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川が好き。山も好き。
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眠い。布団から出たくない。寒い。もう少し寝ていたい。なんてうだうだしているうちに時間が経ってしまって、出勤時間が迫ってしまって、いつもは20分ほど歩く駅までの道を、自転車で急ぎました。なんとか仕事には間に合い、一安心です。時々の寝過ごしの通勤や、休日のちょっとした買い出しなど、わたしの日常生活に自転車は欠かせません。

 仙台に暮らし始めて感動したのは、冬でも自転車に乗れることです。ふるさとの山形の冬は雪道で、特にわたしの実家は町外れなので、学生だった頃は通学にも苦労したものでした。学校帰りに本数の少ないバスに乗り損なったり、車に乗せてくれる大人がいなかったりした時は真っ白な景色の中を延々と歩きます。寄り道の楽しみもない田舎道で、道端の自動販売機であたたかい缶コーヒーやコーンポタージュを買っては、コートのポケットに突っ込んでカイロ代わりにするのがせめてもの愉悦でした。
 仙台はあまり雪が積もらないので、冬でも交通事情はほとんど変わらないし、雪かきの重労働もほとんど無くて、気楽です。一方で、雪の大変さを知っているからこそ、雪のない冬は冬という実感が薄いようにも思っていました。

 昨年、初めて冬の青森を訪れました。初めて来た場所なのにとても懐かしく感じました。辺りが雪で覆い尽くされたいちめん真っ白な景色が、地元と同じだったからです。雪の白しかないまぶしさの中を、転ばないようにそろそろ歩きながら、やっぱり冬はこうでなくちゃとうれしくなったのでした。


 
 短歌アンソロジー『雪のうた』(左右社)にわたしの歌も掲載していただいております。冬の雪国生まれ・雪国育ちなこともあり、雪の歌に目を留めていただけるのがうれしいです。どうぞよろしくお願いいたします。
https://sayusha.com/books/-/isbn9784865284461

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過日、母の付き添いで野口五郎のコンサートに行ってきました。そのひと月前にせがまれてチケットを2枚手配してあげた時はまさか自分が行くとは思っていなかったのですが、どういうわけか出発直前にわたしが行くこととなりました。こういう成り行きもまたおもしろいものです。

 野口五郎氏はそりゃあもう流石のプロフェッショナルなエンターテイナーっぷりで、とても楽しいコンサートでした。薄暗いホールの中で真っ白な衣装がライトに照らされてまばゆく映えて、高音の伸びやかな歌声も素晴らしくて。
 ご本人もファンのほとんども60代なのに、曲目が10代20代が主体のラブソングばかりなことを興味深く思いました。「青いリンゴ」「甘い生活」「私鉄沿線」などは若い頃のヒット曲だから、というのもあるけれど、近年の歌もやっぱりラブソングです。齢を重ねてもアイドルなので疑似恋愛の対象ということでしょうか。
 考えてみれば、彼に限らず、世の中の流行歌は大体がラブソングです。

 文と詠めば恋文と読まれたり、指輪と詠めば結婚指輪と読まれたり、短歌の世界でも相聞歌が求められているという空気を感じることがあります。数年前まで『短歌研究』では毎年2月号に女性歌人による相聞歌の企画がありました。新人賞の応募作に相聞歌が少なくなったことを惜しむような文章もどこかで読んだことがあります。大河ドラマ『光る君へ』では倫子さまが歌のサロンの仲間に「良い歌を詠むためには良い恋をしませんとね」と微笑んでいたし、少し前の朝ドラ『舞いあがれ!』では主人公の幼なじみの貴司くんが歌集を作る際に、編集者から相聞歌を詠むよう求められていました。

 わたしも、これまでいくつか相聞歌を詠んだことがあります。けれども、ほんとうに相聞歌だったのか。歌に嘘を詠んだということはないけれども、人としての好感を恋に、人の心離れの傷みを失恋の傷みに、盛っていなかったか。他に適当な言葉が思い当たらず「恋」と詠み込んでいた歌なども、実際は別の感情ではなかったか。

