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川が好き。山も好き。
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大河ドラマ「べらぼう」の総集編を見ました。蔦重の墓碑銘を書いた宿屋飯盛が狂歌を交えながら、出版物を軸にして回想するといった構成で、場面と狂歌のズラし具合も粋だな、と思いました。昨年の「光る君へ」と2年続けて本を作るお話でうれしかったです。ただ「光る君へ」はまひろと道長のメロドラマだけがどうしてもついていけなくて、それ以外は楽しめたので良かったのですが、そのあたり「べらぼう」の蔦重は区切りがついていていい感じでした(歌麿はちょっと長かったかな…)。もともと好きな時代、好きな題材ということもありますが、期待以上におもしろくて、いろいろ攻めたところもあって、今まで見た大河ドラマの中でも特に好きでした。戦国時代はもうお腹いっぱいと思いつつ、来年の「豊臣兄弟!」の予告を見るとこれぞ大河ドラマといった趣きでなにか懐かしい。

 一年を通して見た大河ドラマ以外にも朝ドラや夜ドラ、いくつかの小説など、物語に救われた一年でした。物語に没入している間は現実から心が離れられて。
 今年は余り布でつまみ細工を作ったり、キットや自作の織り機で布を織ったりなど、手芸もよくやりました。手芸で手を動かしている間は無心でいられるのがよかった。手芸はできた物が残るのも達成感に繋がりました。
 横浜、東京、八戸と遠出もして、日常から離れるのが癒しだと実感した年でもありました。

 本年もここまでお読みいただきましてありがとうございました。良いお年をお迎えください。

  目を閉じれば眠れることに気付きたり木曜の夜を自分で眠る/塔2025年12月号

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「~~さんはどんな仕事でもそつなくこなせる人だと思います」と、当時の上司が異動のご挨拶の際に言ってくれたことも、その言葉を御守りしようと思ったことも、10年くらい前の日記を読み返すまですっかり忘れてしまっていました。そもそも、過去を振り返りたくなるなんていうのは、前を向けない時です。確かにそれからしばらくはどんな業務もそこそここなせていて、それは自分の力だと自信になっていたけれども、今に思えば上司に言霊の力をいただいたんじゃないか、その効力が解けてきたんじゃないか、そんなふうにこの頃は思うようになりました。――逃げたい。で、年末年始休みに救われています。

 お正月の帰省に向けて冷蔵庫の整理をしました。悩ましいのが大根一本と、白菜一玉。食べきれるだろうか…。主食の代わりにして米を食べなければ消費できるか…とも過ぎりましたが、ダイエットのためにと炭水化物を抜いて体を壊したこともあるので、ここは大根を輪切りにして茹でて干して保存することにしました。白菜は、人参、しめじ、玉ねぎ、豚肉と一緒に、鍋いっぱいのシチューにするか迷って、すき煮に。余ってもうどんや餅の汁にしたり卵とじにしたりアレンジが効くので。

 今年の内に観ておこうかな、と思い立ち、映画『国宝』も観てきました。外出ついでに銀行や郵便局などの用事を済まそうと二駅前で降りたところ、ものすごい人混みで交通整理に遭いました。光のページェントです。さんざん歌にも詠んでおきながら、忘れていた自分にびっくりです。
 『国宝』は、あまりに話題なのでちょっと期待し過ぎてしまった気がしないでもないけれど、評判通り美しくて見応えがありました。原作は読んでいないのですが、いろいろ端折られているのか年表のような感覚もあり、行間を読むように味わう感じでしょうか。血と芸を巡る光と影。芸を持つ人に肩入れしてしまいたくなるのは、血を受け継ぐ環境が特殊で恵まれてもいてそちらに共感する人が少ないからかと思いますが、とはいっても多くの人が該当する血も芸も持たない凡人が物語の主人公にはならないことを思ったりもしました。
 時期も時期で時間も時間なので観客も少なかったのですが、斜め前の方に元々彼みたいな人がいて気が気でありませんでした。こんな時期のこんな時間にこんな所で居合わせたりしないでしょうと思いつつ、もし本人だったらどうしよう、会いたくない、気づかれたくない、気持ち悪いと、エンドロールが終わってから逃げるように帰りました。一時でも気持ちが向いていた人を、何かきっかけの出来事があったわけでなく、全く関わりが無くなくなってから、こんなにも生理的に無理!ってなるのだから自分の心というものが全く信用できません。それまでは思い出のようになっていたものが、自分に次の人ができたらこうなったので、よく言われる<女性は上書き保存>というシステムに身を持って納得したものでした。そんなふうに自分の心の動きを考察しながら、よくわからなかった映画後半の花江の心理がますますわからなくなってしまったのでした。

