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川が好き。山も好き。
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この連休中も普通に仕事をしています。いつもは通勤ラッシュでぎゅうぎゅうの地下鉄もゆるゆるです。平成が終わるというこの時期にわたしは大正天皇や貞明皇后のことが気になってしまい、移動中は今は原武史『皇后考』(講談社学術文庫)を読んでいます。分厚い! 地下鉄を降りると、地下道の手すりを拭き掃除している人がいました。こういう仕事もあるのだ、とあらためて気づきます。もちろん、通勤のために乗ってきた地下鉄も、地下鉄の職員さんが動かしているのでした。

 昨日は8時間の仕事を終えてコーヒー店に寄り道しました。祝日だから混んでいるのかなと思いましたが、いつもよりは空いていました。おかげでいつも人気で埋まっているソファ席に座れたりしました。でも、お目当てのチーズケーキは品薄です。わたしは仕事が終わって寛げていても、店員さんはまだまだ仕事中です。こうして働いている人のおかげで、わたしも楽しい時間を過ごすことができるのだ、とつくづくありがたく思うのでした。

 冬あたりに、普段は千切りにして食べてしまうキャベツの芯を気まぐれにベランダの鉢に植えてみました。そうしたらいつのまにか芽が出て、茎が伸びて、ついに花が咲きました。これまで生きてきて初めてキャベツの花を育てました。平成最後の雨が、黄色い花を濡らしています。

  求人のメールは届く平成の最後の天皇誕生日にも 


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新元号が「令和」と発表になりました。出典は万葉集の梅の花の歌の序文「初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」からとのこと。
 万葉集からというのがうれしいし、自然を愛でる文からというのも、その中でも春なのも、梅なのもすてき。うららかで美しい情景が浮かびます。教訓めいたものや観念的なものとは違った、こういう方向からの願いの込め方に、しみじみしました。新しい御代がおだやかなものでありますように。

  われの産む子は平成のその次の世の子か南に旅の宿とる
(御代替わりが検討され始めた頃の歌でした…)

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お正月の帰省の感想を聞かれる度に、「白かった!」と即答するほどに故郷が白かったのです。地面のアスファルトも、とりどりの色の屋根も、山の木々も雪に覆われています。春のやわらかな土の色も、初夏の田んぼの稲の青も、真夏の畑のトマトの赤もナスの紫も、まぼろしの景色だったのかと思えるほどに、目に見えるすべてが真っ白でした。

 果てしない白の中にいて、ふりだしに戻ったみたいだな、と思いました。季節のめぐり、命の恵み、人の営み、様々な記憶や思い出、なにもかもどこまでもが、まっさらな雪の下です。
 それでいい、と思いました。なぜだかわからないけれど、変に納得し、どこか癒されました。一年はこうして一新してゆくのでしょう。雪景色を、冬を、初めてこんなふうにいとおしく感じました。

 帰る時に、ビニールハウスで育てたほうれん草とわさび菜を母が持たせてくれました。ビニールハウスも雪をかぶっていたから、わたしは緑に気づかなかったのでした。
 
  奥羽山脈越えた向こうの農村の葬列を思う雪の降る日に


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内々の忘年会でした。いつもは独身女子の集まりで、仕事の話になりがちなのですが、今日はほとんど働いたことがないという人も参加でした。一度も働かずにご結婚されてずっと専業主婦でお子さんが独立して初めて働いた、という人の話を聞くと、そういう人生もあるのか、と別な世界のようです。そういう人生もあるのか。

 今までにも何人か、お子さんが大きくなるまでずっと仕事をしていなかったという人と仕事で接したことがありますが、独特な浮世離れしたような感覚が共通してあるような気がします。基本的にはみんな良い人で、自分が肯定されていることにとても慣れているような印象です。お子さんを育て上げたということが大きな自信にも繋がっているのでしょう。
 仕事においては独特な傾向があって、昔、わたしが病気になって仕事を辞めるほどに追い詰めてきたのも、元専業主婦の50代のパートさんでした。精一杯気を遣っていたつもりでしたが、年下のわたしに指示をされるのに抵抗があったのかもしれません。あれ以来わたしは、部下を持つような仕事はしていません。
 きっと、みんな家では良いお母さん、良いお祖母ちゃんなんだろうなとは思うのです。

