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川が好き。山も好き。
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平日の休み、仙台文学館へ特別展「ふつうがえらい! エッセイスト 佐野洋子展」を見に行きました。晴れた日に台原森林公園の中を歩くのは気持ちがいいです。歩道にメジロが一羽いて、近づくと飛んでゆきました。人生で初めて「メジロだ!」と思いました。数年前に<鳥図鑑持たぬわたしはトトトトと足下を過ぐる小鳥を知らず>という歌を詠んだ後に鳥の名前を覚えたく思い、野鳥図鑑を買っていたので、メジロだとわかりました。

 佐野洋子さんの作品は実はあんまり読んだことがなくて、『100万回生きたねこ』なんて有名過ぎるのですっかり読んだ気になっていましたが、よく考えたら読んでいませんでした。『おじさんのかさ』はたぶん読みました。Eテレの「ヨーコさんの“言葉”」は好きでよく見ていて、いつかちゃんとエッセイを読みたいと思っていたので、展示もとても楽しみにしていたのです。
 
 生原稿や、表紙や挿絵の原画、愛用品など、活字だけでは伝わらないような人間味を感じました。日記などは読者を意識しておらずエッセイ以上に剥き出しな分、貴重な資料だと感謝するとともに、もしも自分の死後に日記が残ってこんなふうに展示されたらどうしようとびびってしまいます。万が一のために日記も死後に人に読まれることを意識して書くべきか。
 ドクターマーチンのカラーインクが展示してあり、わたしも愛用していたのでうれしくなりました。そして日本での販売が19年に終了していたことを初めて知りました。こんな時代が来たのか、と寂しくなりました。絵ももう描いていないのに。
 展示してあるいろいろな文章を読んで、存外にエネルギッシュで、それでいて繊細な人だと思いました。エッセイは主に40代以降に書かれたということも知り、自分の中でもよいタイミングだったように感じました。

 2階ギャラリーでは「文学にみる震災資料展」が催されていました。机3台ほどのスペースに10年分の書籍が並べられています。震災の作品は時に読むのがつらかったりもするのですが、言葉で残された意味なども考えながら、無理のない範囲で読んでゆければと思っています。短歌の棚にはわたしの歌集も置いていただいておりました。ありがたいことです。


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まだ余震が続いていてこわいです。今日は左腕がやたら痛くて、なんだろう寝違えたのかなあと思っていたのですが、筋肉痛だとやっと気づきました。地震の片付けで重たいものを持ち上げて、普段使わないような筋肉を使ったのでした。

 一昨日の夜は久しぶりに大きな地震でびっくりしました。2段重ねで本棚にしていたカラーボックスが床に落ちてしまって本が床に散乱したり、冷蔵庫が廊下に進んできて、その上の炊飯ジャーが床に落ちてしまい、保温していたご飯が床に落ちてしまいました。後でラップにくるんで冷凍しようと思ってたのに、茶碗3杯分くらいはあったのに。食べ物をだめにしてしまうのは本当に心ぐるしい。

 ガスの元栓を確認して、この先もしも水道が止まった時のためにバスタブに水を貯めて、余震で閉じ込められないように窓を開けて(窓は揺れで少し開いたのだけれども)、リラックスした格好でいたのをいつでも外に出られる服に着替えて。テレビはすっかり緊急地震速報に切り替わり、サイレンの音、余震の続く中で部屋を片付けながら、こういう時に一人だとつくづく心細く感じます。気がついたら歯を痛いくらい食いしばっていて、なぜか左手には片付けの途中で拾ったらしい安全ピンやボタンをいつのまにかずっと握っていました。
 固定電話に実家の母から電話がきました。携帯電話は全然つながらないとのことでした。一人暮らしですし、固定電話をこのまま置き続けるか迷ったりもしますが、やっぱりいざという時は強いです。この夜のためにわたしはずっと固定電話を引き続けていたのかもしれません。
 変に疲れて、気持ちはそわそわしたまま、片付けも中途半端に眠りました。土曜日の深夜は吉本新喜劇を楽しみにしていますが、さすがにこんな日は中止です。

 翌日は午後からオンラインで塔の福島歌会でした。トイレのタンクの中のピタゴラスイッチ的な部分が地震でずれて、水が流れなくなっていたので、なんとか直そうと蓋を開けてごちゃごちゃ作業していたら参加時間のぎりぎりになってしまいました。昨日の今日で床は物だらけですが、カメラ位置をちょっと上げれば映らないのでバレてないでしょう。そしてガスが止まってお風呂に入れなかったのですが、オンラインなので臭い誰にも届きません。対面の歌会じゃなくて助かりました! わたしのずぼらはさておき、東北の皆さんの無事を確認できて安心しました。歌会の最中にガス屋さんが来てガスも無事に復旧しました。夕方にトイレもなんとか直しました。10年前の震災ではトイレの仕組みのずれから水漏れがして、それまで会ったこともない下の階の住人から苦情を受けた苦い思い出があるのでした。

