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川が好き。山も好き。
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ベランダの紫蘇の花が終わったので、紫蘇の実を収穫しました。今年はベランダの工事があって、鉢を一時的に日の当たらない場所に移動したりしたこともあり、菜園は不調で、紫蘇の葉もごわごわした出来でした。それでも自分で食べる分には問題なく、充分に夏の食卓をゆたかにしてくれました、紫蘇の実もボール半分ほど穫れ、塩漬けにしました。薬味や彩りに使うつもりです。
 紫蘇の実は、穂先に少し花の残る頃が収穫時です。その前の、満開の頃も可憐でとてもかわいい。けれども、紫蘇の花を花瓶に挿して飾ったり、花束にして人に贈るようなことは、よっぽどないような気がします。少なくとも、わたしはありません。思えば、ナスの紫の花、キャベツの黄色の花、サツマイモのピンクの花なども同じくです。そもそも野菜は、花を摘んだら実が生らなかったり、花が咲く前のところを食べたりします。
 花が美しいのは、受粉を手伝ってくれる虫や鳥の目を引くためだといいます。手折って飾るだけの人間には、花はもとからなんにも期待していないでしょう。それでも、咲いたところに居合わせたからにはわたしは愛でたい、と思うのでした。

  ブーケには選られぬ白い花がすき掃溜菊に蕎麦や紫蘇など

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祖母の初盆なので、お盆は有休を取って帰省してきました。もういろいろ簡略化されていて普通のお盆と変わらない感じですし、お盆にご先祖様が帰って来るというのもよく考えたらよくわからない理屈でもあるのですが、文化や信仰としては味わい深いものです。
 祖母は信心深くて、なにかにつけて「仏様に拝んでだんだ」と言うので、わたしの受験の合格もわたしの運転免許の取得もなんでもかんでも祖母が仏様に拝んだおかげに帰結してしまい、わたしががんばったのにと反発したものでした。
 ふと仏壇になにか立てかけてあるのを見つけて、手に取ってみると、それは祖母の実家のお墓の写真でした。なんでそんな写真があるのか母に聞いてみると、知らないけれど祖母が持っていたとのこと。12歳で母に死なれたと、なにかにつけて言っていた祖母。祖母のいう仏様とは、祖母の母のことだったのでしょうか。祖母の実家にはわたしのはとこが二人いましたが、二人ともお嫁に行ってしまい、祖母が拠りどころにしていたかもしれないお墓もこの先どうなるのか。家より個人を尊重する時代になって、お墓の在り方も変わってゆくのかもしれません。

 お盆の間は市場が休みで、家族は農作物に追われていました。出荷ができないのに野菜は育ち、育ち過ぎて出荷ができないので、食べたり人にあげたり保存したりそれでも間に合わないものは捨てるしかなかったりで、世の中は物価が上がってくるしんでいるのに、野菜が余って余ってしょうがないという現実もあり、変な感じでした。
 農作業の手伝いをわたしもしようかなと思っていたけれども、どうやら間に合っているようだったので、ご飯の支度をしました。ナスは昨日母が漬物にしていたから麻婆茄子にしよう、カボチャは昨日母が煮物にしていたからサラダにしよう、みたいに料理というより夏野菜をいかに消費するかの戦いでした。だしが食卓に並びがちなのも必然です。

 祖父のきょうだいの娘さん達が盆礼に来てくれました。わたしにとってはいとこおばに当たる人達ですが、決まった親戚の集まりにくる人ではないし、わたしも20年ほど実家を離れているので会う機会もほとんどなくて、先日の祖母の葬儀でぼんやり認識したぐらいでした。
 いとこおば達を車に乗せてきたその息子さんはわたしのはとこということになりますが、存在すら初めて知りました。母方だけでも祖父が7人きょうだい、祖母が5人きょうだいなので、父方の祖父母も併せてそれぞれの枝葉を思えば、わたしの知らないはとこがまだまだたくさんいるのでしょう。この初めて会ったはとこは、高齢のいとこおば一人残して婿に行って名字も変わっているということなので、ますます遠縁になっており、この先も親戚付き合いが続くのかどうか。祖母の初盆で来てくださった方々なのに、祖母とは全く血がつながっていなくて、初対面のわたしとはうっすらつながってる、というのが、当然のことなのに不思議な気がしてきます。3人は祖母の写真などを見てひとしきり談笑した後、ネギや糸カボチャをたくさん持たされて帰ってゆきました。

