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川が好き。山も好き。
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映画『草の響き』を観てきました。監督は斎藤久志さん、出演は東出昌大さん、奈緒さん、大東駿介さんなど。
 心の不調を抱えた主人公が東京から地元の函館に戻り、医者の勧めにより街を走る話。走ることで回復につながってゆくのはわかる気がします。わたしも数年前に不調に陥った時、地元に帰って犬と農道を朝晩散歩し続けているうちに良くなってきたという経験がありました。うまく思い出せないわたしの昔の日々は映画にも小説にも短歌にもならなかったけれども。

 かつて函館三部作、のように言われていたことがあったような気がしますが、佐藤泰志作品の映画化はこれで五作品目。函館の映画館、函館シネマアイリスで企画や制作をされているとのことです。
 走っている場面を中心として函館の街並みがとても印象的で、この映画は函館の街を映すことを目的として撮られているのではないかと思うほどでした。チラシやパンフレットとは別にロケ地マップも配布されていたのでいただいてきました。この道を走っていたのか、と思うと感慨深いものがあります。地元の方ならばなおさらでしょう。

 原作の主人公は独身のような気がしていたのですが、映画には妻が出てきました。ずい分脚色されているのかな、と思い帰宅してから読み返したら妻がらみ以外は原作にほとんど忠実でした。わたしが内容を忘れていたので新鮮な気持ちで鑑賞できたということのようです。小説が作者の実体験を下敷きに書かれたと想定されているので、もしかしたら映画版には作者本人のエピソードを元にふくらませた部分もあるのかもしれないと想像しました。
 シアターを出る時に「ハッピーエンドじゃなかったね」という声が聞こえました。
 
 帰宅してパソコンを点けたら、主演の東出昌大さんのゴシップが出ていました。話題作りにしては逆効果な気が。

 公式サイト→https://www.kusanohibiki.com/

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塔8月号を読みます。敬称略です。

  シャッターを切りしは誰であつたらう笑顔の私が抽出しより出づ  大塚洋子 

 自分の笑顔を写真の中に残してくれたのは誰だっただろう、自分は誰に向かって笑ってるんだろう、といような。抽出しは実物でありながら記憶の抽出しでもあるのでしょう。

  うねうねと風呂の鏡に指で書く路線図に子は駅を足したり  澤村斉美

 ほほ笑ましい親子の入浴光景だけれども、どこか暗示的な歌でもあります。通過したり乗り降りしたり出会いや別れの交錯する駅が、お子様の手で書き足されました。

  菜の花忌のポスター貼らるる駅出でて記念館へと菜の花に沿う  伊藤文

 駅のポスターは旅心を誘われる。菜の花忌を記念する記念館への道沿いに菜の花を植えるという、人の心のシンプルさが気持ちいいのです。

  五年前二回休みて登りたる梅ヶ渕の坂けふは休まず  上大迫チエ

 数字の具体性の説得力や、地名の固有名詞の味わい。結句の否定形がなにかいじましく、五年前よりお元気でいるということもうれしい気分の読後感にさせてくれます。

  施設では食べられぬ刺身フルーツを買ひ足し母の帰るを待ちおり  江原幹子

 施設では刺身は感染症予防、フルーツは特定の制限がある方には生でお出しできず缶詰で代用したりなど気を付けているのですが、それよりもう好きなものを思う存分食べてほしいという心なのでしょう。考えさせられます。

  しゃぼん玉ゆらりと我を離れゆく山を歪めて海を歪めて  廣鶴雄

 自分の息を吹き込んで放たれたしゃぼん玉に歪んで映る山や海、実景なのでしょうけれど、なにか心が映されているようで、言いさしの結句にも余韻が残りました。

  母の日にプレゼントをくれし嫁も娘もみんな母になり庭にバラ咲く  宮脇泉

 息子のお嫁さんと実の娘が並列に詠まれているところに心を感じます。一男一女を授かり、それぞれが婚を成して子を設け、バラ咲く庭のある家に暮らして歌を詠む、という暮らしの健康さがまぶしい。

  手作りのカードにならぶ四匹のクマには四つ吹き出しがあり  岡部かずみ

 一読してただごと歌のような味わいですが、そもそも喋れないクマに言葉を発させているのがよく考えたらシュール。クマに託さず自分で伝えてほしいという思いもあるのでしょうか。