 今日はいつも通りの仕事をして帰ってきました。風が強いです。今しがた、ニュースで「被災地」と聞こえました。どこを指すのか、いつを指すのか、今日もまた眠ります。

  余震なり臨時ニュースの声も灯も揺れ湯あがりの身は冷えてゆく  『にず』

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明けましておめでとうございます。あっという間に新年も三日目。会社の企画の景品で年末に届いた高反発マットレスが素晴らしいのか、どうにも寝正月になってしまっています。うっかりすると寝てしまう。これまでせんべい布団で寝つきが悪いのが悩みだったので、ほんとうに良いものを手にできました。
 
 毎年年賀状に使っていた顔をはめるパネルの写真が外出自粛のためにないので、今年の年賀状は旧年のカレンダーを切って貼り絵にしました。チョキチョキ、ペタペタ、楽しかったです。全てを貼り絵で制作して送るのは労力的に難しいので、1枚作って印刷ではありますが、手作業の雰囲気が出ていればいいな。
 クリエイティブな仕事がしたいと昔は思っていましたが、自分にはそういうセンスがないなと、画材なども手離してから楽になった気がしています。時々こんなふうに思い出したように楽しくできればきっと充分です。
 
 実家から電話が来て、祖母と話すことができました。祖母の声は聞こえるし、わたしの声も聞こえているようなのですが、どうにも会話にならず。直接会えればもう少し意思疎通できると思うのですが、こんな世の中で一年会えず、悔しいものです。
 妹からも電話が来ました。妹と話をしていると、横からママにかまって欲しくてしょうがない甥っ子の声が聞こえてきます。小さい子供からママを取り上げているのも申し訳なく、持ち主に返すような気持ちで通話を終えました。

 静かなお正月です。こんなふうに過ごす人が、今年は多いのでしょう。単身用のアパートにも人の気配がします。せっかくお正月に仙台に居るのに仙台初売りにも行かず、年賀状を出しにポストまで出かけた以外は「ウチヲデテミリヤアテドモナイガ/正月キブンガドコニモミエタ/トコロガ会ヒタイヒトモナク/アサガヤアタリデ大ザケノンダ」などと井伏鱒二訳の「田家春望」を諳んじつつ自宅で過ごしました。

 楽しくて優しい歌が詠めるような一年になりますように。




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年末年始に休みが取れまして、帰省の予定を立てておりましたが、昨日になってやっぱりやめた方がいいと実家から電話が来て、仙台で過ごしています。
 帰省といっても隣県ですし、同郷の同僚さんはこれまで何度も実家に帰っていて今回も帰ると言っていますし、気を付ければ大丈夫でしょ、という認識でいたのですが、なにぶん交通機関の乗り継ぎがあったり祖母が高齢だったりなのでしょうがないです。今年の初め頃に帰省した時に、何度か帰省するつもりで高速バスの券を買っていたのですが、まさかのコロナ禍で使わないまま財布に入れっぱなしで一年経ち、見て見たら印刷がすっかり色褪せていました。こんなに消えてしまって、券として使えるのでしょうか、ただの紙になっているのではないでしょうか。完全に真っ白になってしまう前に、コロナが終息して帰れたらいいなと思います。

 帰省に向けて冷蔵庫の中の食材を減らしていたので、あわてて雪の中を買い出しに出かけました。ステイホームのために数日分、お雑煮用のごぼうや鶏肉、餅なども買いましょう。ソーシャルディスタンスで距離を取ったレジの、長い行列に並ぶ人の籠がみないっぱいです。

 こうなるのだったら仕事入れればよかったかな…と罪悪感が芽生えたりもしましたが、せっかくの連休ですから歌集など本を読んだり、原稿やお手紙を書いたり、日々の滞っている作業などを進めて有意義に過ごしたいと思います。特にお礼状の類は溜め込まずに出せるようになりたい。年末年始中に管理できれば。年賀状もこれから書きます。ここ10年ほど、観光地に置いてある顔をはめるパネルの写真を年賀状に使っていたのですが、今年はほとんどどこにも行っていないのでパネルに顔をはめていません。

