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川が好き。山も好き。
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痴漢をするのは圧倒的に男の人が多いように、街中でくっついているカップルは、女体を触りたい男の人の主動でそうなっているものだと思っていたので、ふと見渡した時に、男の人の手を一生懸命に握っているのは女の人で、ポケットに手を突っ込んでいる男の人の腕に手をからませているのも女の人で、男の人が手を突っ込んでいるポケットに手を突っ込んでいるのも女の人だと気づいた時、え、え、え、と困惑の果てに打ちのめされてしまったものでした。ほんの数年前の話です。そうして、「そうか、だからわたしの人生はうまくいかないのか」と、妙に腑に落ちたのでした。
 
 こんなふうに手は繋がれてしまうのか桜見終えてドトールを出て  『にず』

 さらに数年前にこの歌を歌会に出した時、「受け身過ぎて理解できない」「こんなふうに、って言われてもなあ…」というような評を受けました。当時は「そういう意見もありかー」と受け止めただけですが、思えば、その評をした方は何の疑問もなく当たり前のように自分からパートナーの男性に自然に手を繋ぐ、ごく一般的な感覚を持つ女性だったのでしょう。
 事実とその時の気持ちをそのまま詠んだので、それ以上の含みはない歌ですが、読み手には、わたしがまったく意識しなかった「本来は女性が手を繋ぎたがるものなのに」という前提が共有されているのかもしれません。それもまた興味深くあります。

 わたしにも、自分から手を繋ぎたくなることはあります。祖母のように足腰が弱って歩行のおぼつかない高齢者や、甥っ子のように手を離した隙にどこかへ走り出してしまいかねない子供などは、自分から率先して手を繋ぎます。転んだり、はぐれたり、危ない目に遭うのが心配です。一人で問題なく歩ける者同士であれば、よっぽど危険な道や人混みでもない限り、手を繋がなくても大丈夫。それは、相手に対して安心しているということでもあるような気がするのでした。

 NHKでアロマンティックやアセクシャルやをテーマにしたドラマ「恋せぬふたり」が始まりました。ああ、こういう時代がきたんだ、と思いました。だから一人で生きる、というのではなく、家族はほしい、という方向性に、このテーマへの誠実さを感じながら観ています。最終回まで恋せぬままに進んでほしい。なにか陳腐な展開で二人がカップル成立する結末だけは、どうぞ迎えませんように。

  無性愛なる称号にゆるされて欠陥なんてなかったわたし

 という歌がNHK短歌テキスト2010年6月号に掲載されています。「愛」の題詠でこれはなんだか挑発的ですが、もともと初句を「アセクシャル」と詠んでいた未発表作を、題に合わせて日本語にしたのでした。作者はわたしです。あまりうまい歌ではないですが、12年前ですから、なかなか時代を先取りしているのではないでしょうか。当時は、わたしの調べた限りアロマンティックという言葉はまだなくて、恋愛感情がないことは「広義のアセクシャル」と呼ばれていました。
 そのような性質を自分のアイデンティティにするつもりはないし、そもそもわたしの場合は先天的なものではなく母娘関係などの影響や心の抑圧なのかもしれないし、震災のような未曾有の非常時には「子孫を残さなくちゃ」という使命感が湧き出した経験もあるので、自認としてもアロマンティックともアセクシャルとも断定はせず、――っぽい、――寄り、などと曖昧にしています。それでも、わたしは心に何か欠けているのでは、と思い悩んでいた時に、こうした言葉を知り、ずい分救われたものでした。
 
 昔の自分を救ってくれた言葉が、一生を救ってくれるわけではないような気もしています。わたしも変わってゆきましょう。

『女性とジェンダーと短歌 書籍版「女性が作る短歌研究」 水原紫苑・編』に「花降る」10首掲載していただいております。わたしの分は「短歌研究」2021年8月号の再録ですが、書籍版はバージョンアップして読み応えたっぷりですので、ぜひ。
 https://tankakenkyu.shop-pro.jp/?pid=165824131


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一〇〇〇円の時には受けたオプションの乳がん検診今年は付けず  「踵を上げて」/現代短歌2021年5月号