  恋人が欲しいと思っていたけれど本当に欲しいのは兄だった/田村穂隆『湖とファルセット』
  あなたとは恋じゃないから続いてく気がする テレビを見てて思った/長谷川麟『延長戦』
  私はただ結婚したいだけなのにみんな恋愛させようとする/逢坂みずき『昇華』

 自分の心に向き合った、こうした歌に誠実さを感じます。そうして、わたしは便宜上「恋」という言葉が都合がいいので、或いは相聞がウケるとわかっていて、もしかしたら相聞ではないものまで相聞のように詠んでしまったかもしれない、という自分への疑いの心が湧くのでした。

  でも恋は皆するという前提で問われる沁みるラブソングなど/塔2024年4月号

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「うた新聞」2024年9月号、親しく想う<ひと>を詠うの特集に「ずんつぁばんつぁ」3首とエッセイを載せていただいておりました。どうぞよろしくお願いいたします。
https://www.irinosha.com/

「ずんつぁ」「ばんつぁ」は「じいちゃん」「ばあちゃん」の田舎訛りなのですが、母から「ばんつぁ」などと言う人はおらず「ばんちゃ」だとの物言いがありました。わたしは「ばんちゃ」は「ひいばあちゃん」の認識でいたのですが、母は「ひいばあちゃん」は「ばばちゃん」だと言うのです。わたしには実のひいばあちゃんはいなかったけれど(名前ばあちゃんで呼んでいた戸籍上のひいばあちゃんはいたのでややこしい)、幼馴染が「ばんちゃ」と呼んでいたのはひいばあちゃんのことでした。一般的な呼び方ではなく、たとえば叔母さんだけどおねえちゃんと呼ばせるようなあくまでその家庭のみの呼び方だったのでしょうか。「ばばちゃん」こそ聞いたことがないし、他の属性で「おんつぁ」「あんつぁ」というのもあるので「ばんつぁ」じゃなかったかなあという気がしてしまいます。どちらにしても、今はもっときれいな言葉を使うし、そのうち誰も使わなくなって消えてゆく言葉なんだろうなあと思うと、どこか寂しい響きです。
 少し侮蔑のニュアンスが加わると「ずさま」「ばさま」になり、晩年の祖母などは何故か「ばがばさま」と皆に呼ばれているという被害者意識をこじらせていたようでした。


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しばらくずっとテレビに張り付いていた「南海トラフ地震巨大地震注意」の表示が消えて、ひとまずほっとしました。とはいえ全国的に地震が続いており、心配な日々は続きます。

 この夏に、荒浜の深沼海水浴場が14年ぶりに海開きをしました。東日本大震災で被災してから、こうして再開できるまで、どれほどの作業や人々の思いがあったのだろうと、込み上げるものがあります。海水浴を楽しむ人の賑わいがテレビのローカルニュースに映るのを見るにつけ、楽しそうだな、よかったなと思います。

 深沼海水浴場へは、実は一度も行ったことがありません。けれども、街の中心部から自宅へ帰る際に、震災前までは「深沼海岸行き」のバスを利用していたので、馴染みのようなものを感じていました。わたしがいつも途中で降りるバスに、終点の深沼海岸まで行く人も乗っていたでしょう。隣に座ったこともあったかもしれない。大丈夫だっただろうか。顔も名前も知らない、一緒のバスに乗っていただけの、縁とも言えないような関わりの人達を、案じる気持ちがずっとありました。

 震災があったからなのか、地下鉄東西線ができたからなのか、バス路線は何度か変わり、仙台市中心部からの「深沼海岸行き」のバスもなくなりました。わたしは今は別な場所へ向かうバスに乗って帰宅しています。今の深沼海岸へ行けるバスは、地下鉄東西線荒井駅からの「震災遺構仙台市立荒浜小学校前行き」だと知りました。