 2020年は歌集を刊行したことが自分にとって大きな出来事でした。制作中に緊急事態宣言なども発令されて一時はどうなることか心配しておりましたが、無事に刊行できて、思いがげずたくさんの方に読んでいただけて、お手紙をいただいたり、方々で感想を書いていただいたり、評などで取り上げていただいたり、ほんとうにありがたく思います。版元で品切れになっているかもしれないのですが、わたしの手元にはまだ在庫がありますので、お求めの際はご連絡くださいませ。
tomomita★sage.ocn.ne.jp  (★を@に変えてお送りください。)

 今年一年たくさんの皆さまにお世話になりました、ありがとうございました。それでは良い一年をお迎えくださいませ。

 iichikoのポスターの中にいいちこを探す今年ももうすぐ終わる  『にず』

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もう12月、塔11月号まで読み終えております。次号が、せめて次々号が出るまでには書き留めておきたいものですが、こういうのは1回ペース崩れるとずるずる行くなあ。
 10月から若葉集の受付をしております。宛先が都市部から北の方に移ったことにより、南にお住まいの皆さまにおかれましては〆切が実質早くなってしまって申し訳ないです。
 9月号から遡ってみましょう、敬称略です。

  永遠のごとくにわれの子を膝にのせてるおとうと 生前のこと  岩野伸子

 子が膝に乗る大きさであるのは限定的な時間であると思えば、「永遠のごとく」「生前」といった言葉にドラマを感じずにはいられないのです。
 
  席ひとつ空けて映画を観る五月ふたりに透明な子のあるごとく  大森静佳

 映画館のコロナ感染予防対策がこんなせつない歌になるのだなあ。4句目の字余りに透明さが強調されるようです。

  作ったはいいがどこかが恥ずかしいやい歌集め恥ずかしいぞ  小山美保子 

 下の句の呼びかけが楽しい。歌が歌集として形になったことで、自分から離れたような感覚が伝わってきます。そして『灯台守になりたかったよ』すてきな歌集ですよ!

  箱庭の駅を灯して永遠に来ない電車を待つ人を置く  佐藤涼子

 「永遠に来ない電車」とわざわざ言葉で表現されると、なんてことのない箱庭が急に意味を持って見えてきます。箱庭に置く「人」が自身の投影であるかのような。

  この家に何年住んでゐるのかと三回も聞き友 夕方帰る  山田トシ子

 淡々と詠まれていますが「三回も」の「も」に作者の感情がにじみ出るようです。後半の「聞き友」といった不思議な言い回しや一字空けのひっかかりも同様に。

  コンビニの前に咲いてたねじ花を見つけたことを今日は話そう  吉原真

 ねじ花が咲いてたのも見つけたのも過去形なので、今咲いてると伝えたいわけではないのだなあと思うとなんとも不思議な歌。ささやかな記憶に、作者だけの特別な思いがあるのでしょう。

  我が家には夕焼け見える窓三つそのうち二つを行ったり来たりす  朝日みさ

 三つのうち二つだけを、という具体性がリアルでいいなと思いました。なぜなのか明かしていないのですが、理由がわかるとかえって野暮になる歌でしょう。

  かなしみをだれにでも言ふひととゐて手持ち花火の火を分け合へり  千葉優作

 特別に心をゆるした相手だからというわけでなく、誰でもいいから気持ちを吐き出したい、という人。受け止める側の心情が花火に託されていて、その火がかなしく優しく点っているようです。

  沢山の馬に囲まれうれしさのあまり詠草浮かばずにいる  芳賀直子

 吟行でしょうか。どういう状況?って想像すると楽しい光景です。「うれしさのあまり」という短歌らしくない表現もなにかおもしろくて。やっぱりうれしい時ではなくつらい時かなしい時に歌は詠ってしまうものなのだ、ということにも気付かされます。

  田の畦にひとり小草を引く男、力ある尻クッとつき出し  飯島由利子 

 こういう健康的な農の歌は惹かれる題材なのですが、「クッ」というオノマトペに勢いがあって、「ク」の字が尻をつき出している人に見えてきておもしろいです。

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映画『おらおらでひとりいぐも』を観てきました。監督・脚本は沖田修一さん、出演は田中裕子さん、蒼井優さん、東出昌大さん、濱田岳さん、青木崇高さん、宮藤官九郎さんなど。原作は若竹千佐子さんの同名小説、芥川賞受賞作。
 夫に先立たれ、寂しさに向き合う75歳の桃子さんの物語。原作のあのごちゃごちゃな思考の文章が、映像では3人ものイマジナリーフレンドとの会話で表現されていて、おお、と思いました。