 帰省の最終日の朝に、回覧板がまわってきました。山の方で熊によるスモモの食害跡が発見されたので注意しましょう、と熊の対処法が書いてありました。地図を見ると、「開墾」と呼んでいたうち畑のあたりです。昔は小豆やプルーンを植えていましたが、今はその畑はほとんど何もしておらず、自生したニセアカシアが蔓延っていて少し荒れてしまっています。子供の頃に夏休みに通った野球場も近くにあります。野球だけでなく、キャンプもしたこともありました。テントを張って、ハンモックを釣って、ルールもわからないままドンジャラをやって。今はもうあそこで野球をする子供もいないし、そもそも野球ができるほど子供がいないです。
 人が降りて、熊が降りて、今こそ山が自然に返ってゆく途中なのかもしれません。

  夏の窓にホップ畑は広がりぬ 親戚もみな高卒なりき 『にず』


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トークイベント<『細倉を記録する寺崎英子の遺したフィルム』をめぐって>に行ってきました。出演は写真評論家の飯沢耕太郎さん。当初は写真家の小岩勉さんとの対談の予定だったのが、ご体調の都合でご欠席とのことで残念でしたが、興味深いお話が聞けて実りある時間でした。

 写真に撮るのと写生で歌に詠むことは似ているし、写真のシャッターチャンスは短歌における切り取り方のようだし、まなざしや技術に独自性が表れることなども、写真と短歌は通ずるところがあると思っています。写真の心得のないわたしがカメラを構えてシャッターを押せば写真が撮れてしまうのように、歌心がなくても言葉を五七五七七に収めれば短歌ができてしまうところなども。

 細倉鉱山閉山が発表された1986年から鉱山の町に暮らす身近な人々を撮り始めたという寺崎英子さん。ご自分でもほとんどプリントもしないままの膨大なフィルムを写真家の小岩勉さんに託され、当初はお困りになったとのことですが写真を見てみたらとても良かったということで、助成金の申請など様々にご尽力を受けて、写真展が催され、こうして写真集もできて、寺崎さんのご存命中に叶わなかったことがとてもせつなく思われます。
 いくつかの写真の解説などもお聞きして、わたしは写真のことがさっぱりわからないのでためになりました。寺崎さんはご病気で小柄だったこともありローアングルの視点の写真が多いというのが特徴のようでした。そうした視点や構図、色彩のバランスだとか、この瞬間を捉えたのがいいとか、ここにこの具体が写っているのがいいとか、何でもないような写真だけどいいとか、一枚一枚スクリーンに映されながらお話を聞いていると、まるで短歌の評のようでした。実際に寺崎さんは俳句や短歌も詠んでいたことも無関係ではないのかもしれません。
 わたし自身は短歌を詠んでいてなにか足りないような時、いまいちきまらない時に自分の撮った写真を参考にすることがあります。自分で記録したもの、自分の目に映っていたものを詠み込むことで歌に説得力が出てくる、ことを期待したい。頭で言葉をひねり出すより、自分で納得できる感じがするのでした。

 わたしが最初の写真展を見たのは、所用で訪れた場所でやっていたのでついでに、みたいなほとんど偶然でした。けれども、なにかとても充実した思いを抱きました。写真集として手元でいつでも見られるようになったのがうれしいです。写真の解説を聞いて、なぜ良い写真だと感じるのか、具体的に理解に近づけた気がします。そうした技術的な部分以外にも、わたしが子供だった頃の1986年から数年の時代の空気感への懐かしさや、鉱山が閉じたようにわたしの故郷の農村もいずれ山に返ってゆくのかもしれないと重ねて見えてしまうことなども、わたしが寺崎さんの写真に深く惹かれる理由なのだと思います。
 
