実家ではせっかくパソコンの使えない状況にあるので、パソコンから離れた時間を過ごす。あまり荷物にならない文庫本を持っていったり、実家の本を読んだり、実家で飼っている犬と遊んだり、田舎道を散歩したり、野菜を出荷しに市場へ行くのについていったり、家族のために食事を作ったり、パソコンから離れて過ごした時間の方が、なんというか、生きている、という感じがする。休職した(のちに退職した)際、療養として実家でそんなふうに過ごしたことが、今の回復に繋がっている気はする。
祖母と過ごすのも楽しい。祖母は、わたしが帰ってくることを知ると、訪問販売のヤクルトを買って待っていてくれる。そんな祖母とヤクルトを飲んだり、一緒に犬をからかったり、部屋のこまごまとした手伝いをしたり、シップを貼ってあげたり、テレビを見ながらおしゃべりをしたり。
テレビに映る俳優の窪田正孝さんを「わたし、この人が好きなの」と言ったところ、祖母は「女房の方が良い男だ」と言う。女房、女房、と何のことだと思いきや、NHKの朝ドラ『ゲゲゲの女房』に水木先生役で出演していらした向井理さんのことであった。丁度、ご結婚の話題が持ち切りな時期だったこともあり、テレビでよく見かける度に「優しそうだ」「良い顔だ」とうれしそうで、乙女な祖母がおもしろかった。「向井理さんっていうんだよ」と名前を教えてあげると、「いい名前だなあ」と何度もくり返すのだった。次に会った時に覚えているかわからないけれど。というか、わたしがいいなあと思っている窪田正孝さんも朝ドラ出てたのに、やっぱり祖母なりの好みがあるのね。祖母が向井さんを気に入っているということが、なんだかほんとうにおもしろかった。今まで他のテレビの人をそんなふうに言っていたこともなかったので、よっぽど好きなのでしょう。
実家に居る間、裁縫は苦手だけれど、ボタンで取り外しのできる携帯電話入れも作った。ポケットのないバッグに付けるのだ。古い服の袖部分を袋にして、古いエプロンの紐で持ち手とボタンホールを作り、古いパジャマのボタンを付けて、余りもののレースのコースターを飾りに縫い付けた。柄もちぐはぐで縫い目もがたがただけど、自分用なので別にいいの。ボタンだけは、わたしのへたくそな縫いっぷりに業を煮やしたのか、家政科出身の母がちゃちゃっと付けてくれた。
パソコンから離れた時間を、一人暮らしの自宅に居る時にも過ごしたい。そもそも、誰かと一緒に居る時にネットを繋ごうなんて思わない。パソコンをさわりたくなるのは一人ぼっちで居る時なのだ。
ネットでも繋いでなけりゃわたしなど何処にもいないみたいな夜だ
思えば、わたしは賭け事が嫌いで生活には堅実な思考だけれど、人生の方は博打打まくっているような気がする。こんなふうに生きたくなんかないのに。おだやかに優しい安定した暮らしがしたいのに。人生に博打を売ったと言っても、大恋愛に溺れて身を滅ぼしたとか、起業しようとして栄華を極めたものの没落した、とかではない。若気の至りでつまらない夢を追って若さを棒に振り、安定職に就いてなんとか軌道修正できたと思ったら震災パワハラ病気とかだから、ロマンも何もない。でも、これからなんとかなれ。
その日は映画デーだったので、好きな角田光代さんが原作の『紙の月』観に行くことにした。先々の暮らしがわからな過ぎて引きこもりがちになってしまいがちだから、先々の暮らしのことを考えず外に出て今の自分を楽しませてあげるということもしてみようと思い立った。その方が心には良さそうで。
『紙の月』おもしろかった、小説版もドラマ版も未見で先入観なしに観たのもよかったかもしれない。そして長町モール紀伊国屋の裕子先生歌集の充実っぷり。平積みの斉藤梢さんの歌集も欲しかったけれど、ずっと読みたかった永田和宏先生河野裕子先生ご一家の『家族の歌』と角田光代さん穂村弘さんの『異性』が文庫化していたので購入してしまう。
雑貨屋さんにも寄った。震災以降ダンボールに用意していた防災グッズを、持ち出し用にリュックに入れたいなあってずっと思っていたのだ。防災グッズ入れだからそんなちゃんとしたおしゃれバッグじゃなくてよくって、安価で丁度良いの見つけて購入したら、店員さんが「おともさんですよね!」って、大昔の職場で一緒だったバイトちゃん!