 オプション料金が以前より高くなっていたので、定期健康診断ではスキップしてしまいましたが、その後、一定の年齢につき市から無料クーポンをいただいたので、検査してきました。夏に申し込んで検診日が年明けなのだから、よっぽどたくさんの人が受けているのでしょうか。廊下の待合椅子には他にも何人か順番待ちをしていて、ここにいるみんなが同じ年齢の女性なのかと思うと、なにか不思議な気がしてきます。待ち時間に『女性とジェンダーと短歌』を読みました。持ち運びやすいソフトカバーの本を、と選んでバッグに入れてきただけだったのに、よく考えたらなんだかつきすぎです。

 これまでただ寝てるだけのエコー検査は受けたことがあったのですが、マンモグラフィーは初めてです。「手を上げてくださ~い」「肩を合わせますね~」と女医さんに指示を受けながら、「右のお胸は押さえてもらってていいですか~」といったふうに、乳房は「お胸」と呼ばれるのになにかおかしみを感じました。
 短歌では当たり前のように詠われていても、わたしは実際に「乳房」などと日常会話で声に出して言うことはないし、人が言っているのを聞いたこともありません。これは書き言葉だな、とあらためて確信しました。以前、女性主人公の一人称で進む小説で「私の乳房に」みたいな表現を見た時も違和感を覚えたのでした。「私の――」って、モノローグだとしてもそんなふうに自分の体を言う人いるかな。いるのかもしれないけれど。これが三人称で「彼女の――」「○○(名前)の――」であれば全く気にならないのに。
 手を「お手て」、肩を「お肩」と丁寧に言う以上に、「お胸」に漂う丁寧さはなんなのでしょう。痛くされるからなのでしょうか。まだ痛いです。

 検査が終わって階段を降りていたら、エレベーターを待つ車椅子のおばあちゃんと若い男性職員の優しい会話が聴こえました。わたしの祖母もあんなふうに優しくしてもらえているといいな、と思いながら病院を後にしました。

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あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 昨年に引き続き帰省は控えて、静かなお正月でした。ふり返ってみると帰省をしてもしなくても寝正月を過ごしているようで、例に漏れず今年もたっぷり眠ってしまったのでした。元旦のうたた寝では、テレビのセットのようなにぎやかな場所で、短歌を一首詠むごとにキッチンブースに走って料理を作るというゲームに興じている夢を見ました。点けっぱなしのテレビから流れる、正月番組の音声が夢の中に入ってきたのかもしれません。今年に詠む最初の歌が夢とは。目覚めたら、どんな歌だったか忘れてしまいました。くやしい。あとは保湿をがんばりました。

 今年は、少しでも希望を持って、種を蒔くようなことができたらいいな、と思います。人生をあきらめ過ぎないように、うれしいことや楽しいことを見つけながら、自分を大切にしてゆきたい。ゆたかな一年になりますように。
 
  余るとは思いつつ一月三日買い足す年賀はがき余りぬ

 


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昨日から休みに入りました。年末年始も関係なく仕事をしていた頃が長いので、年末年始に休めるのが畏れ多いです。今の仕事も働く気になれば働けるのですが、年末年始は業務縮小なので、少数精鋭にお任せして。

 「穴めっちゃ空くけどビンゴは揃わない人ってイメージ」と言われておりぬ  『にず』

 などと言われてしまうわたしでしたが、今年は職場のビンゴをばっちり当てて、薔薇の香りのボディミルクをいただいてきました。年末年始は保湿がんばります。

 今日は大掃除をしました。大掃除を始める前に母から様子伺いの電話が来て、大掃除の最中には妹から電話が来ました。パートの愚痴や旦那さんの愚痴、義実家の愚痴、あまり愚痴を言える相手がいなくて溜まっているのでしょうか、大変そうです。電話の向こうで甥っ子がキーボードで「きらきら星」を弾いているのが聴こえました。

 あっという間に2021年も過ぎてゆきます。どこかあきらめたような今年のささやかな生活でしたが、短歌にはずい分寄り添ってもらいました。そのように自分のために詠んだ歌を、いろいろなところで発表させていただいたり、引いていただいたりしたのは、思いがけずありがたいことでした。

 ポケットにぐしゃっと入れたハンカチを赤信号で取り出したたむ  「踵を上げて」/現代短歌2021年5月号

 2021年の自選一首、というわけではないけれど、赤信号で立ち止まってハンカチをたたみながら、この歌がふっと詠めた時はうれしかった。なんでもない歌だけれども、こんなふうに歌ができてゆけばいいな。
 