 過去のことばかり綴ってある日記たしかにわたしが書いたのだけど/『にず』


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うた新聞11月号特集「作歌に困ったら読む歌集」に小文を載せていただきました。基本的には作歌はマイペースで、無理して詠むことはせず、なんかできたら書き留める、という感じです。なんだかこのところ歌が降りてこないな…というときには読みながら「ああ歌が詠みたい!」という気分にさせてくれるタイプの歌集を、連作の構成に悩んだときは同じくらいの歌数の好きな連作をいくつか読んだりします。
 あまりしあわせじゃないときに歌ができがちなため、歌なんて詠まずに済む方が人生しあわせなんじゃないか、と思った頃もありました。けれども、自分の傍に歌があるということが慰めになることもあります。心のままに詠ってゆくことにしましょう。
https://irinosha.com

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今日の未明に地震が2回ありました。ゆらゆらとなんだか長く揺れて、必死に本棚を押さえて耐えました。数年前の地震で本棚が倒れてきたのがほんとうに大変だったので。まして夏はどうしてもひどく薄着で防御力が弱いので、何か倒れたり落ちたりすると危ないです。
 幸い、棚の上に置いていた空の段ボールが落ちてきたぐらいで済みました。とはいえ、どうにも地震の後は落ち着かないです。

 先月の朝の、カムチャツカ半島付近の地震による津波警報もびっくりしました。職場のトイレにいる時に警報音が鳴ったのですが、業務に入る前に、隣にいた人に話しかけられました。先ほどの津波警報のことの後に、「東日本大震災の時は」と続きました。当時は別の職場に勤めていて、一人でビルの高層階から階段を下りて避難したそうです。その人とはロッカー室のロッカーが近くなのでなんとなく顔や名前は知っていましたが、それまでは挨拶を交わす程度で、ちゃんと話をするのは初めてでした。訴えるような面持ちで「一人で」「一人で」とくり返し、あまりに切実な様子だったので、「わたしもあの時は~」などと自分語りをするのは躊躇われ、「大変でしたね」と聞き役に徹しました。
 あの時わたしは一人だった、と、くり返したくなる気持ちが、わたしにはとてもよくわかりました。わたしも東日本大震災の発災の時に一人で過ごす時間があったからです。先の見えないまま自宅と避難所を行き来しながら、周りを見れば、みんな家族や誰かと一緒に支え合っていました。「怖いね」と誰とも言い合えないあの心細さは、14年たった今でも忘れることができません。
 あの頃、同じような気持ちで過ごしていた人がいたんだ、という仲間意識のような思いが湧き、また話す機会があればいいなと思いました。が、数日後にロッカーからその人の名前シールが剝がされていました。詳しい事情はわかりませんが、どうやら退職されたようでした。人の入れ替わりの激しい職場です。何も珍しいことではありません。とはいえ、あの警報の日の朝の切迫したような饒舌さが気になりました。その後どうされたんだろうか。お元気でいらっしゃるだろうか。
 もう会えないのだったら、「わたしもあの時一人だったんです」と言って、あの時に一人だったのはあなた一人だけじゃないよ、ということを伝えていたらよかったと思いました。

  一人なり。テレビの中の被災者はみんな誰かと支え合ってて/『3563日目<塔短歌会・東北>震災詠の記録』

 塔短歌会・東北『5133日目 東日本大震災から十四年を詠む』、今年も参加しました。下記リンク先より通販でお求めいただけます。どうぞよろしくお願いいたします。
https://booth.pm/ja/items/7209961

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うかつでした。靴下を履こうと足先を見遣ると、足の甲がくっきり2色に分かれていました。パンプス焼けです。
 覚えはあるのです。7月の3連休、夜行バスで早朝に東京駅に着き、待ち合わせていた妹が来るまでの間、皇居のあたりを散歩しました。顔やデコルテ、腕には日焼け止めクリームを塗ったものの、足の甲に塗るのは忘れてしまったのでした。日傘は差していましたが、足先は日傘をはみ出しまくりです。そりゃあ日焼けします。うっかりでした。
 思えば、乗り換えで東京駅を通ることはあっても、降りて外に出るのは初めてです。皇居のあたりをちゃんと歩くのも初めてで、皇居の外観や周囲の緑、わたしと同じようにきょろきょろ観光している人、日常として皇居ランをしている人、公園の木の下で寝転んでいる人、音楽をかけて踊っている集団、ただ歩くだけでも目に映るすべてが新鮮でした。

