それでも、モデルの敦士さんが一言もネガティブな言葉を発することなく肯定してくれたり、よゐこの浜口さんの圧倒的な、女性芸人としてではなく一人の女性としての目線での褒めっぷりに、号泣してしまっている自分がいた。なんで大久保さんがおめかしを褒められてこんなにわたしがうれしいんだろう。わたしのこの涙はおかしい、泣くような場面ではない。あらためて、自分の心の傷の根深さを思った。
小学生高学年の頃だったと思う。担任でもない女性の先生が、なにかの係だったわたしになにか頼みかけて、「やっぱり可愛い子にしよう」と言って去って行った。そののち、同じ係の容姿の見栄えする女の子が、壇上でどこかのえらい人に花束を贈呈していた。ああ、あれを頼まれかけていたのか。目立つことは好きじゃないので、花束贈呈役に選ばれなくてよかった。でも、先生の言葉にちょっと傷ついている自分もいた。自分が容姿に恵まれてないことは知っている。けれども、うっかり漏れてしまったのであろう先生の本音を聞いてしまって、他人が認めるほど、わたしの容姿は良くない、ということをあらためて自覚してしまって、恥ずかしかった。それ以前も、そののちも、友達やただの級友、上司など、他人から自分の容姿をそれとなく貶されることは何度かあった。
わたしはブスだから、ブスはしゃしゃり出ちゃいけない。ブスだから、女の子らしいかわいい格好なんか似合わない、しちゃいけない。ブスだから、多くを望んじゃいけない。ブスだから、わたしはブスだからと、なにかにつけて萎縮して自信が持てなくなり、思春期に母親との折り合いがあまりよくなかったこともあって、性格もこじらせていってしまい、いつしか自分の中の女性性をうまく受け入れられないようになってしまった。
もちろん、絶世の美女でなくとも、いつも笑顔でニコニコしていたり、表情や仕草が可愛らしかったり、内面のうつくしさが外面に滲み出て魅力的な女性はいっぱいいる。けれど、わたしは自分はブスであるということに気後れし過ぎて、そういったことに気づくのが遅れてしまった。「可愛い」「美人」などと容姿を褒められて、ああ、これは社交辞令だと察し「ありがとうございます☆」「よく言われます☆」なんて返せるようになったのも、女の子らしい格好やお化粧を躊躇いなくできるようになったのも、もう若い女の子ではなくなってからのことだ
「田宮さんて美人だよね」と言われたまま美人になってしまえばよかった
この歌を塔11月号で取り上げていただいた際、評者の川田さんに「あっけらかんとした自己肯定が素晴らしい。『頭のよさそうなおぼっちゃんね』『なんて可愛いお嬢さんでしょう』なんて言われながら育ち、大人になってやっとそれがお世辞であったことを知る。しかし、誰しもそれなりの賢さ、美しさを持ち、それなりの人生を送るのが一番の幸せ。これも負け惜しみかも……。」という評をいただいだ。そういう受け取り方もありだな、と、こんなふうに歌が作者の手を離れてゆくことをおもしろく思った。
実際は真逆でわたしは「可愛い」というお世辞どころか「可愛くない」という本音を受けて育っている。自己肯定どころか自己否定の人生だった。だからこそ、「美人だよね」と言われた時、このひとにはブスキャラのこのわたしが美人に見えているのだろうか、と戸惑った。戸惑いながら、うれしかった。やっぱり、うれしかったのだった。
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ホワイトシチュー。市販のルーを使わず、ホワイトソースから手作り。この食器、一人暮らし始めた15年ほど前に母が持たせてくれたのだけど、15年ほどにして初めて使った。写真でも撮ろうとか思わないと、普段使いの丼とかお椀によそってしまうもの。
歌集『にず』(2020年/現代短歌社/¥2000)
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