  短い方のポテトを君が食べるから長い方ばかり僕は食べてる  近江瞬

 ポテトの食べ方にも関係性が表れるのでしょう。長い方を相手に残すことが思いやりのようでもあり、長い方がしなしなになっている気もしたり。

  わがままな子は幸せになれないと諭しぬ少し疑いながら  中込有美

 もちろん道徳的には自分中心で人を思いやらないようではいけないのだけれど、そう諭すけれど、ほんとうにそうだろうか。実際は散々人を振り回して迷惑をかけてもわがまま放題に生きている人の方が幸せそう、と気づいてしまった。優しい人が幸せになれると信じたいけれど。

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今日は中秋の名月、満月がとっても明るいです。こんな明るい夜にうれしいことが一つ、2月の震度5の地震でぐちやぐちゃ失くしてしまっていた真珠の指輪が物の陰になっていたところから見つかりました。ずっとながめていたくなるような真珠の輝きは、そういえば月に似ているかもしれません。

月刊「うた新聞」9月号、<今月のうたびと>に、12首「相槌を打つ」を掲載していただきました。お読みいただければうれしいです。
https://www.irinosha.com/

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AJINOMOTOの冷凍餃子を、先日初めて食べてみました。オリンピック選手村の食堂で餃子が大人気で、それがAJINOMOTOの冷凍餃子だという記事を見て、そんなに人気なら買ってみようかなと、乗せられた形です。
 餃子は、実家から大量にキャベツや白菜を送ってもらった時などに作ったりしますが、なにしろめんどうなのです。餃子の具を皮に包むのもめんどうだし、合間に餃子の皮に水溶き片栗粉を塗るのもめんどう、しかも形がきれいにきまらない。餃子包み器なる器具を導入してからは少し手間が省けたものの、焼く時だって水を入れるタイミングを計ったり、フライパンに皮が引っ付いて破けたり、労力に反してあっという間に食べ終わってしまい、なにか報われなさを感じていたものでした。
 パッケージから出して、フライパンに油を引く必要もなく、途中で水を入れる必要もなく、パリパリの羽根つきの餃子ができあがってしまい、冷凍食品の技術ってすごい、と少し感動しました。味もお値段相応だと思います。あー今日はご飯作る気力がないなーという時には重宝しそうです。

 オリンピックが7年後に東京で開催されると決まった頃は、「震災の復興がまだなのに」と憤ったものでした。もともとスポーツに関心が高くなかったことに加え、このコロナ禍でますます開催を怪訝に思っていたオリンピック・パラリンピックではありましたが、結局は割とポジティブにテレビ観戦しました。福島から聖火リレーが始まって、地域のニュースなどでも大きく取り上げられたのを目にして、ランナーの方々の笑顔がきらきらして見えて、いい笑顔だなって素直に思いました。そのまま追いかけて最後まで見た、といった感じです。
 オリンピック・パラリンピックを開催して良かった、と曇りない心で言えるわけではないけれど、絶対だめだったとも今は言い切れない。どちらにしても、すべての人が納得して満足することなんて、そうそうないものです。様々なことで意見が分かれるとき、自分がどちらかの意思を持っていたとしても、一旦フラットな気持ちでどちらの声にも耳を澄ましてみたい。そんなことをあらためて考えさせられました。
 
 直近まであんまりオリンピック・パラリンピックに無関心でいたので、マスコットのミライトワとソメイティが超かわいいと気づくのにも遅れてしまいました。そのように、自分でシャットアウトして見過ごしているものが、他にも世の中にいろいろあるんだろうなあ。

  参加する人、しない人、日程や企画を変えろと言ってくる人

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夏が終わりそうで終わらないです。塔7月号を読みます、敬称略です。

  染めをやめ真白となれる母の髪エリザベス女王みたいと褒めおく  小林信也

 お母様世代の方の気分を良くさせるための言葉としてなにかとても納得ができて、目に浮かぶようなのでした。わたしの祖母もなんでもかんでも天皇陛下みたいと褒めるのでした。

  どくだみの匂ひが好きという吾子をまた好きになる帰り道なり  澤村斉美

 小さいお子さんを、一人の人間として親しむような距離感。「どくだみ」の濁音と他の言葉の軽やかさ、声に出して読むと気持ち良いです。カ行の響きがいいのかなあ。

  盗み見すまだ畝のみの畑の中さかりの猫がもつれあへるを  篠野京

 印象的な初句切れ。春の風物詩ですが、わざわざ盗み見するからかえって見てはいけない状況のようで、作者もあやしい行動をしているようで、なにかおかしみが感じられるのです。