 こうした集まりの場で仕事をしなくて生きてこれた人の話を聞く分には、その優雅さ、圧倒的なな自己肯定感がまぶしくも見えるのでした。わたしを含め他の面々は、生活のために働いていて、働かなくては生きていけなくて。働いて社会と繋がることで見えてくるものはたくさんあるので、たとえば、この日曜日、年末年始に街へ出ればお店の人はたくさんの人が休みの時期にお店の仕事をしているのだ、大変だなあお疲れ様です迷惑な客にならないように気を付けようと思いやれることとか、いろいろ自分の心のためにもわたしは働いていたいようにも思うのでした。

 一人が待ち合わせ場所を間違えて迎えに行ったついでに、光のページェントを見られました。明日で終了だった気がするので、すべり込みです。見る気になればいつでも見に来れるのに、いつでも見に来れると思うと見に来なくなっていたのでした。やっぱりきれいです。たくさんの人が居て混み合っていました。ここに居るみんなが楽しそうでした。

  落葉樹常緑樹並び立つ道に冬でなければ気づかなかったな

 

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母から電話がありました。実家の固定電話が鳴って数コールで切れたそうで、わたしからだったのかの確認でした。わたしではないと伝えたところで、「何してたの?」と聞かれたので、「昭和天皇の本を読んでたよ」と答えました。平成の時代ももうすぐ終わるということもあり、あらためていろいろ知りたくなったのです。先日『神宮希林』を観て、伊勢神宮の祭祀など様々な儀式が伝承されてゆくということに惹かれたというのもありました。
 わたしが答えるなり「そんなもの私は読まない」と一蹴されました。
 いつもの何気ない会話の流れでしたが、「ああ、こういうところだ」と思いました。こんなふうに何気なく、子供の頃からずっと否定の言葉を浴びてわたしは育ってきたのだ、と思いました。

 ひこうき雲を見ました。見たこともない太さで、その力強さは空を分断しているかのようでした。少し歩くと、ひこうき雲の先が見えました。そこは空き地で、景色が開けていたのです。
 少し前までは、老朽化した大きな集合住宅が建っていました。ひと月ほどかけながら、ゆっくり壊されてゆきました。空き地になってから数月経ち、立ち入り禁止の柵の中に、小さな昼顔がいくつか咲いています。他の空き地がそうだったように、ここにもそのうち新しい建物が建つでしょう。きっと今だけ咲いている花が、なんだか愛おしいです。

  また家が壊されている十五年わたしが通った道だ、一人で


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寝坊しないようにモーニングコールを頼もうと実家に電話したら、めずらしく弟が出ました。母は芋煮会で留守とのことでした。地域の夜の懇親会すら芋煮会とい名目なあたりが山形です。弟は終始敬語で、こんな喋り方だったかなあ? と妙な感じがしましたが、元からこんな喋り方だったかもしれません。

 早起きして、海の方へ向かう電車に乗りました。四方を山で囲まれた盆地で生まれ育ったわたしは、進む先に山がないという光景にどうにも慣れず、このままどこまでも行ってしまうんじゃないかという不安に駆られるのでした。ぐるりと山に囲まれている時は、このままどこへも行けないんじゃないかと閉塞感に苛まれるのに、不思議なものです。電車の中で、川端康成『山の音』を読みました。どうしよう、おもしろ過ぎる。線路沿いのセイタカアワダチソウの黄色の群れが、青空によく映えていました。

 およそ一年半ぶりの石巻市です。駅前のプレハブのおみやげ屋さんが小さくなっていたり、被災して他の場所で仮営業していたお店が元の場所で再開していたり、少しずつ変わっている街並みを歩いて、COMMON‐SHIP橋通り「短歌部」の展示へ。白地に黒字、縦書きのシンプルさで、素直に短歌を味わえるのがいいな、と思いました。また、販売している冊子に展示そのままで作品が収録されているのも。



 日和山公園にも上ってみましょう。天気が良くて行楽日和です。海も、北上川もとてもきれいです。ごとん、と音を立てて松ぼっくりが落ちてきました。松ぼっくりが落ちる瞬間を、人生で初めて目撃しました。
「トラ・トラ・トラ!」と声がして、何事かと振り向いたら、杖をついたおじいちゃんがトラ猫を呼んでいたのでした。おじいちゃんは猫が好きで、公園にはトラ猫の他に白猫も住み着いているのだと言っていました。猫のたくさんいる田代島は海の向こうです。