 行き帰り、仙台七夕祭りの街を通りました。せっかく七夕飾りの中を歩くのだから浴衣でも着て行こうかと一瞬思い、思い直しました。着付けが手間だし、ヘアセットも苦手です。なにより、和服にはポケットがないので鍵やハンカチの仕舞いどころに迷います。大叔母の遺した着物がいくつもあって、しつけ糸の付いたまま袖を通していないものすらあって、わたしが受け継いで着てゆきたい、なんて気持ちばかりで。

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平日の休みに、映画『遠いところ』を観てきました。脚本・監督は工藤将亮さん、出演は花瀬琴音さん、石田夢実さん、佐久間祥朗さんなど。
 夫と子供と暮らす17歳の主人公・アオイ、勤務するキャバクラにガサ入れが入り働けなくなり、働かない夫は暴力を振るったり、お金を持ち出して疾走したり、逮捕されたり、と様々に悲劇がおそってきてしんどい話、ではあるのですが、アオイの態度がどうにも悪くて共感も同情もできず。夫に一途っぽいのと子供に愛情があるのにはかろうじて救われるのですが。夫の暴力はひどいけれども、そもそもそんな相手を選ばなければいのでは、今からでも離れればいいのでは、そんな相手とそんなに若くして子供を作らなければよかったのでは、と自業自得に感じてしまうところがあります。
 ただ、離婚してそれぞれ新しい家庭を持ちアオイに愛情のない両親や、仕事で関わる大人達など、アオイの周りの人もクズばかりなので、そりゃあこのような荒んだ環境にいればこうなっちゃうのも仕方ないと悲しくもなります。違法な働き方を咎める警察や、虐待を疑って息子を引き離す児童相談所の人は圧倒的に正しいのに、アオイには響かない。まだ言葉も話せない幼い息子は無邪気でとてもかわいいのですが、この子も当然のように暴力を振るうような大人になってゆくか、その前にアオイがシングルマザーになってその彼氏に暴力を振るわれるのだろうと想像がついてしまうのは、こうした生い立ちを現実の事件で見聞きすることが多いからかもしれません。主人公に寄り添うのではなく、もっと大きな視点で貧困の連鎖に思いを馳せる映画なのだと思いました。

 週末、熱帯夜の寝苦しさに目が覚めてテレビを点けたら「朝まで生テレビ」をやっていて、少子化がテーマでした。日本に子供が増えないのは日本の現状に希望が見えなかったり、子育てにお金がかかったり、女性の生き方が多様化してきたり、氷河期世代の問題だったり、娯楽が増えたりと、政治家や活動家の方々が様々に議論をしていました。子供を生まない選択をする、または選択肢すらなく生めない人が大勢いる一方で、『遠いところ』の発端となったルポルタージュのように貧困が連鎖しようともぽんぽん生む人もいて、なにか世界の違いのようなものを考えさせられます。
 わたしが子供を生まなかったのは、社会の問題も無関係とはいえないけれど、つまるところ、ただ、縁がなかったからです。
 
 公式サイト→https://afarshore.jp/

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先日の金曜ロードショーで『もののけ姫』を観ました。ジブリ作品は既に観たことがあるものが多く、そこそこの頻度でテレビ放映されるので、観れる限り観たい『思ひ出ぽろぽろ』以外は今日観なくてもまた次の機会に観ればいいかな、と見送ることもあります。特に『もののけ姫』は映画館で観たこともあり、テレビでくり返し観ることはしていなかったので、ずい分久しぶりにちゃんと観ました。

 久しぶりに『もののけ姫』を観て、やっぱりおもしろかったです。昔は敵のように見えたエボシ様は今見るととても恰好良くて。それぞれに思いがあって、どれが正解というわけでなく、様々に折り合いをつけて生きてゆく、ということは大人になった今の方が身につまされて感じ入るものがあります。
 触れると命が吸い取られると言って、暴走したシシ神様の透明な姿から水の中を皆で逃げ惑う場面などは、震災の津波を彷彿とさせるようでとても怖くなりました。震災より14年も前の映画に津波を感じるのも、不思議な感覚です。