 八木山のベニーランドの観覧車から君と見た海の遠さよ 『3563日目<塔短歌会・東北>震災詠の記録』

 『4766日目 東日本大震災から十三年を詠む』発行されました。通販も始まっております。どうぞよろしくお願いいたします。
 https://booth.pm/ja/items/5958149

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先週末、所用で山形へ行ってきました。大雨で最上川が氾濫したとの知らせの後で心配していたのですが、当日は雨傘の要らない天気でほっとしました。最上川はいくつもの町を流れているとても長い川だから、山形で会う人会う人に雨は大丈夫だったか聞いてしまいました。

 仙台と山形とをつなぐバスの充実によるストロー効果や、郊外にイオンモールができたこともあり、七日町大通りはなんだかとても寂しくなりました。大沼もチロルももう無いのに看板は残っていて、それが余計に寂しい。街に看板を撤去する体力もないのだろうか。もっと田舎の町に生まれ育って、十代の頃は友達と遊びに行くといったら七日町大通りが定番だったので、あんなに都会に感じていた街並みがこうなるとは、と感傷的な気分になります。それでも、冬に来た時は看板のみ残してどこかへ行っていた彩画堂が、元の場所に戻って営業していたのでうれしくなりました。高校生の頃に、夜空の絵を塗るために彩画堂で買った深い青色のパステルがまだ残っています。
 夕方は連なった提灯に明かりが点っていました。花笠祭りはもうすぐです。

  最上川はわたしの町を君の町を流れゆく川 赤い橋見ゆ  『にず』


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思いがけずこの7月から環境が変わり、張り詰めたような心地で日々を送っていたのですが、やっと一区切りつき、明日は休みです。そうだ、今日は図書館まで足を伸ばしてから帰ろうと、自宅とは反対方向に定禅寺通りを歩いていると、サラリーマンらしき男性に声をかけられました。
「すみません、○○ビルはどこですか?」
「この地図のこの公園がこの先で、今歩いているのはここの通りなので、こっち側にあると思います」
「ご親切に、ありがとうございます」
 尋ねられたビルの名前は知らなかったけれども、おそらくこの辺だろうと、見せられた地図と道とを指差すと、気持ちの良い笑顔でお礼を言っていただけました。人助けができたようで、こちらもどこか清々しい。
 それにしても、週末のアフターファイブでいつにも増して人通りの多い定禅寺通りなのに。

 わたしは人に道を聞かれることが割と多いほうだと思います。つい先日も仙台駅の地下道へ向かう階段で、中高年女性に地下鉄南北線へはどう行ったらいいか聞かれ、一緒に階段を降りて案内したばかりでした。ここ数か月でも、車に乗っている人に窓から呼び止められてオフィスビルの場所を聞かれたり、スマホ片手の外国人に朝市がどこか聞かれたり、ヘルプマークを付けた人に文化センターの場所を聞かれたりしました。もともとが方向音痴で、仙台に暮らしてはいても未だに余所行き気分なので、土地勘も怪しく、充分に案内できないこともしばしばです。居住地どころか旅行先の秋田で道を聞かれたこともあるし、目的地へちゃんと着くかどきどきしながら乗っている東京の電車の中でも隣に座った人にこの電車はどこどこ駅に着くかと聞かれたこともあります。
 周りに他にも人はいるのに、さぞかしわたしが道に詳しそうに見えるのでしょう。と、いうわけではなくて、単にわたしの見た目、服装やメイクなども含めてあまり攻撃的ではなく、声を掛けるに無難そうなのではないか、と推測しています。道案内だけでなく、切符の買い方などを尋ねられたり、カメラのシャッター係を頼まれたりすることもよくあります。

 見知らぬ人から声を掛けられやすいからといって、わたしに人を惹き付ける魅力があるかというと、そういうことではありません。見知る人とはそれなりに接しているつもりがいつのまにか自分以外でグループができているようなこともあるし、また今度ねと言いながら今度がこないこともざらです。あくまでただその場きりの、旅の恥を掻き捨てる際にはちょうどいい感じのわたしなのでしょう。その場だけでない中身も磨いてゆければいいのだけれども。
 新しい場所で、新しい人間関係が始まって、いましばらくはまだ緊張の毎日です。