 石巻まちの本棚で、山形愛書クラブ発行の「書評6 齋藤茂吉特輯号」という冊子が目に留まりました。1966年の冊子です。郷土誌なのか執筆陣は結城哀草果など山形の人がほとんどです。縁を感じたので購入しました。ものすごい価格がついていたらどうしよう、と思いましたが、原価の2.5倍でした。妥当なところです。
 辺りにはなんだかやたらトンボが飛んでいて、秋の風物詩なんて趣もないくらいにトンボまみれでした。



  海を見て過ごしただけの休日をいつかきらきら思い出そうね

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このところ、雨続きです。先日の、仕事終わりに映画館へ行こうとした日も、今日は止めておこうかな……と思うくらいのどしゃぶりでした。けれども、しばらくして雨が上がりました。傘を閉じて歩いていたところ、街の中の幾人かが空へ向かって携帯電話を掲げていました。なんだろう? と思って見上げてみると、大きな虹が出ていました。

 虹を見ると、なんだかしあわせな気分になります。その日の虹は、写真ではうまく映らないほどうっすらですが、二重の虹でした。二重の虹はダブルレインボーと呼ばれ、見た人に幸運が訪れるという言い伝えがあるのだそうです。これからどんなことが起こるかわくわくして過ごすことにしましょう。もしかしたら、風が吹けば桶屋が儲かるような仕組みで幸運が訪れるわけではなく、虹を見てうれしい気持ちで明るく過ごせること自体が幸運なのかもしれません。

 虹を見ると思い出す詩が、わたしには二つあります。一つは吉野弘「虹の足」ですが、もう一つの石垣りん「虹」を紹介したいと思います。

***


         

虹が出ると

みんなおしえたがるよ

とても大きくて

とても美しくて

すぐに消えてしまうから

ためておけないから

虹をとりこにして

ひとつ金もうけしようなんて

だれも考えないから

知らない人にまで

大急ぎで教えたがるよ

虹だ!

虹が出てるよ

にんげんて

そういうものなんだ

虹が出ないかな

まいにち

虹のようなものが

出ないかな

空に。



石垣りん『レモンとねずみ』(童話屋)

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今年も、曾祖母の手縫いの浴衣を着ました。市販の浴衣もとてもかわいいけれど、浴衣を着る機会自体がそんなにないので、着られる時に曾祖母の浴衣をできるだけ着たいな、と思っています。帯は母のお下がりです。当日はあいにくの雨でしたが、手持ちの16本骨の紅い小紋柄の傘が浴衣に合いました。
 
 酷暑です。休みだった先日の土曜日、どうにも暑いので「アイス買ってこよー」と自宅を出ましたが、八百屋さんの店頭に並んでいた桃がとても美味しそうだったので、アイスをやめてそっちにしました。市場の休みに伴い八百屋さんもお盆休みに入るため、前日の特売価格5個で200円です。手を触れないように、と注意書きがあったので、もしかしたら汁がしたたるような熟したやわらかい桃なのかな?と思っていたら、わたしの好きな硬い桃でした、うれしい。冷蔵庫で冷やしていただきました。
 アイスもかき氷も冷たくて美味しいけれど、冷やした桃やスイカ、キュウリなどの方が体の内側から冷える感じがします。

 ベランダの鉢には今年もミニトマトが出てきました、植えてないのに。苗を買って植えたのは一昨年。その一回きりだと思っていたのが、落ちた実の中の種が発芽したようで、去年も育ってくれました。そして同じように、今年も何もしていないのに芽が出て育ってくれたようです。何も世話はしていないし、特に今年は日照り続きだったのに、生命力ですね。今、黄色の花を咲かせています。これから実がなるのかな、楽しみです。
 ミニトマトが小さな実を次々に付けてゆくように、小さなしあわせの次々に生る日々でありますように。 

  愛される予感もなくてベランダの検査もしないネギを食みおり


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妹が甥っ子を連れてしばらく帰省するというので、週末だけですがわたしも実家に帰ってみました。祖母がショートステイで居なかったので全員集合とはなりませんでしたが、にぎやかなものです。
 およそ一年ぶりに会う甥っ子は3歳になったばかり、もうすっかりおしゃべりさんで、ドラマを見て覚えたらしい「90年代の3大死亡原因の1位は?」「アウス(人工妊娠中絶)」などという怖ろしい会話をくり返します。それなのに、わたしにはあいさつも返してくれなくて、人見知りしてるのかな~と思っていたら、指を差され「この人やだ」と言われてしまいました。「ママはいいけど」と付け加えられたので、妹と似ているわたしが偽ママのように気味悪く見えるのかもしれません。
 いじけたわたしは犬の散歩に農道へ行くのでした。山に向かって歩いていると、犬好きの近所のおじいちゃんが犬をわしゃわしゃしに畑から出て来てくれました。以前、短歌の故郷の描写ををステレオタイプだと評されたことがあったのですが、実際に、ステレオタイプな田舎だな、と帰省のつど感じます。山があって、田んぼや畑があって、年寄りばかりで、言葉が訛っていて、朝はニワトリが鳴いて。