 公開の1997年、何もない小さな田舎町の女子高生だったわたしは、友達3人で『もののけ姫』を観に行きました。学校帰りに、映画館のある山形市まで一時間に一本あるかないかのバスと電車を乗り継いで、今みたいに山形駅に映画館が直結もしていない頃のこと、どこをどうやってどこの映画館までたどり着いたのか、なんだかもうほとんど覚えていません。けれども、親の車がないとどこへも行けないような暮らしの中で、友達だけで制服を着たままこんなに遠出することは初めてで、まるで大冒険みたいでした。
 もう2人ほども誘ったのだけど「お金がない」と断られました。思えばほんとうにお金がなくてかつかつというわけではなく「そんなことにお金を使いたくない」という意味だったのでしょう。その子は他のことも「お金がない」と断ることが多く、そう言われてしまうとなにか決まり悪いような思いがしたものでした。
 一緒に行った友達の一人はその後サウンドトラックCDを買い、わたしにも貸してくれました。彼女はエレクトーンを習っていて、「アシタカとサン」という曲のエレクトーンとピアノの連弾の楽譜もくれました。命の芽吹きを感じるようなとても美しい曲です。わたしはピアノをがんばって練習したけれど、難しくて弾けるようにはなりませんでした。エレクトーンとピアノが一緒に置いてある場所もなく、友達と一緒に合わせて弾くことも結局ありませんでした。
 友達とは、高校卒業後の最初の夏に同窓会で再会したっきり、今となってはどこでなにをしているのか全くわかりません。当時は今のようにSNSなどもなく、ポケベルが衰退しPHSから携帯電話を持ち始めたような時代です。時々手紙を書くような友達もいましたが、一人暮らしを始めても携帯電話ではなく固定電話を引き、長らくメールアドレスも持たなかったわたしは人と疎遠になりがちでした。世の中の主流に合わせて通信手段も持ち合わせていれば、続く縁もあったのかなと時に寂しく省みることもあります。けれども、大人になってからのきっと難しい付き合いがきっぱりとないからこそ、楽しい青春の思い出として振り返ることができるのかもしれません。
 
 サントラを聴いて、楽譜をもらって、希望あふれる壮大な曲のように感じていた「アシタカとサン」は、実際に映画では控えめにしか流れず、その直後のエンディングの「もののけ姫」の歌声にかき消されてしまいました。それでもなんだか懐かしく、まだ楽譜が残っていたら再び挑戦したいと思いました。

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夕飯はもやしと豚肉を炒めてポン酢でもかけて食べようかな、と思って野菜売り場へ赴いたらもやしが売り切れでした。このところ卵や乳製品を筆頭に値上げ続きで、もやしのように安くてボリュームのある食材はありがたい。考えることはみんな同じなのでしょう。もやしはこの頃人気です。
 少し前のNHKマル得マガジンでも「もやしでごちそう カサ増しグルメ」というシリーズ回でした。ああもう少し前は同じ枠でアボカドレシピなんてやっていたのに。そのアボカドも昔は100円ほどで買えたのが今は倍の価格になってしまい、なかなか手に取りにくくなりました。マグロの刺身に手が出ないから、代わりに風味の似ているアボカドにしょうゆをかけていたほどだったのに。暮らしが下降してゆき、今までの日常だったものがぜいたくになりつつあります。もともと慎ましくしていた方だけれども、今まで以上に財布の紐をしめなければ。