  車椅子が壁につけたるキズ跡に添ふやうにして車椅子置く  浜崎純江

 淡々とした詠いぶりからにじみ出るものがあって泣きたいような気持ちになります。挽歌の一連の中で読むと詳しい背景がわかりますが、単体でもとても伝わってくる歌。

  夢の中母と私はバスを待つ日に二本しか走らぬバスを  北山順子

 夢の歌だけれども、妙にリアルで、なにか暗示的。これまでのお母様の歌と併せて読んで沁みてくるものもあります。バスが来る前に夢は終ったのでしょうか。

  願いごとないままに手を合わせれば山鳩やけに長く鳴きいる  池田行謙

 願いごとがない、ということにまず驚きました。その場のしきたりに従い目を閉じて手を合わせながらも、無の心に、より山鳩の声は沁み入ってきたのでしょう。
 
  会うことの難しければ誰でもよい人を眺めに公園に行く  今井眞知子
 
 「誰でもよい」という切羽詰まった思いが歌の真ん中にあって切実さを感じます。「人」はもはや会う対象ではなく「眺める」ものになってしまって。

  腕を前から上にあげつつ走りきてラジオ体操の輪におさまりぬ  垣野俊一郎

 背伸び運動に遅刻しかけたのが作者か別の人かはわからないけれど、体操をしながら走ってくる光景がコミカルで、その妙なまじめな人柄にも味わいを感じました。

  残業は嫌いではないあの人が定時で帰る日は特に好き  小川さこ

 結局、働きやすさとは人間関係の良し悪しなのです、よくわかります。定型にきっちりはまってるのが内容に合っていて小気味良いです。

  生き物のように重たい大福を持つとうれしい 豆も入ってる  渋川珠子

 大福のことしか言っていなくて、しかも食べる前の、ということがなにかおもしろくて、結句も一字空けてまで言うことなのか、なんとも不思議な歌で印象に残りました。

 特集「感染症と短歌」、評論もレポートも充実していて興味深く拝読しました。短歌の記録性をあらためて大切にしたいと思いました。

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知り合いにプレゼントしたい、と母の妹である東京の叔母から歌集の注文をもらいました。ありがたいなあ、と思いつつわたしの歌集は自分でも読んでてかなしい気持ちになるので、プレゼントには向かない気がします。歌集だったら故郷を代表する斎藤茂吉とか、今なら俵万智さんの『未来のサイズ』などの方がよろこばれそうです。「姪の書いた本なのよ~」みたいな感じなのでしょうか。歌集は出そうと思えば誰でも出せるものですから、わたしがなにか偉業を成し遂げたわけではないし、お知り合いの方に迷惑な押しつけになってしまわないか、なんだか心配してしまいます。

 歌集を出したことを実生活では誰にも、当初は親にすら伝えていませんでした。家族をネタにしたネガティブな歌も収録しているし、プライベートな内容を身内に知られるのはどうにも恥ずかしい。歌として他人に晒しておきながら不思議な感覚だとも思うのですが、恥ずかしいのです。
 4か月ぐらいして、地元の新聞のコラムに取り上げていただき、あえなくバレてしまいました。本名なので仕方ないことです。せめて改姓していたら実家の隣近所の方々や昔習ったピアノの先生などにまで気づかれなかったでしょう。

 改姓したいと、ずっと思っていました。新しい名字になったら、今までのみっともなく恥ずかしい自分を過去として切り離して、新しい自分として生き直せるんじゃないかと思っていました。自分のアイデンティティが失われる、生まれた時の自分のままでいたい、まるで自分を葬っているようで苦痛というような夫婦別姓推進派の方々の声を聞くにつけ、そこまで自分の生き方を肯定できるのがまぶしく見えます。
 尤も、夫婦別姓を推し進めていったら、名字そのものの意味がなくなるのではないかという気もしています。生まれたときから父と母が違う名字で父方の祖父と祖母も違う名字で母方の祖父と祖母も違う名字で、というようなばらばらな状況であれば「代々受け継がれてきた氏を大切にしたい」も何も受け継ぐものもなくなるのでは、明治時代以前の農民のように名前だけで事足りるのでは。それなのに姓の廃止を求める話は聞いたことがなく、別姓への活動ばかり盛んなのはどういうことなのでしょう。
 子のない父の兄の養子になって、父の旧姓に改姓するという方法もあります。けれども、親族間の事情で疎遠になっているし、わたしが父の実家に入ったところでわたしが繁栄させられないことを思えば現実的な話ではありません。