 どうにもこのところなにかずっと切羽詰まったような張りつめたような感覚でいます。そんな中、こうしていつもと違うものを見たり、いつもと違うことをしたり、初めてや久しぶりにお会いする人と話したり、普段の暮らしとは離れることに癒しのようなものを感じています。数年ぶりに妹と会ってとりとめのない話をしたのも、その後に東京歌会へお伺いできたのも楽しくて。少し前に、塔の全国大会で初めて横浜に行った時も非日常的で、充実した全国大会だけでなく、開始前に山下公園を歩いたり氷川丸の中に入ってみたりという時間も含めて、良い気分転換になりました。
 基本的には腰の重いタイプではあるのだけど、時々こんなふうに日常を離れてリフレッシュできる機会が作れればいいなと思います。
 
 皇居をながめながら、「江戸城……!」という感慨もありました。時代劇・時代小説熱が再燃しております。日曜朝のNHKでの時代劇の再放送を楽しみにしているのですが、昔見ていた『慶次郎縁側日記』が再放送されたのが特にとてもうれしく、途中まで集めていた原作を読み直したり、続きを集めたり。大河ドラマ『べらぼう』もすごく好き。時代小説を書いてみたかった20代の頃に資料として集めていた江戸時代の文化・風俗の本なども、ちょうど『べらぼう』のガイドになって、われながらありがたいことでした。結局、小説は書けなかったのだけれども。

  ほんとうに護れるものは少なくてわが足のパンプス焼けの跡/路上155号「蔓の刺繍」

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実家の母の箪笥に、和歌の柄のつけさげがありました。もし短歌でなにか賞をいただくようなことがあったら、授賞式にはこれを借りて着よう、と考えていたのですが、結局そうした機会は訪れないままです。たぶん着る機会はないんじゃないかなとは思ってはいて、これまで生きてきてわたしはどのような賞にもふつうに縁がないし、誰かからとくべつに選ばれたこともない。そういう人生なのだと、すっかり悟っているのでした。
 ある選考で、わたしがいいところまでいっていると途中経過の情報を知る人に教えていただいた時も、自分が頂点に立つとはやっぱり思わなかったし、期待させて申し訳なかったとその後に謝られた時も、特に気落ちすることはありませんでした。残念な気持ちがまったくなかったわけではないけれど、むしろ、いいところまでいったなんてわたし意外とやるなあ、と気分が上がっていたりもしました。
 ある時、グランプリや最優秀賞には届かずとも次点など十分な好評価を得ている人がとても悔しがっているのを見て、そういうところだよ、と気づかされました。わたしには向上心とか野心とかいったものが足りない。自分に期待しないでおくと、叶わなかったときに傷が浅いので、自分の心が守れます。けれども、絶対に一等賞になるんだ!と自分を信じて自分に自信を持って生きている方が結果もついてきたり、そのまっすぐさが人間的な魅力としてあふれたりするのかもしれません。

 逢坂みずきさん企画・編集の「綾 着物を愛する歌人のアンソロジー」に参加させていただきました。短歌、エッセイ、写真を寄せております。皆さまの着物コーディネートがカラー写真で拝見できて楽しいです。着物は着るよりも見る方が好きかもしれなくて、わたしは明治から昭和初期が舞台の朝ドラなどでふだん着としてお召しの着物が特に好きです。 
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祖母の三回忌で実家に帰ると、玄関に小松菜の花が飾ってありました。本家で収穫しそびれて花が咲いてしまったのを、畑からもらってきて飾ったのだそうです。本家のかあちゃんが自分の家でも飾ると言ったので、本家の分も切ってあげたのだとか。他にも本家のかあちゃんを病院に連れて行ったりなどずい分お世話しているようで、なんだか母から本家の話をよく聞くようになりました。
 本家、分家なんていっても枝分かれしたのが祖父の祖父の頃らしく、血縁的にはもう全然遠縁なのですが、家が隣なので親戚付き合いだけでなくご近所付き合いのようなものもあるのでしょう。わたしは祖母が亡くなってから、本家のかあちゃんを大切にしたい気持ちが深まったので、母も似たような感じなのかもしれません。