 今まで以上に財布の紐をしめなければいけないのに、ぜいたくをしました。この春に発売された『朝のあかり 石垣りんエッセイ集』(中公文庫)を買いました。『ユーモアの鎖国』『焔に手をかざして』『夜の太鼓』を底本とし、独自に作品を選定して再編集した一冊です。なにがぜいたくかって、わたしは底本の三冊を既に持っているのです。再編集の一冊に、書き下ろしや未収録作品の収録もありません。再読なら手持ちのものを読めばいいのです。けれども、土筆の描かれた黄色のカバーを書店で見たときに、なにか元気をもらえたような気がしました。思い入れのあった随筆の「朝のあかり」が表題作に選ばれていたのもうれしく思いました。
 夜がきたら、たとえ二つの部屋の片方に家族が集まっていても、あいているもうひとつの部屋を同じように明るくしておきたい。台所も手洗いも、みんな電気をつけておきたい、私は明るさの持つ静かなにぎわいが好きだから。(中略)電灯が宝石のように高価だったら私だって手が出ない。さいわい電気代くらいなら狭い家のこと、全部一晩中つけておいても給料でまかなえるだろう。(中略)「もったいないですって?」一日働いてくたぶれて、あれもこれもしようと思いながら、思い果たさず消し忘れた電灯。「デンキぐらい、なんの楽しみもない私の道楽なのに」と泣き落とした。(後略)/「朝のあかり」
 わたしも朝までずっと蛍光灯をつけています。わたしは一人で過ごす部屋が暗いのが怖いという理由なのでもしかしたら少し違うかもしれないけれど、それでも好きな詩人が自分と同じことをしているという事実に励まされるものがありました。「デンキぐらい、なんの楽しみもない私の道楽なのに」という思いもせつなく刺さりました。
 初読のときは20代だったわたしも、石垣りんが随筆を執筆していた年代にだいぶ近づきました。あの頃に思い描いていた将来からは遠く離れて、今のわたしにより沁みてくる言葉がたくさんありました。この一冊に選定されなかった分も含めて、石垣りんの随筆は折にふれて読み返してゆきたい。また、わたしも文章を書いてゆきたい。ぜいたくしたおかげで、心が奮い立ちました。

  カルピスを牛乳で割るぜいたくを時々はして元気でいます 『にず』

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もう7月!どうにも物忘れ著しくなり、書くことを大事にしてゆきたい今日この頃です。

 5月13日は歌集『にず』を読む会でした。会場のシルバーセンターに着き、催しの案内板を見ると「歌集『みず』を読む会」と表示されていました。ガーン。表示名については電話で「ひらがなで『にず』です」とお伝えしていたのですが、聞き慣れない言葉ではあるので聞き誤ってしまうのもしょうがない。わたしも電話応対の仕事をしていて変わった響きのお名前を聞き違えてしまうことがよくあるので人を責められたものではないですし、間違えられたところであまり気にする性格でもなく、ひとネタできたぐらいの心持ちです。他の参加者の方々もまあ笑ってくれるでしょう。
 鍵を受け取りに事務室に赴くと、職員の方が先に「虹が訛って『にず』ですよね、すみません今から直します」と気づいてくださっていました。何かしらでお調べいただいたのでしょうか。かえってお手数おかけしてしまって恐縮でした。

 歌集タイトルにちなんで、前半の歌会のテーマ詠は方言詠み込みの歌にしました。参加者は東北の方が多めですが、出身地がそれぞれのため北から南から様々な言葉が集まり、日本語のおもしろさ、奥深さを感じました。わたしは「んだ」なんていうベッタベタな東北弁を読み込んだ歌を提出してしまいましたが、他にはまるで「読み解かれてたまるか!」とでもいうようにディープな言葉が持ち寄られていたのがとても興味深かったです。余所の地域の人には伝わりにくい言葉だからこそ大事にしたい、というような心でしょうか。方言は辞書に載っていないものも多く、意味の読み取れないまま想像を働かせて評をするといった相当に異色の歌会になりましたが、楽しかったです。こんな歌会は歌集の読む会の余興だからこそできたような気がします。