5、6年ぶりの再会だったけれども、感じの良い笑顔は相変わらずで、実のところ、わたしは笑顔の大切さを同僚時代の彼女を見ていて覚えたのだった。ちゃんとした別の就職先の決まって退職したはずの彼女にもあれからいろいろあったみたいだけれど、わたしもいろいろあったけれど、先々のことが不安過ぎて映画なんか観てる場合じゃないかもって思いながらも、映画観に行ったからこんなふうにうれしい再会があって、よかった。今の連絡先を交換して、わたしも今でも交流のある共通の同僚仲間も交えてまた会いたいね、ゆっくりお話したいねって話をした。社交辞令に終わらず、実現したらいいなって思う。そのために、自分も動きたいと思う。人との繋がりはほんとうに大切にしてゆきたいから。
福祉の手当は受給できないことが決まったけれど、数日して、短期ではあるものの今の自分にもがんばれそうな仕事に就くことになった。
「またね」ってまたの日が来て ああわたし一人ぼっちじゃないんだなって
それまでわたしは、わたし自身の心をないがしろにするようなところがあって、たとえば誰かがやらないと仕方のないことなどがあった場合に犠牲になりがちだったし、それを自分でも気づいていなかった。わたしを見ていてくれた昔の職場の方から忠言していただいて気づいたことだ。いい人になっていても誰もい人なんて思ってくれない。何を言っても断らない人なんだって、どんどん軽んじられていってしまうから、主張すべき時はちゃんとした方がいい、と。
それでも、生き方の癖はなかなか抜けず、震災のような非常事態時にこそ、わたし自身の安全や不安を後回しにするなど、へたくそに振る舞ってしまった。そうして、いろいろなものを喪った。
だから、何よりもわたし自身の幸福を一番大事にしようって、神社を参拝していたのだ。尤も、その神社は学業の合格祈願の神社だったけれども。
「祈る」ということについて考えている。先日、NHKでお百度参りのドキュメンタリーを見た。元気だった息子さんが突然病に伏し、当初こそ切実な思いでお百度参りをしていたような女性であったけれど、回復の兆しが見えず闘病が長引くにつれ、いつしかお百度参りを続ける意味合いが変わってきたように見えた。それでも、ずっとお百度参りを続けていた。彼女だけでなく、他のお百度参りをする人達も似たような事情を抱えていた。
祈るほかどうしようのないことがある。祈らずにはいられないことがある。祈ってもどうしようもないことがある。それでも。「願う」とは違うのだ、似ているようで、「祈る」と「願う」はどこかが違う、どこかが。
五円玉はいつしか集めなくなった。当時の好きだった仕事をずっと続けたい、という思いの一つが叶わないことがわかったから――仕事を辞す羽目になったから。幾たびも参った神社にも自然、足が遠のいてしまった。
しあわせになりたいと思う。もう、わたし自身がしあわせになりたいと思う。それは「願い」なのか「祈り」なのか、自分でもよくわからない。
欲張っておみくじ二回引きおれば待ち人来ずと二回告げらる
それでも、モデルの敦士さんが一言もネガティブな言葉を発することなく肯定してくれたり、よゐこの浜口さんの圧倒的な、女性芸人としてではなく一人の女性としての目線での褒めっぷりに、号泣してしまっている自分がいた。なんで大久保さんがおめかしを褒められてこんなにわたしがうれしいんだろう。わたしのこの涙はおかしい、泣くような場面ではない。あらためて、自分の心の傷の根深さを思った。
小学生高学年の頃だったと思う。担任でもない女性の先生が、なにかの係だったわたしになにか頼みかけて、「やっぱり可愛い子にしよう」と言って去って行った。そののち、同じ係の容姿の見栄えする女の子が、壇上でどこかのえらい人に花束を贈呈していた。ああ、あれを頼まれかけていたのか。目立つことは好きじゃないので、花束贈呈役に選ばれなくてよかった。でも、先生の言葉にちょっと傷ついている自分もいた。自分が容姿に恵まれてないことは知っている。けれども、うっかり漏れてしまったのであろう先生の本音を聞いてしまって、他人が認めるほど、わたしの容姿は良くない、ということをあらためて自覚してしまって、恥ずかしかった。それ以前も、そののちも、友達やただの級友、上司など、他人から自分の容姿をそれとなく貶されることは何度かあった。
