆくのだろうか。忘れたら楽になれるのだろうか。でも、書いて残していてよかったと思った。自分で書いたことなのに、他人を思うように泣いた。
 わたしなんて津波にも遭ってないし近しい人の誰も亡くしてないし自宅もなんとか無事だったし原発からも遠いし、被災者なんて言うのもおこがましい。報道を見るにつけ、そんな後ろめたさを抱えていた。けれども、わたしも確かに震災に遭ったのだと、二年前のわたしを思った。 

 わたしにとっての震災は、3月11日よりも、3月12日。当日は泊まれた職場が解散して、一人、誰とも連絡の取れないまま眠る場所を探してさまよった日。たどり着いた避難所で、頼りないろうそくの明かりの中で、ほこりまみれのコートを着込んだまま小さくなって眠ったこと。心細い夜、支えになった言葉。抑えるしかなかった心。後悔は、たぶん一生消えない。
 
 それでも、二年経って、少し心境の変化はあった。
 わたしが震災で失ったものは、きっと震災が起きなくともいずれ失っていた。二年経って、そう思えるようになった。

 この部屋はわたしの部屋か戸を開けてなみだも出ない三月十二日

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HN:
おとも
性別:
女性
自己紹介:
短歌とか映画とかこけしとか。
歌集『にず』(2020年/現代短歌社/¥2000)

連絡・問い合わせ:
tomomita★sage.ocn.ne.jp
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