 歌集を読む会は、皆さんに3首選を提出していただく形式でした。好きな歌や良い歌の3首選だとただただ賞賛を浴びるだけになってしまい、会としておもしろくないのではという懸念と、わたしもあまり自分が褒められる状況は慣れてなくて居心地が悪くなって逃げたくなってしまうので、どうしたものか相談したところ、キャッチフレーズを考えてそれを元に3首という提案をいただきました。試しに自分でも考えてみて「難しいな」と悶えましたが、ちょうどわたしの歌集には帯がないので帯をつくるような感覚で言葉を選んでいただけたのではないかと思っています。おかげさまで、様々な切り口で歌集を読んでいただけてありがたかったです。
 客観性についての指摘が一番多かったのですが、他には古風でベタなしあわせ感、歌の評ではなく生き方の評になってしまいそうになるということ、さらけ出しっぷり、大勢の主流に乗れないわたし、歌の並べ方・置き方、リフレイン、他者との距離、食べ物の歌の多さ、批評性、仮想敵、独特なユーモア、タイトルに関係する歌が少ない、といったことなどが話題にあがりました。あたたかい言葉も厳しい言葉もとてもうれしく、糧にして今後の歌作に活かしてゆきたいです。
 わたしは歌と自分との距離が近いからか、作者としては向き合うのがしんどいときもある歌集ではあるのですが、刊行から3年ほど経ってこうして読む会を開けたり、時々いろんなところで引いていただけたりもして、しあわせな歌集だとしみじみ感じております。

 花束を二ついただきました。翌日が母の日で実家に帰る予定もあったので、ほどいて小さな花束を作り、母におすそ分けしました。ドライフラワーと押し花も作りました。会からひと月半過ぎてドライフラワーは良い感じに部屋を飾ってくれています。押し花はなにか活用できないか考え中です。

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大型連休も関係のない仕事ですが、5月3日から5日の間にどこかシフトで休みが入っていたら白石市の全日本こけしコンクールに行こうと考えていて、4日が休みだったので行ってきました。
 電車の窓からは雪を被った蔵王連峰が遠くに見え、白石川堤の一目千本桜の葉桜もさわやか、白石川も初夏の陽にきらめいていました。そろそろ田植えも始まっています。
 白石駅からシャトルバスで会場へ。白石市と言えばロクロ模様やくびれのある弥治郎こけしですが、他にも11系統の伝統こけしや新型こけし、創作こけし、小学生の絵付けしたこけしなども一堂にたくさん並んでいてとてもかわいい。わたしは伝統こけしが本命ですが、そうした技術を活かしたコマや車などの木地玩具、食器などの応用木製品にも惹かれます。工人の方々の実演販売や、ちゃっこいこけしコーナー、地場産品まつりなども併設されていてとてもにぎわっていました。壁一面にこれまでのポスターがはってありましたが、コロナで中止になった一昨年とその前の年のポスターも貼ってあって感慨深いものがあります。開催する予定でポスターを制作されたもののお蔵入りなってしまったのでしょうけれど、こうした場でお披露目できでよかったし、コンクールもこうして再開できてよかったです。こけしを大量購入できるせっかくの機会ではありますが、あまりにたくさんのこけしに囲まれて見ているだけで満腹感もあり、厳選してちゃっこいこけしを一つ選びました。

 

 白石城にも上がってみました。駅から徒歩で行けると思うと、挨拶のように行きたくなるものです。急な階段を恐る恐る上がって天守閣へ。窓からは町が見渡せて絶景ですが、偵察のための眺めであると説明が添えてありました。すぐ下を眺めやるとつつじが鮮やかです。天守閣は風通しが良くて、坂道で汗だくな体に心地良かったです。前に来たのもコロナ禍前の5月の連休中でしたが、その時ののんびりした印象よりにぎわっているようでした。城下の公園にドローンとキャンプ禁止の看板がありました。



 壽丸屋敷の白石和紙展にも寄ってみました。絵手紙やランプシェードの展示、紙漉きの工程のパネルや道具など。和紙の風合いがすてき。栞を購入しました。建物も趣があるのですが、何より2階の窓からこちらを見ているようなこけし2体が気になりました。
 


  さわっても抱いても濃厚接触にならぬこけしの微笑むばかり

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春の山形はとてもよかった。満開の桜の向こうに、雪をかぶった真っ白な月山。新しく春の名前を授かったばあちゃんが見せてくれた景色だと思いました。