 祖母の三回忌とまとめて、大伯父の三十三回忌と大伯母の二十七回忌も執り行いました。一人ずつやってたらきりがないとはいえ、大伯母は秋、大伯父は冬だったのに、ついでに、みたいな感じでいいのかなあと思わないでもないけれども。これで当分はこうした仏事も一区切りといったところでしょうか。もういろいろ簡略化されていて、お寺のおっさますら当日は用事が入ったといって前日にお経をあげにきたくらいです。戒名も、よくよくわからないしきたりだけれども、3つの戒名を聞いてどれが誰だかわかるのが興味深いです。田舎の近所付き合いの濃さから、人柄を汲んだ名付けをしてもらえているのでしょうか。お寺を歩けば、江戸時代の年号と戒名の書かれている墓誌もあり、脈々と続く人の営みを思います。

 親戚の集まる機会では、昔は最上川に橋が架かってなかったので渡し舟で祖母が実家に帰っていたとか、その時に「おーい」と船頭を呼んだとか、牛を飼っていて育てて売っていたとか、葉タバコを作っていてうちは畑が小さいので量より質で力を入れていたとか、収穫した葉タバコをうちは機械ではなく手作業で縄で括っていたので手が真っ黒になったとか、昔の話を聞くのがおもしろいです。わたしが小さい頃に大伯父がよくわたしを連れて歩き、本家にはわたしの茶碗まであった、なんていう話は初めて聞きました。抱っこされて行ったんだろうか、手をつないで行ったんだろうか。さっぱり記憶にないし、大伯父に可愛がられていた覚えもないので、なんだか不思議な感じです。大伯父、大伯母なんていっても生前はじいちゃん、ばあちゃんと呼んでいました。特にわたしはばあちゃん子でした。母方の祖母、父方の祖母と、大伯母と、わたしには3人のばあちゃんがいて、3人とも好きでした。
 大伯母は悲しいこともあった人だけれども、子を産まずして孫を持てたなんていいなあ、なんてこの頃はうらやましくも思います。

  今さらに迷信だとは思われず年寄りっ子の三文安は/塔2014年9月号





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4月の初旬に、今まで使っていたパソコンが故障してしまいました。画面が突然真っ暗になり操作が何もできない状態で、メーカーのサポートも終了している機種のため修理もできないとのこと。腹をくくって家電量販店へ赴き新しいパソコンを購入するも、自宅のネット環境が旧くて何かしら整えないとせっかく買ったパソコンも動かないと判明。回線の工事をしてもらうまで、しばらくアナログな日々を過ごしました。

 わたしは自分ではそんなにインターネットにどっぷりといった意識はなかったのですが、こうしてネットに長く繋がらないでいると、いかにネットありきの暮らしになってしまっていたかを痛感させられました。仕事の給与だって今やWEB明細だし、電車やバスの時刻表なども必要な時にネットで調べていて、紙では限られた路線のものしか持っていませんでした。遠出の予定がありパソコン故障の直前に宿泊先をネットで予約していましたが、一歩遅ければガイドブックを買って載っている宿に電話で交渉しなければいけなかったでしょう。今週はどんな映画を上映してるかとか鯵のレシピないかとか日常のちょっとした調べ物もネットに頼っていたし、それこそ今回みたいなパソコンの不調も何度サポートサイトで解決できたことか。ネットに頼れなくなったので、とりあえず取扱説明書に書いてあることを試して、どうにもならずコールセンターに電話したところでサポートサイト誘導のアナウンスが流れたりして、そのネットが繋がらないのに、って困ったものでした。
 ほんとうに、いろんなことがすっかりペーパレス化できていて、便利な世の中になったものです。だからこそ、頼りきらなくても大丈夫なようにしておきたいとも思いました。

 WordやExcelなどが使えなくなったのも痛いことでした。原稿用紙に手書きして、郵便で送って、ということができないわけれはないけれど、Wordで原稿作ってメールに添付での提出に慣れきってしまっていて。
 Wordだけなら昔のパソコンでいけないか、メールに添付はできなくとも、USBメモリに保存してコンビニで印刷して郵送ができないかと期待して、20年もののWindowsXPを引っ張り出して電源を入れてみました。イルカの出てくる旧バージョンではありますがWordは起動できたものの、どうにもUSBメモリへの保存はできないようでした。それでも、本番原稿前の下書きの感覚でも、キーボードで文章を打つのはなにか落ち着くものがありました。手書きだと書き損じた時が大変なので書き始める前にプロットを作ったりするか、勢いに任せて書いては書き直し書いては書き直しを繰り返すかだけれども、がしがし編集できるテキストエディタの気安さにわたしはずいぶん救われていたのだなあ。原稿の一つはこうして作った草稿を元に、携帯電話の本文メールにベタ打ちで対応いただけました。