 叔母の娘、わたしのいとこが東京から関西へ転勤になり、引っ越し先にわたしの歌集も連れて行ってくれたという話も聞きました。叔母とは冠婚葬祭で会う機会があったり、梨を毎年送ってくれるので電話をしたりしていますが、いとことは最後に会ったのはわたしがまだ10代で彼女がまだ小学生の頃なので、もうずい分昔のことです。血が繋がっているとはいえ、ほとんど他人みたいなわたしの私生活駄々洩れの歌を、一回り年下のいとこはどのような思いで読んでいるんだろうな。恥ずかしいけれど、ちょっとうれしかったりもするのでした。
 ところで、叔母は知り合いの人に歌集をあげるのも、いとこのことも「漫画が好きだから~」と言うのですが、もしかして叔母にとっては漫画と短歌が同じジャンルのくくりなのでしょうか。驚愕です。

  わたくしの名に九つの窓があり結露しているその磨りガラス  『にず』

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8月に入りましたが6月号を読みますよ。敬称略です。

  赤べこの背に積んでいる米二俵きっと重いとこのごろ思う  山下洋

 丑年だからかコロナ退散祈願か赤べこが今年は売れているとのこと、特に願いをかけたのが俵べこ。確かに米俵も人の期待も重そうです。そして初めて見た時というわけでなく「このごろ」なのがおもしろいのです。

  なんでこの手袋に指が入らぬかかじかんだ眼にも涙が湧きぬ  土肥朋子

 切実さが伝わってきて惹かれます。手袋そのもののもどかしさだけでなく、これまで抱えててきたものが手袋をきっかけとして噴き出したような。

  この世にはいない夫を誰よりも頼りにしつつまた春迎う  畑久美子

 いなくなってなお心の支えでいてくれるということ。神様や仏様のように、それはもはや信仰のようなものかもしれません。
  
  花の名を犬に教えてなんとしょうそれでもなずなたんぽぽの花  林田幸子

 犬に教えるというかたちをとりながら、語ることで自らが癒されることもあるでしょう。受け止めてくれる犬や花の優しい春です。

  弁当を今日はやすむと決めたときふとんふかふか私をつつむ  山名聡美

 あともう少し寝ちゃおう、と吹っ切れてふとんの存在感が増してきました。ひらがな表記と「ふ」の語感がいいです。

  馬となって五番目の孫と遊ぶには息が足りない三歩も歩めず  新城研雄

 四番目の孫までは馬になって背中に乗せて遊んであげられたのでしょうか。きっと複数の子がいての五番目の孫という家族ドラマも想像させます。下の句が河野裕子さんみたいな石川啄木みたいな。

  皮むきのムッキーちゃん添え八朔を友は呉れたり袋に入れて  竹内多美子
 
 「ムッキーちゃん」が歌に詠まれているのを初めて見ました。歌会だと「ムッキーちゃん」か「袋」かに焦点を絞った方がとか言われそうですが、要素の多さにお友達のキャラがにじみでているようにも思うのです。

  おおかたは一人暮らしのアパートの一つ一つの部屋が灯って  杉田菜穂

 人と会わなくなり、どこでも距離をとるようになり、といったコロナ禍の一連。アパートの灯に、同じように過ごしている人がいるのだとなぐさめられるのかもしれません。

  二十年使いしストーブ手放しぬ亡夫の作りし凹みも共に  成瀬真澄

 凹みを手放すという把握がおもしろいです。凹みを作ったその時はもめたりしたかもしれないですが、時を経て旦那様と過ごした日々の証にもなったのでしょう。

  朝食に弁当二つ作ること支えとなりぬ我が退職後  原田典子

 弁当が朝食、という読みであってるかな。必要とされること、役割があること、誰かのためにがんばることで逆に自分が支えられるということ考えされます。

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朝ドラはヒロインがすぐ東京に行くから嫌ひ コーヒーの湯気  逢坂みずき『虹を見つける達人』