 祖母の葬儀から半月ほどが過ぎました。なにしろ山形へ向かうのですから、道中で「みちのくの祖母のいのちを一目見ん」みたいな歌をはからずも詠んでしまうのだろうと踏んでいたのですが、東根駅まで行く特急バスのバス停に着いたところ、乗るつもりでいた発車時刻のバスが4月のダイヤ改正で無くなっていて、あわてて隣のバス停に来た山形駅行きのバスに飛び乗り、車内ではガラケーで必死に乗り換えを調べたりして、歌を詠むどころではありませんでした。山形駅でみどりの窓口に相談して、新幹線を使えば東京から来る叔母との待ち合わせに間に合うとわかりました。まさか人生で山形-東根間を新幹線で移動する日が来ようとは。新幹線の窓からは今が盛りの霞城公園の桜が見えて、とてもきれいでした。たくさんの花見客がこちらにカメラを向け桜越しの新幹線の写真を撮っていました。
 なんとか東根駅で叔母と合流し、タクシーで実家へ。地名が田舎過ぎて伝わらず、赤い橋を目印にしてもらいなんとかたどり着きました。

 妹は七歳の甥っ子を連れてくるか迷っていたようですが、これまでのいくつかの葬儀を思い出し、連れてくることを勧めました。無邪気な子供の存在はこうした場を和ませてくれます。実際に、本家のかあちゃんが「よぐ来たなあ~」とよろこんだり、わたしも甥っ子が様々に聞いてくるのへ「天国に行くんだよ」みたいに答えているうちに、そんな楽しげな映像が浮かんできたりするのでした。それにしても、あやしい宗教ではなくいたって一般的な真言宗なのに、一連の儀式やおっさまのお話、お経、仏様の存在なども生きている人の作りごとのようだと思いました。子供に言い聞かせるように、大人も物語の中で悲しみを癒してゆくのかもしれません。
 親戚から、わたしの父は婿に来て一年足らずでわたしの祖父の喪主になったという話を聞きました。今まで続柄がよくわかっていなかった親戚も結構いたのですが、あらためて確認すると祖父の兄弟やその上の世代が婿に行った家など入婿がとても多いです。親戚だけでなく、近所でも多いようです。農村といえば男尊女卑で長男が偉い前時代的なイメージがありますが、意外に世代を遡るほど男性の方が名字を変えて婚家の農業を継いでいますし、長男が外に出て次男三男が継いでいる家もあります。
 わたしも婿を取っていればよかった、と悔やんだのは、祖母を運んだり棺を運んだりする場面で「男性の方、前に出てください」と呼ばれても、高齢男性しかいなかった時です。祖母は痩せてしまって軽いとはいえ、ここでわたしの夫がいれば病を患っている方や杖をついている方に負担をかけさせずに済んだのに。夫がいなくとも女のわたしでも役に立ちそうに思いましたが、なにか儀式的な意味があるのかもしれず前に出られませんでした。
 親戚がたくさん集まって、頭の中の家系図を書き加えながら、その細りゆくことを思いました。わたしの実家はわたしで断絶するし、本家も次で断絶、祖母の実家も、父の実家も、あの家もこの家もいずれ断絶します。家のために子を生むわけではないけれど、先祖代々の田んぼや畑を次世代に繋いでゆけないことが、わたしはとてもくるしい。農作業の合間に肥やし袋を尻に敷いておにぎりを食べるような時間を、自分の子や孫とも過ごしてみたかった気もしてくるのです。わたしがなりふり構わずそうなるように突き進んでいればそういう未来もあったかもしれず、結局は自分が選んできた今なのかもしれません。