わたしはブスだから、ブスはしゃしゃり出ちゃいけない。ブスだから、女の子らしいかわいい格好なんか似合わない、しちゃいけない。ブスだから、多くを望んじゃいけない。ブスだから、わたしはブスだからと、なにかにつけて萎縮して自信が持てなくなり、思春期に母親との折り合いがあまりよくなかったこともあって、性格もこじらせていってしまい、いつしか自分の中の女性性をうまく受け入れられないようになってしまった。
もちろん、絶世の美女でなくとも、いつも笑顔でニコニコしていたり、表情や仕草が可愛らしかったり、内面のうつくしさが外面に滲み出て魅力的な女性はいっぱいいる。けれど、わたしは自分はブスであるということに気後れし過ぎて、そういったことに気づくのが遅れてしまった。「可愛い」「美人」などと容姿を褒められて、ああ、これは社交辞令だと察し「ありがとうございます☆」「よく言われます☆」なんて返せるようになったのも、女の子らしい格好やお化粧を躊躇いなくできるようになったのも、もう若い女の子ではなくなってからのことだ
「田宮さんて美人だよね」と言われたまま美人になってしまえばよかった
この歌を塔11月号で取り上げていただいた際、評者の川田さんに「あっけらかんとした自己肯定が素晴らしい。『頭のよさそうなおぼっちゃんね』『なんて可愛いお嬢さんでしょう』なんて言われながら育ち、大人になってやっとそれがお世辞であったことを知る。しかし、誰しもそれなりの賢さ、美しさを持ち、それなりの人生を送るのが一番の幸せ。これも負け惜しみかも……。」という評をいただいだ。そういう受け取り方もありだな、と、こんなふうに歌が作者の手を離れてゆくことをおもしろく思った。
実際は真逆でわたしは「可愛い」というお世辞どころか「可愛くない」という本音を受けて育っている。自己肯定どころか自己否定の人生だった。だからこそ、「美人だよね」と言われた時、このひとにはブスキャラのこのわたしが美人に見えているのだろうか、と戸惑った。戸惑いながら、うれしかった。やっぱり、うれしかったのだった。
***
ホワイトシチュー。市販のルーを使わず、ホワイトソースから手作り。この食器、一人暮らし始めた15年ほど前に母が持たせてくれたのだけど、15年ほどにして初めて使った。写真でも撮ろうとか思わないと、普段使いの丼とかお椀によそってしまうもの。
一円玉ばかりなりけり貯金箱二十六年ぶりに開けば
「ゆうびん!」とお金を入れた幼い日ポストの形の貯金箱なり
遺書にあの上司の名前を赤く書き死んでやろうと時に思いつ
部屋うちの全てのものが過去形と思う真夜中色のパステル
住民票待ちつつ向こう公務員なる人達のまぶしかりけり
今よりもあんなに恵まれてた日々を何故どん底と思っていたの
しあわせな歌が詠みたい誰からも全然ほめられなくていいから
***
二首目を選歌後記に取り上げていただきました。「二十六年前といえば、平成元年、昭和の終わりということになる」って、作者のわたしが全然気づいてなかった!
9月号選歌欄評に、9月号に載せていただいた
「田宮さんて美人だよね」と言われたまま美人になってしまえばよかった
と、いう歌を取り上げていただきました。「あっけらかんとした自己肯定が素晴らしい」とのことですが、ほんとうは真逆で容姿を貶されて育ったのに珍しく褒められた時の歌なのだけど、こうして歌は作者の手を離れてゆくのだなあ、って、おもしろく思いました。この歌については思うことがあったので、そのうちなにか書きます。
今号の特集は全国大会報告。いいなあ、行きたかった、京都。
本部の方と、事務処理等で今でも少し書面のやり取りがある。仕事の現場は一緒でなく、本部から事務処理の際だけに来ていただいてご一緒した女性上司。最終勤務日、というよりはわたしの体調が良くなくこれ以上勤務できる状態ではないという話し合いの際、ちょっとした空いた時間に、初めて雑談をした。お互い読書が趣味であることがわかり、意気投合した。彼女は湊かなえさんの小説が好きだと言い、わたしは『告白』の原作も読んで映画も見ていたので、ひとしきり盛り上がった。わたしは好きな作家を聞かれて、角田光代さんと答えた。わたしは短編集が好きなのだけど、映画化もされた『八日目の蝉』が有名だということでお勧めした。「普段は事務処理に追われているから、こんなふうに職場で本の話ができるのがうれしい」と彼女は微笑んでいた。
それ以来、退職にまつわる書類、諸々の手当ての手続きの書類、等々事務書類が彼女から送られて来る度に、事務的な文書の後に「読んでみました」「お勧めです」「映画化嬉しいですね」といったような本にまつわる追伸が書いてあって、わたしも事務書類を送る際に返して、なんだかそんなことが、うれしい。好きな話をできることもうれしいし、気遣っていただけていることもうれしい。