 例に漏れず、今期の朝ドラ「おかえりモネ」も東京篇に突入しました。わたしは基本的には東京に行く展開に対して強い思いはないけれども、「おかえりモネ」はそれまでの舞台が馴染み深い宮城だったこともあり、地元の盛り上がりも感じていたので、もう少し宮城に留まっていてほしかったです。とはいってもタイトルからして戻ってくるのではないかと予想しております。わたしのふるさとの山形が舞台の「おしん」なんて、伊勢に行って戻ってこなかったことを、総集編を最近見て知ってびっくりしました。なにしろリアルタイムで見ていたのが3歳ぐらいなので内容は覚えていないのに山形でのおしんブームの記憶が大きかったこともあり、山形の物語だと信じ切っていました。

 「おかえりモネ」、震災のことなどもとても誠実に描かれていて好感を持って見ていますが、主人公の百音が先生に勉強を教わっている時に、二人が男女の仲に発展することを期待して職場の複数の人達がきゃっきゃと陰からのぞいている場面だけはどうにも苦手でした。当人同士が少なくともその時点ではそうした意識がないのに、恋愛関係になるように囃し立てて観察するというのは、恋愛を強制されているような、周りの複数の人達に娯楽として共有されているような、居心地の悪さを感じるのでした。

 「恋」や「恋人」といった歌をわたしも詠んできたけれども、それがうまくいかなかったという歌を詠んできたけれども、実際はわたしの心や振る舞いが、一般的な、或いは相手の期待するそれとはズレていたからうまくいかなかったのではないか、と自覚できるだけの違和感はずっとありました。適切な言葉が見つからないまま、便宜上、相聞に寄せていたような、そんなことを思い出しながら「短歌研究」8月号、水原紫苑さんの責任編集の女性とジェンダーをめぐる特集を読み耽っています。わたしも10首「花降る」掲載していただきました。
https://www.tankakenkyu.co.jp/

 塔・東北から『3666日目 東日本大震災から十年を詠む』も刊行されました。
 塔の東北に関わる面々で、東日本大震災とその後の日々の歌を年に一冊発行しています。11冊目にあたる今回は15名参加、「今思う<震災を詠う>ということ」というエッセイ企画もあります。定価600円、収益は被災した子ども達のために活動する団体に寄付されます。どうぞよろしくお願いいたします。
 boothという通販サイトからお求めいただけます。
https://toutouhoku.booth.pm/items/3115184 #booth_pm

 数日かけてぐだぐだ書いているうちに、朝ドラの方は百音と先生が接近していました。別にいいけど。

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7月号が届いておりますが、5月号を読みましょう。バスの中でも読むようにして、少し読み終えるのが早くなったのですが、アウトプットに時間がかかるのかなあ。敬称略です。

  落としたる飯一口を蹴り出して向かい席の足元へやる人のあり  藤井マサミ
 
 作者はその目で見てしまったのです、誰も見ていないと思って自分の小さな罪を他人になすり付ける卑しい行為を。自分の足元がきれいであれば他人などどうでもいいというさもしい心を。
 
  夫逝きて一週間の過ぎにけり二日ほど雪が朝に舞ひたり  亀山たま江

 挽歌の一連の一首目。静かに淡々と詠まれることで胸に迫りくるものがあります。深い喪失や現実の慌ただしい日々を振り返った時に、思い出されるのは雪のことだったりするのでしょう。

  沈む前の夕陽になって照らしたいあの日に立ちすくむ私のことを  小川和恵

 過去の自分を励ましたいという思い。エッセイに震災のことがあるけれども、「あの日」は3月11日ではなく、作者自身に何かあった日と読みたいのです。

  おばあさんなれども雛を飾りつつ夢色々と語り合いたり  西村清子 

 お雛様を飾るのにも、夢を語るのにも、年齢や性別の制限なんて本当はないのに。「おばあさんなれども」という断わりに謙虚さと切なさがにじみます。

  服はいつも来ているけれど今日はじめて着たような気分にもたまになる 平出奔

 そんな気分になることってあるのかなあと思いつつ、あるのかもしれない、と何か妙に納得させられるのは、「ような」とか「たまに」とか妙にぼかされているからなのか、結句の言いきりのためなのか。

  地震ののち歌会がありて楽しくて疲れてその夜十二時間眠る  三浦こうこ

 十二時間! 地震の不安や片付けで眠れなかったのが、楽しい時を過ごして気持ちがほどけたのでしょうか。「て」のくり返しからの結句の字余りもそのように詠ませます。

  保護者からの電話ようやく切りしのち伸びたる麺をこわごわ啜る  中村英俊

 この歌の数首前に<電話線を抜きたくなるを抑えつつ保護者の要望ハイハイと聞けり>という歌があり。要望を訴える方は、自分が相手の休憩・休日の時間を侵食している事実なんでお構いなしなのですね。