 明日の雑煮の汁も用意して、唐揚げを揚げて、一人の年末年始は気楽なもんです。紅白とお笑い番組をがちゃがちゃしながら、実家から届いたりんごを鍋にかけてコンポートを作っています。できたての熱々に無糖のヨーグルトをかけて食べるのがさっぱりして美味しいのです。「年の初めはさだまさし」を見ながら食べましょうか。「タイムスクープハンター」の再放送もうれしい。

 本年もたくさんの皆さまにお世話になりました。あたたかな言葉をいただいたり、感謝しきりです。どうぞ良い年をお迎えくださいませ。


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映画『紅花の守り人』を観てきました。佐藤広一監督による、紅花をめぐるドキュメンタリーです。紅花に思い入れがあり、地元ニュースなどでこの映画の情報を得てから絶対に観たいと思っていたところ、音楽を担当された小関佳宏さんのミニコンサートと舞台挨拶付きの上映日と都合が合いました。

  ベランダに十九の蕾この夏に十九の花がひらく慰み

 歌集『にず』にも収録したこの歌は、紅花を詠んだものでした。町役場から種をもらって育てました。花は紅餅を作って紅花染めをしたかったけれど、量が足りなかったので、紅花ご飯にして食べました。
 ふるさとの県の花だからなじみ深いというのもあるけれど、見た目の形や色も好き。紅花モチーフのおみやげものも、ゆるキャラ「はながたベニちゃん」もかわいい。
 
 映画のナレーターは今井美樹さん。『おもひでぽろぽろ』のタエ子があれからずっと山形にいるのだという裏設定があるとかないとか。あの映画ももう30年前だけれど、あの頃描かれた紅花摘みの光景が今も変わらずにありました。民謡の「紅花摘み唄」「最上川舟歌」などもとても沁みてきます。
 シルクロードを渡って伝わってきた紅花が山形に根付き、染料の原料として紅餅に加工されて、舟で京都へ運ばれて――といった江戸時代の歴史については知っていたのですが、今でも紅花染めは大切にされていて、いろいろな人が様々な形で関わって紅花の文化が守られているということがうれしくなりました。わたしの頃と同じように、小学生の子供達が紅花栽培から紅餅作り、紅花染めの実習をしているのもなつかしかったです。俳人の黛まどかさんも紅花摘み体験をされて紅花の句について語っていました。
 観賞用や染物だけでなく、花や若葉は食べることもできます。様々な料理が紹介され、パンフレットにはレシピも載っていました。外国から伝わってきた紅花なのに、今となっては他の国では種から紅花油を取るばかりで、こんなに活用して技術が受け継がれているのは日本だけ、ということは初めて知りました。
 わたし個人の郷愁だけでなく、紅花という花の奥深さにロマンがあり、なぜ人々がこんなに紅花に惹かれるのかわかった気がします。わたしも紅花の守り人になりたくなりました。とりあえず、わたしは紅花の短歌をもっと詠んでゆきましょうか。
 
 上映後の舞台挨拶では、監督や出演者の方々の紅花愛の伝わるお話を聞かせていただきました。ギターのコンサートもすてきでした。何もない田舎で何もできないと思って外に出たけれど、山形はこの頃とても熱いように感じます。




公式サイト→https://benibana-no-moribito.amebaownd.com/

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映画『偶然と想像』を観てきました。監督・脚本は濱口竜介さん。出演は古川琴音さん、中島歩さん、玄理さん。渋川清彦さん、森郁月さん、甲斐翔真さん。占部房子さん、河井青葉さん。偶然をテーマにした短編集です。上映前に監督の挨拶の映像も流れました。
 第一話「魔法(よりもっと不確か)」は親友の話す惚気話の相手が元カレと気づき…という話。第二話「扉は開けたままで」は、作家でもある大学教授をスキャンダルに陥れるために色仕掛けを共謀する話、第三話「もう一度」は、高校の同級生と街中で20年ぶりに再会して興奮のままに話し込むが…という話。
 わたしはどれもおもしろかったです。登場人物の人数が最低限なくらい抑えられていて、小作りな感じ。台詞でどんどん露わになって深まってゆくような感覚は舞台的なのでしょうか。なんだか棒読みが気になるところもあったのですが、特定の誰かというわけでなく、その場の会話全体が淡々と流れていくので、あえて感情を乗せずに言葉を味わう演出なのだろうと思いました。登場人物の誰にもあまり共感できないのに、ぐさぐさ刺さって痛くなるような、不思議な映画でした。シューマンのピアノ曲のかろやかさが絶妙でした。