 告別式で親類の挨拶などがあれば、祖母との仲からして頼まれるのはわたしだろうという自負があったのですが、泣いて泣いてとてもそんな状態ではないだろうと見越した母や伯母が、挨拶の代わりにわたしの歌集から数首を司会の方に朗読してもらうように手筈をつけていました。セレモニーホールの待合室で葬儀社の方と漢字の読み方などの打ち合わせをしていて、「タイトルがなんのことだかわからなかったけれど、この歌(表題歌)を読んでわかりました」なんていう会話の後、「この本、買えますか?」と思わぬ申し出があり、そのまま差し上げました。
 司会の女性は、たんたんとしていると評されがちな作風のわたしの歌を、情感たっぷりに読んでくださいました。そして「にず」の訛りのアクセントがネイティブで完ペキです。祖母の歌は思ったより少なくて、三首選ぶのに迷いませんでした。これからは、どんなに詠んでも挽歌です。元気なうちに元気な祖母をもっと詠んでおけばよかったと思いました。

 いい時に死んでくれた、と叔母はくり返しました。果樹の仕事がひと段落した時期でちょうどよかったというのです。祖母には果てしなく長生きしてほしかったわたしには、叔母の言葉がなんだか無神経に感じたりもしたのですが、わたしもわたしで来月の歌集を読む会の日にそうなったらどうしようと相当に心配していたので、時期の被らなかった安堵感は確かにあったのでした。また、結社誌の詠草の取りまとめ作業のある20日前後に自宅を数日離れるのも厳しかったので、なんでもない日で、なんだか祖母に渾身の力で空気を読んでもらったようです。尤も、母は予定していた一泊旅行が取りやめになり、祖母に呼ばれて旅行がなくなるのはこれで3度目らしいのでした。
 コロナ禍も落ち着いて遠方の叔母や妹が来れて、とはいえ通夜振る舞いなどの会食は弁当を持たせてお帰りいただくことで縮小できて、いつかの真冬の雪の葬儀に比べたらよっぽど体も楽で、天気が良くて、花が咲いていて、充分に長生きして、葬式代もちゃんと遺して。なんて見事な仕舞いっぷりでしょう。でも、おしゃべりでにぎやかな祖母のもういない世の中を生きてゆくのは寂しいです。

 くり返し「寂しい人生だ」とつぶやけば祖母に「楽しい」と訂正される


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ベランダの桃の花が今年はふたつ咲きました。昨年はひとつだったのでうれしいです。
 さて、このたび歌集『にず』を読む会を開催することとなりました。コロナ禍などもあり刊行から数年越しではございますが、どうぞご参加お待ちしております。
 前半に歌会がありますが、読む会からのご参加もOKです。どうぞよろしくお願いいたします。
https://toutankakai.com/event/14603/?instance_id=2209

【歌集『にず』を読む会】

○とき:  令和5年(2023年)5月13日(土)13時~17時

○ところ: 仙台市シルバーセンター   
〒980-0013 宮城県仙台市青葉区花京院1丁目3番2号
TEL:022-215-3191
https://www.senkenhuku.com/silvercenter/

○次第: 

1 歌会  13時~14時20分

  題詠:「方言」を詠み込む 1首   ※実際に方言を詠み込んでください。
「めんこい」「なんでやねん」「エビフリャー」など

2 『にず』を読む会  14時30分~17時   

・『にず』の特徴を表す歌、とても好きな歌、何か言いたい歌などを事前に3首選んでください。

・加えて、【『にず』を一言(一文)で表すなら】ということで、『にず』にキャッチフレーズをつけてください。どのような感じでも結構です。

・当日は、全員の方に発言していただきたく、上記のものをとっかかりにお話しください。

○参加費:500円

○懇親会: 読む会の終了後、懇親会を予定しています。(仙台駅付近、予算3000円~5000円)

○申し込み締切:5月6日(土)

(歌会用1首+『にず』3首選+『にず』キャッチフレーズ)

・お名前  ・所属結社名(あれば)  ・メールアドレス   ・歌会のご参加の有無   ・懇親会のご参加の有無 をお知らせください。

○申込先・問い合わせ先: 三浦こうこさん koumeworld2000★gmail.com (★を@に変えてお送りください)

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プロフィール
HN:
おとも
性別:
女性
自己紹介:
短歌とか映画とかこけしとか。
歌集『にず』(2020年/現代短歌社/¥2000)

連絡・問い合わせ:
tomomita★sage.ocn.ne.jp
(★を@に変えてお送りください)
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