こうした方と一緒の現場で仕事ができていたら、休職や退職をすることもなかったかもしなれい、なんて思ったりする。人間関係は仕事をするうえで大きく影響するから。下ネタが大好きな人はわたしのいた部署で水を得た魚のように輝くのだろうし、わたしは本が好きで語り合える人が職場にいれば、気の持ちようで体調も悪化せず仕事に行くのも楽しかったと思う。現に、別な仕事をしていた頃、一緒だった方々とは本の貸し借りもできて、わたし以外の人をも何人も潰したクラッシャー上司が現れるまでは楽しかった。仕事は社会人として稼ぎに行くことろでもあるけれど、どんなに好きな仕事でも、ふとした職場環境の要因で崩れてしまう。好きな仕事で、自分に向いていて、人間関係が良好で、環境が良い、そんな仕事に就けたらいいのだけれど。お給料はそんなに欲張らないから。
本を読むひと、と答える戯れに好きなタイプを聞かれた時は
去年の今頃に失業手当を申し込んで、給付される前に再就職が決まって、失業手当を再就職手当に切り替えの申し込みをして給付される前に転職して、いろいろ具合が悪くなって休職の果てに退職して、そうこうしているうちに期限が切れて、ともすれば受給できたはずが一円も給付されずに消えてしまった金額がいくらかなんて数えてしまえば泣くしかないような暮らし。どうしてこんな人生になってしまったのだろう。本来は職を転々とするタイプでもなかったし、本職に在職時も慎ましく遊びもせずにまじめに働いていたのだけれど。
わたし、そこそこ長く福祉を施す方の側にいたのに、空気も合っててそちらの分野をもっと勉強したかったのに、今や福祉を受ける側に回ってしまった、不思議。ひらり、葉の一枚の翻るように。それでも、今のわたしがいろんな制度にお世話になれるかもしれないのなら、今はお世話になっておきたい。一時はなんにもできず寝たきりだったのが、そう思えるまでに回復してきた。無理しないでゆっくり、自分のできることから無理しないでがんばってゆきたい。
バスで15分ほど揺られて職安に行った。昨日電話で問い合わせて、書類をかき集めて合わせたらこの先どうにかなるかもしれない、という話になり、今日伺うことになった。職安の給付課で、昨日お話した男性の職員さんにかき集めた書類見てもらったけれど、一見して月数は満たしてるように見えるものの内密な日数が足りてなく、効力にはならないとのこと。――徒労であった。世界は思ったより優しくできているようで、やっぱり厳しい。
職安に集っていた人達はたぶんほとんどが仕事を探していて、そんな中に泣いている赤ちゃんやぐずっている幼子がいたりして、ああ、お母さんの方が仕事を探してるのか、って、せつなくなる。トイレの手洗い場で一緒になる女性職員さんの首に青い紐でぶら下がる、社員証のまぶしさときたら。お高そうな素敵なお洋服を着ていらっしゃって、ばっちりしたお化粧を直している。今日、わたしは、お化粧ももったいないのと、目に見えて地味に不憫そうな方が同情を誘えていい結果に繋がるかも、なんてバカらしいことを考えて、ほとんどすっぴんで来ていた。失職前は、すっぴんで外になんて出られない! ぐらいの自意識はあったはずなのに、環境の変化というものはこうも自分をも変えてしまう。
帰りは一時間ほど歩いて帰った。当てにしていた給付金が入りそうにないことがわかったから、ではなく、もとから帰りは歩こうと思っていたのだ。
帰り、銀行に寄り、今どうなっているのか現実を直視するのがずっとこわくて触れていなかった通帳を、思い切って記帳した。いざ記帳してみたら思ってたより残高があって、少し胸を撫で下ろした。一円も需給できずに消滅したと思っていた失業手当は、半年以上前に二回に分けて三万ほどではあったけれど振り込まれてあった。
歩いているうちに右のかかとに靴擦れができた。職安からだけでなく、職安に近い歌会の会場からも歩いて帰ることが多くて、道にも歩くことにも慣れているはずなのに。痛い。
通り道に現れた神社で、お参りをした。この先にいいことがありますように。散りかけの紅葉の赤ががきれいで目に沁みた。
職安の帰りに過日解散せしバンドのラストアルバムを買う
***
夜中に急におやつが食べたくなって突発的に作ったマフィン。バターの代わりにサラダ油でヘルシーに。