 第三話の舞台は仙台で、スクリーンには見慣れた場所が映りました。二人がすれ違った駅前のエスカレーターはわたしも時々使います。ここで20年ぶりに誰かに再開してもわたしは気づけるかな。と、思ったけれど、そこから先の通りで10年ぶりくらいに気づいてもらえたことはあったのでした。なんだかそれっきりになってしまったけれど、それでもよく見つけてくれたなあとびっくりした出来事でした。日常は偶然にあふれているのでしょう。

  公式サイト→https://guzen-sozo.incline.life/

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コロナ禍も少し落ち着き、ワクチンも接種したので、11月末に実家の山形に帰省してきました。2年ぶりくらいです。

 実家に向かう前に、反対側へ向かう電車に乗って斎藤茂吉記念館へ寄りました。電車が1時間に1本で、ゆっくりする余裕もなかったので、滞在時間が30分くらい。常設展は見たことがあるので泣く泣くさらっと流し、特別展「新収蔵資料展」を鑑賞しました。茂吉やアララギ歌人の原稿、書簡が見られたのがうれしく、長塚節歌集をまとめるためのやり取りなど興味深かったです。つくづく茂吉の字がかわいいのです。
 文庫版の歌集をあるだけ買おうと計画していたのですが、もう『つゆじも』『ともしび』『小園』しか残ってなくて、『小園』は持っていたのであとの2冊を買いました。
 次に来るときは時間に余裕をもってゆっくり観たいです。

 祖母のいない実家というのは何か落ち着かず、居間にいると、いつものように祖母が来るんじゃないかという気がしてきます。隣町の伯母から借りていた介護ベッドも返したようで、祖母の部屋だった仏間には、デイサービスに通っていた頃にレクレーションで書いたらしい「令和」という習字がぶら下がっていました。

 帰りに祖母の居る施設に寄って、少しの間のガラス越しでしたが面会ができました。あんなにおしゃべりでうるさかった祖母なのに、今は口をぱくぱくさせるだけで声も出ないようでした。それでも、思ったより元気そうで、家にいた頃より身ぎれいになっていたのと、介護士さん達が優しそうで安心しました。祖母の後ろで、他の入居者の女性がこちらを見つめて時々両手で顔を覆っているのが印象に残りました。

 ほんの数年前まで、2階のわたしの部屋まで両手両足で上がってきて、母に内緒でお小遣いをくれた祖母だったのにな。犬の散歩に農道に出たわたしの後をシルバーカーを押して歩いてきてたのにな。入り婿の父をばかにするために歌っていた「のんきな父さん」というよくわからない歌ももう歌えないんだろうな。
 祖母が老いた年月を、わたしも老いました。

  いつまでもずっと元気でいてほしい 自分にもそう願えればいい


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映画『梅切らぬバカ』を観てきました。監督・脚本は和島香太郎さん、出演は加賀まりこさん、塚地武雅さん、渡辺いっけいさん、森口瑤子さんなど。加賀まりこさんはなんと54年ぶりの主演とのこと。

 大きな梅の木のある家で暮らす占い師の母と、自閉症を抱える息子。50歳の誕生日を機に、息子はグループホームに入所して……という話。
 8050問題……。思えばこうした障がいが題材となっている話でこの年代はめずらしいような気がします。わたしが知らないだけかもしれないけれど、8050問題の映画自体も初めて見ました。
 こうした話は映画やドラマよりドキュメンタリーで観ることがわたしは多く、わたしは昨年観た強度行動障害のわが子をグループホームに入所させて手放すという内容のドキュメンタリーを思い出していました。一緒にいるのも離れるのもくるしいという壮絶さでずっと印象に残っています。
 この映画にもつらいことは描かれますが、現実のことを思えばわたし自身にもこの親子をつらくさせるような気持ちがないとは言えず、申し訳なくなります。それでも、優しい物語にうれしくなりました。