 部屋の真ん中のテーブルが定位置の75歳の桃子さんの暮らしが、仕事をしている以外はわたしとそう変わらなくて、とはいっても愛するものを喪って感じる孤独と、最初から何もないのとでは大幅に違うんじゃないか、と思いつつ喪って手にした自由に桃子さんが内心では悦びを感じているように、わたしも自ら望んでこんな暮らしをしているのかもしれない、とかなんとかぐだぐだ考えさせられました。

 演出は弾けていますが、原作には忠実な映画化でした。原作を読んでいたこともあって、映画の前情報は仕入れずに観たのですが、その内なる桃子さんの役名が寂しさ1、寂しさ2、寂しさ3だと、わたしはエンドロールを見て初めて知ってとてもせつなくなりました。

  銀杏の匂いは夜の方が濃く 過去形の願い事ばかり増ゆ

 銀杏の潰れた匂いの季節です。昨年この歌を詠んだ時は、夜の気分が嗅覚を敏感にさせてるのだ、と本気で思っていたのですが、真相に最近気づきました。朝晩通る道路に散らばっている銀杏が、日中踏まれて潰されたため匂いが発生して、夜にはより強く感じていたのでした。

  公式サイト→https://oraora-movie.asmik-ace.co.jp/

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塔8月号を読みます。河野裕子一首鑑賞が圧巻です。敬称略です。

 子どもらは三月を家に籠りいて最も姿を見ぬは次女なり  荒井直子

 きょうだいの個性がこんなところにも出てくるのだなあと興味深い。長女でも末っ子でもなく次女というのも。過度に心配するでもなく淡々とした詠いぶりに健康的な親子関係の距離感が感じられます。

  美しき切り口みせて卵焼き椎茸と鮭のあはひに詰める  山縣みさを

 卵焼きの断面の美しさにハッとしました。特別なものはなくても彩り豊かでおいしそうなお弁当。たぶん詠われていないところで緑の絹さやも入っているでしょう。

  マスクは洗つてまた使ふんだと義父を叱る夫ゐて長き家居は続く  小林真代

 親御さんが叱られて小さくなっている姿というのはなんともいえずかなしい。つい数か月前の使い捨てのマスクが貴重品だった頃、マスク一つで争いが起きてしまう日常がとてもかなしい。

  良子さんよしこやんよっこやんよっこ様々な名でわれは呼びにし  川口秀晴

 仲の良さげな歌ですが、挽歌と思えば上の句いっぱいの名前の連呼がせつなさでいっぱいになります。ずっと名前で呼んでいたという関係性も見え、「良子」という名前もなにか絶妙です。

  亡き君にいまも友あり自転車で取れたての豆とどけてくれたり  西山千鶴子
 
 きっともう作者宛てに豆を届けているのだろうし、自転車の距離なのでご近所付き合いでもあるのでしょうけれど、自分の交友ではなく亡き君の友という把握に「君」に対する尊重の思いを感じました。

  モッコウバラじゃんじゃん咲けよ人類が鳴りを潜める卯月の道に  中井スピカ

 命令系が気持ちいい。上の句と下の句のひらがな漢字の表記のバランスも内容に合っていると思いました。今年の4月はほんとうに人類が鳴りを潜める感じでした。

  しばらくは商店街の会合もなしと決まりぬ今日の会合  坂下俊郎

 深刻な状況ですが、リフレインでオチがついておかしみが感じられます。定型にしっかりハマっているのも効果的。

  俊太郎が今日出ていったと電話せりかつてわが子に去られし母に  垣野俊一郎

 かつて母の元を去ったわが子こそが自分で、家族の歴史がくり返されているのですね。今の自分の寂しさの一番の理解者は、同じ経験を持つお母様であるということに気づき、母の心を思うのでしょう。

  想像の最後に君がいなくても埋めていこうとスコップを買う  濱本凛

 心を「埋める」というような比喩だと思って読んでいたら、結句でスコップを買っているので、物理的に埋めるのか! と驚きました。

  冬の夜わたしの影が9号線沿いの田んぼに自転車を漕ぐ  田村穂隆

 自転車を漕いでいるのは自分なのに他人事のような詠いぶり。この影は実景ではなく心象なのでしょうか。冬に自転車に乗れて田んぼがあるという地域性の味わい。

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今年も、叔母から梨の届く季節となりました。叔母は東京の郊外で梨農家をしています。仕事中に入った叔母からの留守電に、仕事が終わった後で折り返しの電話をかけました。受け取り出来る日はいつか、コロナで山形に帰れないねなんて話をしていたところ、叔母の旦那さんが代わりたいと言って電話に出てきました。