 次の歌会の勉強会で取り上げる歌集を読もうと思って入った図書館でしたが、課題の歌集が置いていなかったので、永田和宏さんの『あの胸が岬のように遠かった―河野裕子との青春―』を読みました。短歌の「か行」の棚にありました。

  よく道を聞かれることと愛されることは違って南天の花/塔2023年12月号

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先日は祖母の一周忌法要でした。祖母がいないことも、祖母のいない世が一年過ぎたということがまだ信じられない。どうにかこうにか生きてきました。
 お寺は近所で、家族や近しい親族、本家、分家仲間のこじんまりとした法要です。子供の頃は素直に信じてきた仏教の儀式も、死後に仏様になるというおっさまのお話も、今はなんだかファンタジーのように感じます。深く理解はできなくとも、しきたりとして続けてゆくことが大切なのかもしれません。とはいってもわたしの代にもこうしたことがなされるのかどうか。
 ご詠歌の追弔和讃の譜面を渡されて、節回しは全然わからないのだけれど、こんなところにも五七五七七の韻律が馴染んでいるのだなあとしみじみ思いました。

 法要の後に、叔母と歩いて紅花資料館に行きました。豪商だった堀米四郎兵衛の屋敷跡で、紅花商の資料や昔の生活道具が興味深いです。特にわたしが好きなのは紅花染めのお着物の展示。鮮やかな紅色のものや、鶴や松などの豪華な刺繍が施されているものなど、うっとりします。
 企画展示室では武者人形展をやっていました。豊臣秀吉や加藤清正、牛若丸と弁慶、神功皇后と竹内宿禰などがモチーフとして好まれていたのは江戸時代から戦前までなのでしょうか、現在のほぼ金太郎一強への変換が気になります。立派な人形をいくつも観ながら、人形に託されるお祝いの心や、健やかな成長への祈りが胸に沁みてきました。思えばわたしが生まれた折にも七段ものお雛様やいくつかの日本人形を親類から贈っていただいていたのに、健やかに育たずこんな仕上がりなので、なんだか申し訳なくて心ぐるしい。
 併設の物産館で、紅花染めの詰め合わせを買いました。ストールやハンカチ、手提げ袋やチャームなど。とてもすてきです。きょうだいらしき小さい子が二人、お堀の鯉にあげるえさを買っていました。叔母と紅花茶を飲みながら、わたしが父方の祖父母に贈られてその後いとこも着た七五三の着物を、今さらわたしに返されても着せるあてがないので、いとこに娘が生まれたら着せてはどうかなど、いろんな話をしました。

 晩春の山形はさくらんぼの花が満開でした。桜の花でお花見はするのに、さくらんぼの花の下にシートを敷いて愛でたりしないのがなんだか不思議なくらいの花盛りです。蜜蜂が花と花との間を飛び交っていました。犬の散歩に農道へ出れば、地域のお年寄りが畑仕事に勤しんでいる姿が見えました。挨拶をしたところ、「お姉ちゃんに散歩してもらってよがったねぇ」と犬が労わられていました。