 不便には感じつつも、ネットやパソコンの作業から離れている時間には快さもありました。うっかりネット上の読み物を読み耽ってしまい何時間も経ってしまった! ということがないのがよかったです。情報が遮断されたような不安や寂しさはありましたが、その感覚も大切に覚えておきたいです。いつだったかの地震でばさばさ床に落ちてきた本を、気力がなくてずっとちゃんと片付けられなかったのですが、工事が入るために片付けられたのもすっきりしました。しかも契約を見直したら通信費も安くなり、今まで何の不便もないからとずっと今より旧式の設備に余分にお金を払っていたなんて、なんてもったいないことをしていたのでしょう。こんなふうに自分がめんどくさがって先延ばしにしていたことでのちのちズドンときたり損したりしていることが、人生にもきっといっぱいあるのでしょう。
 この機会に得られたいくつもの気づきを、今後の暮らしや作品へも活かしてゆけたらなと思います。

 次にパソコンを買うのはWindows10のサポート終了の頃のつもりでいたので、急遽必要に迫られたことや、予算より大きな出費が精神的な負担になり、一時は食欲が落ちたりしました。前にパソコンを買ったときはどうだったんだっけ、と日記ノートを読み返すと、今回と違って機種を選ぶゆとりがあったり、選ぶ際もそんなに迷いもなかったり、予算よりだいぶ浮いたりで、あっさりしたものでした。
”2016年12月4日(日)
休み。パソコン届く。(中略)前のパソコンを買ったのが10年前で、10年を思う。相変わらずわたしはこの部屋で一人暮らしで、次にパソコンを買う時のわたしはどんなふうに暮らしているだろう。”
 あの日思いを馳せた、<次にパソコンを買う時のわたし>が、今のわたしで、なんだか泣きたいような気持ちになりました。

  元気です。元気な人に見えるよう振る舞えるほどには元気です。/塔2020年1月号

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現代短歌新聞2025年3月号にてコラム[3月のうたのヒント]を執筆させていただきました。お読みいただけましたらうれしいです。

[作品特集]は阪神淡路大震災30年。歌に詠まれることで伝わる一人一人の震災を思いながら拝読しました。阪神大震災が起きたのは1月。3月号に掲載なので、30年目の1月17日を経て詠まれた歌なのだな、と思うとより深まる感慨もあります。
https://gendaitanka.thebase.in/items/100672482

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休みの日は、特に外出の予定がなければ一日中てきとうな部屋着や寝間着で籠って過ごしたいタイプです。冷蔵庫に何もなくても、スーパーへ買い出しのためだけに身だしなみを整えて外に出るのは億劫で、それなら前日の仕事帰りにどこかへ寄って買って帰りたい。そんな時にクリスロード商店街のイオン仙台店(旧ダイエー)を重宝していたのですが、先月末に閉店してしまいました。今年に入ったあたりから大々的な閉店セールで棚から物がなくなっていったり、順々にテナントが撤退していったり、店内が空っぽになってゆくさまはなんとも寂しいものでした。

 イオン仙台店(旧ダイエー)は14年前の東日本大震災の時には、2日後にいち早く営業を再開したことでありがたかったお店でもありました。わたし自身は震災時に直接お世話になってはいないけれども、当時の職場でダイエーが開いているというので係を決めて買い出しに行ってもらったりしました。行列だったとか一人何点の制限があったとかといった話を聞いた覚えがあります。何もない時期だったのでみんな感謝していました。
 そんなふうに、あの未曾有の大惨事の頃に市民の生活を支えたお店も49年の歴に幕を閉じ、時代の移り変わりというものをしみじみと感じています。

 昨年夏から勤務している今の職場では、特に3月11日だからといって業務縮小の時間もなく、黙祷を促されることもなく、いつも通りでした。14時46分も業務に没頭している間に過ぎてしまって。その分、というわけではないけれど、普段の業務の中で震災に関係する部分もあったりで、14年経っても震災がまだ過去ではないのだと実感することがしばしばです。むしろ、震災のことで初めて知るような事実や仕組みもあります。
 様々なことを受け止めながら、向き合いながら、震災後の日々を生きてゆきます。

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プロフィール
HN:
おとも
性別:
女性
自己紹介:
歌集『にず』(2020年/現代短歌社/本体¥2000)

連絡・問い合わせ:
tomomita★sage.ocn.ne.jp
(★を@に変えてお送りください)
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