今年の夏の実家療養中に、干しナス作りの手伝いをしたことを思い出す。あんなふうな平たいざるは持っていないし、買うつもりもない。干し野菜専用の段になっていて吊るして使うネットが欲しいけれど、やっぱり買うつもりもない。どうしたものかと部屋うちのものを探していたら、使い捨てで三角コーナー代わりになるという『ポンッと置くだけ水切り袋』というものがあった。料理の際の生ゴミ処理に便利だから、と母がくれたのだった。けれど一人暮らしでは生ゴミもさほど出ず、さほど出番がなかった。袋の底を広げると自立する、ポリエチレン製の水切り袋だ。これは使えそう。早速、大根を切って、件の水きり袋に入れて、洗濯ばさみでベランダに干してみた。うん、なかなか悪くない。
切干大根を作ったことにより、切干大根作りにまつわる歌がいくつも湧いてきて、これまで未発表だった歌のストックもくっついてくっついて連作にまとめられそうになってきた。棚からぼた餅。切干大根作ってよかったと思う。切干大根が干上がって出来上がる頃には連作も出来上がっているのでしょう。これぞわたしが所属する短歌結社でもよく言われてる、「生活即短歌」って感じがする。
このところ短歌界隈では、虚構短歌について話題になっていた。発端は、今年の短歌研究新人賞受賞作は父の挽歌であったのだが、作者の父が実在していて、歌の中で父殺しを行ったというようなこと。だまされた、不謹慎といった感情を持つ方々がいたようなのだった。そうした問題からは、わたしはどこか距離を置いている。正直な好みで言えばわたしは短歌に私性を求める方向を向いている。けれど、わたしごときがなにか主張することもない、というような。ただ、わたしは虚構で短歌は作れないな。と、切干大根作りながらあらためて思った。切干大根は干上がるのに数日かかるとのこと。
先日は、三階の自宅のベランダの鉢に自生していたタンポポの葉っぱを、白菜と一緒に鍋に入れて食べてみた。彩りも良くなって、思ってたより普通の味だった。ベランダ菜園は、一度種蒔いたきり毎年生えてきていたシソが今年は生えなかったのがかなしい。放射能に関してはもうほとんど気にしていない。
放射能に関してあんまり気にしていないのは、たぶん生まないんじゃないかと思ってしまっているから。人生どうなるかわからないけれど。自分の気持ちも変わるかもしれないし。自分で自分のことも好きになれて、このひとの子を生みたい! と思えるような誰かと仲良く暮らすような人生になれたらしあわせだと思う。
南向き陽当たりのいい部屋なのにひとりで住んで申し訳ない
二十五年という歳月は短かったでしょうか
……けれど
歳月だけではないでしょう
たった一日っきりの
稲妻のような真実を
抱きしめて生き抜いている人もいますもの
(「歳月」より)
茨木のり子詩集『歳月』(花神社)再読。夫の死後に書かれた、夫への挽歌。ラブレターのようなものだから生前は恥ずかしいと、「Yへ」(夫君のイニシャル)と記された箱へ仕舞っておいて、自身の死後に公表されたという、愛の言葉たち。
こんなふうに伴侶を想っていたい。何度読み返してもうっとりしてしまう、うつくしい詩集。白を基調とした装丁もすてき。わたしの宝ものの一冊でした。
詩の棚に茨木のり子『歳月』がなくて二月の妹の結婚
手紙を捨てるなんて、と思いながら、あの頃にわたしが送った手紙は捨ててほしい、と思っているわたしがいる。わたしはわたしなりに変わってしまって、今読み返せば若さゆえの青臭さがむず痒い。今でもこの頃のわたしだなんて思われていたくない。こんなにあの頃の手紙を恥ずかしく思うのは、まるで、手紙を書くために書いていたような手紙だったからかもしれない、と思う。手紙に綴ったことは、相手を思って届けたい言葉だったか。友達も知り合いもほとんどいない街で一人、当時はインターネットもなくて、抱えていた思いを吐き出すように手紙にしたためていた、ような気もする。受け止めてくれる人がいるのをいいことに。尤も、それはお互い様だったかもしれなくて。
下書きとして残っていたわたしの手紙文に「わたしは今が一番どん底だと思う。」なんて書いてあった。5年くらい前だ、まだ20代の。
どん底、なんて、世間知らず過ぎて笑っちゃう。あの程度がどん底なんて。今のわたしより未来があるのに、どん底、なんて。そののちしあわせをつかめるのに、どん底、なんて。つかんだしあわせを自分で手離すようなことをしてやっと味わうのに、どん底、なんて。
好きだったひとが誕生日にくれたゴーリキー『どん底』昔のことだ
歌集『にず』(2020年/現代短歌社/¥2000)
連絡・問い合わせ:
tomomita★sage.ocn.ne.jp
(★を@に変えてお送りください)