 遠方なこともあり、叔母の旦那さんのおじさんとはあまり会ったり話したりしたことがありません。なんだろう、と少し身構えてしまいましたが、元気? がんばろうね、といった当り障りのない挨拶でした。それにしても妙にご機嫌です。酔っぱらってるのかな、なんだか子供に話してるみたいな声色だな、と思いました。
 おじさんはわたしや叔母と違って元から東京の人ですから、東京のイントネーションが甘ったるく聴こえるのだろうか、と考えて、もしかしたらおじさんの中でわたしは初めて会った時の小学生の頃の印象で止まっているのでは、と思い当たりました。というか、わたしの中でおじさんが初めて会った時の40代前半ぐらいの印象で止まっているのです。

 今おじさんはいくつになっているでしょうか。東京のおじさんというより、もはや東京のおじいさんだし、わたしもおばさんなのでした。
 
  あれはどこのじいさんと思えば父なりき畑で鍬を振るうすがたの  『にず』

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新型コロナウイルスのためにしばらく再放送だった朝ドラ「エール」の、本放送が再開しました。ここ数日は遅番なのをいいことに寝ぼけているので話半分ですが、主人公の裕一の家に、弟子になりたいという人が通い詰めていました。断られても断られてもめげずに「弟子にしてください!」と掛け合い続けるのを、おそろしく思いながら二度寝しました。

 相手が困っているのに自分の気持ちを押し通そうとするなんて、無理。わたしには絶対にできない。そもそも、人に頼みごとをすることすらわたしは不得意で、迷惑をかけないだろうか、嫌がられないだろうか、お礼に何をしたらいいか、いちいち気にして心労を伴うのです。自分の頼みごとによって相手の時間を奪ってしまうのも申し訳なく、自分でやってしまうというのもめずらしくありません。気兼ねなく頼めるのは「そこのしょうゆ取って」ぐらいではないかという気がしています。自分が何か頼まれる分には、「了解でーす☆」ぐらいのノリで引き受けることがほとんどなのに、なんだって逆となるとこんなにくるしいのでしょうか。
 人を信用していない――というより、自分のような者の依頼が快く受け止めてもらえるという状況を想像できない、自分に対しての不信なのかもしれないなあと思ったりするのでした。今の仕事は誰にも何も指示をしなくてもいい下っ端の立場であるということに救われていますが、「今日の歌会記書いてもらっていいですか」とか役割的に頼みごとをする機会は日々訪れます。
 
 根負けして、裕一は弟子入り志願の人を住み込みで受け入れていました。わたしみたいにあれこれ気にしてぐだぐだするより、誰にどう思われようが自分の気持ちで突き進むことのできる人の方が人生も拓けてゆくのでしょう。その真っすぐな人柄も愛されてゆくのでしょう。志村けんだっていかりや長介の家に通い詰めたといいます。ドラマの中だけでなく、実話でもよく聞く話です。
 わたしにはそんなに何かを強く願うことがあっただろうか、とぼんやりしながら、「エール」の背景にちらちら映るこけしが気になっているのでした。

  さわっても抱いても濃厚接触にならぬこけしの微笑むばかり

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・現代短歌新聞9月号
書評「読みましたか?この一冊」、所功編著『昭和天皇の大御歌』について書きました。また、コスモスの斉藤梢さんに歌集『にず』の書評もご執筆いただきました。ありがたいです。


・塔短歌会・東北『3299日目 東日本大震災から九年を詠む』¥600
A5判53ページ、塔の東北に関わる面々で、東日本大震災とその後の日々の歌を年に一冊発行しています。10冊目にあたる今回は19名参加、「短歌以外の〈表現〉」というエッセイ企画もあります。
震災から九年、さまざまな立場からさまざまな現実、それぞれの思いがあります。
収益は、被災した子ども達のために活動する団体に寄付されます。
boothという通販サイトからお求めいただけます。
https://booth.pm/ja/items/2226200 


・歌集『にず』¥2000(税抜き)
お求めについては、わたし宛てにメール、
tomomita★sage.ocn.ne.jp  (★を@に変えてお送りください。)

または版元の現代短歌社まで。
https://gendaitanka.thebase.in/items/31597510

大阪・蔦屋書店、東京・ジュンク堂池袋本店、新宿紀伊國屋書店、大阪・葉ね文庫でもお取り扱いいただいているようです。

どうぞよろしくお願いいたします。

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プロフィール
HN:
おとも
性別:
女性
自己紹介:
歌集『にず』(2020年/現代短歌社/本体¥2000)

連絡・問い合わせ:
tomomita★sage.ocn.ne.jp
(★を@に変えてお送りください)
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