  葬式の間を放っておかれたる山に蕨のひらきゆきたり  「斎藤茂吉記念歌集第五十集」
  

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このところずっと通勤ラッシュを外した時間帯での勤務がほとんどなのですが、先日はたまの早番で久しぶりに満員電車に乗りました。
 いつもは、立っていても本を読めるぐらいのゆとりはあるのに、さすがにぎゅうぎゅう詰めの中では両手を下に降ろさないと乗れません。A4サイズ対応の肩掛けのバッグを降ろして、持ち手を両手で持っていると、手の甲が前の人のお尻あたりに触れてしまうんじゃないかひやひやします。
「痴漢に間違われないように電車の中ではスマホを見るようにしている」と、後ろの方から男性同士の会話が聴こえました。満員電車の中でも必死に腕を上げてスマホを見ている人を、通勤のちょっとした時間くらい我慢できないなんてどんだけスマホ依存なのよと、今までは冷めた目で見ていましたが、痴漢冤罪対策でもあったのか。目からうろこが落ちたところで、斜め前でスマホを見ている男性のつき出した肘が、わたしの胸に当っているのでした。
 胸、といっても薄着の夏ならともかくまだ上着を着ていて、たまたま胸の位置なだけで別に肉の感触が伝わってはいないでしょうし、スマホを見るふりして肘で痴漢してやろうなどというつもりでもないでしょう。ま、若くもない豊満でもないわたしの体。たいした価値があるわけでもない。どうでもいい。
 どうでもいい、なんてことはないのか。

 十数年前の20代の頃のこと、葬儀で帰省した山形から仙台へ戻る電車で、わたしはボックス席の車両の端っこの、半ボックス席の窓側に座っていました。隣に、中年男性が座ってきて、コートを脱ぎだしました。それから、なにか様子が変だなと思って、気のせいではないとわかって、でも「やめてください!」などと叫んだら何かもっとひどいことをされるんじゃないかって怖くて声も出なくて、せめてもの抵抗としてわたしは持っていたバッグを相手にぎゅうぎゅう押しつけたのですが全然効かなくて、わたしは窓側にいて逃げられず、一時間ほどの乗車時間の間、電車の壁に体を張り付けてただただ耐えることしかできませんでした。
 駅について電車を降りてわーっと自宅に帰って、電話で母に電車での中のことを泣きつきました。母は、あっそ、とか、ふーん、といった感じで、無関心でした。え、それだけ?と、感じました。自分ではひどいことをされたと感じていたのに、まるでなんでもないようにあしらわれました。
 その後、自分でもあんなことはなんでもないことだと思おうとしたのか、「すっごい気持ち悪かった~」と友達に笑いながら話したこともあります。あんなに泣きそうなくらいの、恐怖の出来事だったのに。

 あの時、母に慰めてもらったり、一緒に悲しんでもらえたり、相手を怒ってもらえたりしていたら、なにか変わっていただろうかと、数年経ってから考えるようになりました。自分をもっと大切にできて、誰かに自分を大切にされることも素直に受け入れることができて、自分の人生も変わっていたんじゃないか、なんて今でも時々思い巡らせてしまって、いい年していつまでも引きずってんじゃないよ、なんでも親のせいにするんじゃないよ、もう自分の責任だよ、ってもう考えても仕方なくて、せめてこの先は自分で自分が手ひどく扱われた時にそれを当たり前だと受け入れないように、自分を大切に生きてゆければいいのかなあと、春は残業せずに過ごしているのでした。

  一人ずつ痴漢に遭ったことあるか聞いてわたしを飛ばす女子会

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この冬は薄く綿の入った紺色のモッズコートを着ています。東日本大震災の時に着ていたコートで、停電で暖房の効かない寒い中このコートを着ながら部屋のめちゃくちゃを片付けました。避難所のホールに泊まった際は、布団もなく板張りの床に御座が敷かれただけだったので、このコートを着たまま眠りました。
 次に冬が来て、なんとなくこのコートを着る気になれず、その次の冬も、その次の冬もとクローゼットにしまったままになっていました。
 震災以来このコートを着てみたのは、震災からふっきれたとか、そんな大げさな気持ちでもなく、単に暖冬で、他の手持ちのコートは少し重かったからです。まだ埃っぽい気のするコートを引っ張り出して洗濯ネットに入れて洗って羽織ってみたら、着れるな、と思いました。
 なにしろ古いので、もしかしたら世間の流行から外れていて変に見えるかもしれないけれど、ぼろぼろな時に着ていたのだからどうせだめになってもいいのだと、てきとうに着倒せるぐらいの気安さを感じています。
 