  「またおいで」と土産にくれし焼海苔の空缶が叔母の形見となりぬ  清水久美子

 焼海苔の、しかも空缶が形見として遺ったというところに、叔母さんの人となりや作者との関係性が見えて味わいを感じるのです、海苔だけに。

  本能寺に上司を討ちしドラマ見つさてとあしたも仕事へゆかな  垣野俊一郎

 仕事上の上司部下のしがらみは戦国時代も現代もどこか通じる部分があるのかもしれません。尤も「麒麟がくる」はそのように共感を誘うように描かれた、ということもあるのでしょう。

  来年は撒けるだろうかと思いつつ撒いたな豆を去年も今年も  石川泊子

 つぶやくような詠いぶりが印象的。とつとつした不思議な語順が、かえってリアルで切実な声のように伝わってきます。自身の病が、豆を撒いて外に出したい鬼であるような思いもあるのかもしれません。

  善光寺に慎み拾ふ菩提樹の仄あたたかき実のつぶらなり  飯島由利子

 善光寺の景色からカメラが寄ってゆくような歌の作りで、すべてが「つぶら」であることへの序詞のようになっているのがおもしろく思いました。

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ワクチン接種に関する問い合わせの対応の仕事の求人メールが、この頃届きます。世の中の役に立ててやりがいがありそうですし、時給もなかなかに魅力的です。一方で、これは絶対に過酷だ……と、かつていくつかカスタマーセンター業務をしていた時の経験から想像がつきます。

 こういった問い合わせの窓口は、たいてい混み合っていてなかなかさくっとは繋がりません。なので繋がった途端に「なんで繋がらないんだ」というような苦言を言う人もいるでしょう。用件のみなら数分で終わるものを、繋がらないことへの苦言だけで何十分も話し続ける人も一定数はいるでしょう。
 繋がらないことへの苦言だけではなく、コロナウイルスに対する不安や、政府の政策に対する不満をぶつけてくる人もいるかもしれません。問い合わせから自身の病歴や家族のことなどの身の上話にすり替わってしまう人もいるでしょう。ニュースで聞くようなワクチン反対派から過激な電話がかかってくるかもしれません。
 対応が長引けば、他に電話をかけてくださっている人がその分ますます繋がらなくなるのですが、話し続ける人はそんな自分以外のことなんて知ったこっちゃないものです。本題ではない話だからといってぶった切ればクレームに発展することもあるし、気の済むまで相槌を打ちながら聞き続けます。
 もちろん、何かに巻き込まれなければ「ありがとうございます」「助かりました」とお礼を言ってもらえることは多いでしょうし、充足感も得られそうです。
 今の仕事が続いているので求人メールに返事をしたりはしませんが、いろいろ想像したり思い出したりしました。

 たとえば、何か使っている製品が壊れた時に、「こうすれば直りますよ」「新しいものを送りますよ」というような解決策より、壊れて困ったという自分の気持ちを聞いてほしいという人が、割と多くいらっしゃるような気がしました。壊れてしまってどれくらい困っているか、普段はこの製品を使ってどのようなことをしているか、何月何日に誰々が来るので何をどうするつもりだったか、近所の人はどうしているか、昨日はこんなことなかったんです、急に壊れたんです、だからとても困ってるんです、困ってるんです。くり返される訴えの隙を突いて、右上のランプは点いてますか? 真ん中のボタンを押してみていただけますか? というようなことを伝えて、なんとかなんとか話を軌道に乗せていた日々でした。

 「それは困ったことですね」「大変でしたね」「びっくりしましたね」、そのような共感の言葉は、相手が自分の生活には関わってこない電話越しの顔の見えない他人だからこそ遠慮なく求めることができるのかもしれません。受話器を持つ前に、受話器を置いた後に、その人にはどんな暮らしがあるのでしょう。もしかしたら、それはとても寂しいもののような気もするのでした。

  「申し訳ございません」を今日何度言っただろうか機械のように   『にず』

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プロフィール
HN:
おとも
性別:
女性
自己紹介:
歌集『にず』(2020年/現代短歌社/本体¥2000)

連絡・問い合わせ:
tomomita★sage.ocn.ne.jp
(★を@に変えてお送りください)
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