 紹介文などを読む前からこの映画には「観てみたいな」と惹かれるものがありました。理由の一つは、緑あふれるポスターがすてきだったこと。もう一つはタイトルです。「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」ということわざから採られているとのことですが、やっぱり五文字や七文字の日本語が気持ちいいのでした。

  公式サイト→https://happinet-phantom.com/umekiranubaka/

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塔9月号、800号記念特集、座談会や評論ずっしり読み応えあり、アンケートの匿名ならではの本音感もおもしろかったです。敬称略です。

  どくだみの根を抜いてゆく快感は根を抜かれゆく快感に似て  花山多佳子

 根を抜かれゆく快感とは。そんな経験ないのに不思議な比喩に妙に納得して、雨上がりの湿った土のからだから根を抜かれたくなってしまう。

  木の陰に待ちゐし父を面影にたたせて荒れし庭に入り来ぬ  仙田篤子 

 ご実家を手放す一連。面影が見えるのではなく、自分でたたせているというところに覚悟のようなものが見えます。

 「生きたい」と不意に湧ききて錠剤をひと粒のんで接種会場へ  立川目陽子

 少し元気のない時があったのでしょうか、不意に生きたい気持ちが湧いてからの行動力、特に錠剤のくだりに実感と迫力を感じます。

  終戦の年に一年生ですよ教科書なんぞなんにもなくて  渡辺のぞみ 

 定型にきっちりおさまっているのに、語り部の自然な語り口そのままのよう。結句の言いさしもリアルで胸に迫ってきました。

  となり家の二歳児泣けばもっと泣けその元気欲しもっと泣けもっと  相馬好子

 命令系とリフレインが激しくも、優しい。二歳児の元気な大泣きに、心の中で発破をかけているのでしょう。

  スイッチを入れればオウム返しするクマに「がんばれ」三度言わせる  山田恵子 

 <形容詞過去教へむとルーシーに「さびしかった」と二度言はせたり/大口玲子『海量』>の歌が下敷きなのでしょう。癒しの玩具であるテディベア。オウム返しさせるために自分で最初に言った「がんばれ」があるということ。

  完治せぬ病をやうやく受け入れぬあぢさゐの花あふれ咲く日に  杉之原壽美

 上の句と下の句のつながりに惹かれるものがありました。気持ちが動いたその日に、あじさいが咲いてた、それだけのことかもしれないけれど。

  六月のカレンダーのまっさらに田植えの予定を太く書き込む  高原さやか 

 なんとも気持ちの良い歌です。まっさらなカレンダーが田植え前の田んぼのようでもあり。

  走って走って黄色いバスに乗れた人よかったねえと遠くから見る  寺田慧子

 作者と一緒に、走っている人を見守っているような気持ちになりました。「黄色いバス」が効いています。

  十四歳迎えてすぐの暑い日に戦争敗けて飢えていました  西村美智子

 下の句の率直さと舌足らずな詠いぶりが、遠い過去のこととして物語化されているような雰囲気もいじましい。

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10月も半ばを過ぎて、秋が深まってきました。
「私には毛布がある」と、昨日、隣の席の同僚さんがって言ってたのが、おもしろかったな、と心の中で反芻しています。
 急に冷え込んできましたね、なんて季節の話題の中でのことでした。ふと通販の案内で見て数万の毛布を衝動買いしてしまって、毛布に数万なんて初めてで、その毛布はものすごくあたたかくって、どんなに嫌なことがあっても「私には毛布がある」って思うとがんばれる、そんな話でした。まっすぐなまなざしと力強い断定口調がなにか冗談めかしているようで、「いいなあ、わたしも毛布ほしいなあ」と笑いながら、人生に、そんな毛布のようなものがあるといいのだと思いました。時々くるまって。自分で買ったものだということも、きっと要で。
 
  あたたかなものに触れたい湯たんぽに毛布あの日の君の手のひら

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プロフィール
HN:
おとも
性別:
女性
自己紹介:
歌集『にず』(2020年/現代短歌社/本体¥2000)

連絡・問い合わせ:
tomomita★sage.ocn.ne.jp
(★を@に変えてお送りください)
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