 今年の3月11日は、普通に仕事でした。年によっては職場の近くで震災の祈りのライトアップや灯篭などさまざまな企画をやっていることもありますが今年は何もなく、わたし自身も他の祈りの場所などに赴くこともなく一日が終わりました。13年前の東日本大震災より、今は能登半島地震、といった思いもあります。どっちが、と比べるのも違うのだけれども。
 朝起きて、駅まで歩くつもりが出遅れて自転車漕いで、仕事して、残り物を詰めただけの弁当を食べて。スペシャルなことは何もなくても、普通に一日過ごして帰ってこれるということが、つくづくありがたいです。

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年末年始は実家の山形に帰省しました。雪国なのでブーツを履いていったのですが、雪が積もってなくて拍子抜けしました。
 移動中や実家滞在中は大岡信『あなたに語る日本文学史』を読んで過ごしました。万葉集から子規まで。空き時間が想定されるときは、文字数のなるべく多い文庫本をお供にしておくと荷の小ささの割に充実感があってコスパがいいなと感じます。

 昨年は、フットワーク重めなわたしにしてはめずらしくあちらこちらへ出かけました。2月は青森で是川縄文館の国宝の合掌土偶と対峙したり、岩手の花巻で宮沢賢治の世界に触れたり、10月は京都で「ドキュメント72時間」で印象に残って行ってみたかった鴨川沿いを歩けたり、11月は東京で高尾山に登ったり。山形への帰省や福島での定例の歌会などは毎度のことで遠出といった感じはしないけれども、ハプニングでやむなく山形駅と東根駅を新幹線で移動するなんて普段は絶対にしないこともしました。慣れた場所でも移動手段やルートの些細な違いで景色が違って新鮮で、そんなふうに代わり映えしない日常の中でも様々な表情に触れることにより、より味わい深い日々になってゆければいいな、と思ったりします。
 歌集の重版をしていただいたのもありがたいことでした。恥ずかしくみっともない自分がいっぱい詰まった歌集ではあるのですが、うれしい言葉をいただくこともあり、つくづくしあわせな歌集です。歌よりも人生、の心持ちは変わらずです。
 昨年はどうにも筆が重いというか、筆が乗らないというか、筆が迷うというか、文章以外にも、取り組んでいた連作もまとめきれないままだったり、なにか時間の感覚も使い方も思うようにいかずもどかしかったので、今年はなんとか軽やかにゆきたい。と元旦に心から思ったはずなのに、もう三月だなんて。
 
 喪中ということもあり静かなお正月でした。実家では餅つき機を新調していました。今までのものは大きく重く、年老いてきた両親には出し入れが大変になってきていたのでした。新しい餅つき機は前のものよりだいぶ小ぶりですが、餅しかつけなかった前のものと違ってパン生地をこねたり味噌を作ったりもできるのだとか。とはいってもたぶん家では餅にしか使わなそうです。使わない機能、使いこなせない機能、使う気のない機能。世の中もっとシンプルでいいのに、と思うこともあったりなかったり。やっぱり生餅は美味しいです。
 近所のお弥勒さまに初詣でに行きました。普段は鍵がかかっていますが、元旦なので開いています。久しぶりに中に入ったけれども、地域の人の奉納した千羽鶴や手作りの吊るし飾りが飾ってあったり、今はもう亡くなった方々の昭和に書かれた署名の和紙などが貼ってあったり、八畳ほどの小さな空間ながら祈りを強く感じました。正座して、手を合わせ、新年の願いごとをするつもりが、願うのを忘れてしまいました。母が熱心に般若心経を唱えているのに気を取られてしまったのです。祖母が亡くなって以来、母は毎日ぽくぽくと般若心経を唱えています。生前はあんなにあんなだったのに、不思議なものです。
 お弥勒さまから帰宅後、能登半島地震が起きて、ずっと案じています。

  餅ならばいくつ食べても今日だけは良いと決めたり一月一日 


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プロフィール
HN:
おとも
性別:
女性
自己紹介:
歌集『にず』(2020年/現代短歌社/本体¥2000)

連絡・問い合わせ:
tomomita★sage.ocn.ne.jp
(★を@に変えてお送りください)
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