 実家のわたしの部屋に、高校時代の現代国語の教科書がありました。授業では一切触れられずにスルーした、佐佐木幸綱さんによる茂吉と空穂の雪の詠い方についての評論は、今読むととてもおもしろいです。当時、国語の先生は短歌俳句を飛ばしましたが、日本史の先生が短歌好きで、日本史のテストに「大仏建立を短歌にしなさい」などというむちゃくちゃな問題が出されたりしたものです。
 他に堀辰雄「曠野」などただでさえしんどい話なのに、学習の手引きに「女」のような生き方をどう思うか、などという問いがあって刺さります。落ちぶれて相思の夫から身を引き、夫を思いつつひとところにずっと暮らし続けるも、不本意ながら郡司の息子に婢女として連れられてしまう、自分の気持ちに蓋をするゆえに落ちていってしまうの「曠野」のふしあわせな女は、わたしでした。

 そろばんの先生がわたしに会いたがっていると聞いたので、会いに行ってきました。生まれた時から知っている人ですが、実家は近所なのに3年ぶりくらいに会った気もします。人生の心配をされました。
 そろばんの先生には何番目かのお孫さんが生まれたようで、壁に命名の紙が貼ってありました。その名前が一発で読めて、漢字もわかりやすく説明もしやすい、意味も良い名前で、いいなあと思いました。甥っ子の難解な漢字で変な響きのキラキラネームとは大違いです。あの子は将来、習字の授業で自分の名前を書く時に筆で字が潰れてしまうことでしょう、かわいそうに。

 帰りは一寸亭本店の肉中華を食べました。やっぱりここの汁が好き。さっぱりしているのに卵の黄身のような味わいです。

  日の影が移りゆくたび日の影に犬はおりたり犬小屋の前


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少し前の歌会で、お母さんの絵の顔が紫色で塗られていた、という歌がありました。わたしは、お母さんの肌が実際に病気やDVで殴られた痣で紫色をしていたのではないか、これが大人だったら表面を取り繕ってきれいな色で描くけれども、子供なので見たまま正直な色で描いてしまったのではないか、という評をしました。現代社会や家庭の闇が詠われている、などと言いながら、絶対に違うだろうとも思っていました。
 わたしはもともと評が不得意で、素でとんちんかんなことを言ってしまいがちです。一方で、歌会ではいろんな意見があった方がおもしろいかな、とピエロのようにハズした読みをすることがあります。この時も一笑い取れてわたしはちょっと満足でした。

 歌会の評で、評とはまったく関係のない自分語りをする必要はないのでその場では言いませんでしたが、実際に見たままに描いたのではないか、というのは、自分の思い出から浮かんだことでした。
 子供の頃、母の日のために母の絵を描かされた際に、わたしは怒った表情の母の絵を描きました。なんの疑問もなく怒った表情の母の絵を描きました。みんなが「おかあさんありがとう」「おかあさんだいすき」と書いていたコメント欄には、「わたしのおかあさんはいつもおこっています」と書きました。
 どこかの展示場に飾られているのを、母と見に行きました。笑顔のお母さんの絵がずらりと並ぶ中で、わたしの絵は浮いていました。そして母に「なんでこんな顔に描くのか」と怒られました。

 あの頃、他のお母さん達は実際の姿も笑顔だったのでしょうか。それとも、実際には違う表情をしていたとしてもこうした場では笑顔のお母さんを描くものだと他の子供達はみんなわかっていて、わたしだけが空気を読めていなかったのでしょうか。どちらにしても、今のわたしがその展示を見たら、一人だけ怒っているお母さんの絵を見て、これを描いた子はいろいろ大丈夫なんだろうか? と心配になると思います。

  母親を泣かせるような歌ばかり詠ってしまう泣きたい夜は

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プロフィール
HN:
おとも
性別:
女性
自己紹介:
歌集『にず』(2020年/現代短歌社/本体¥2000)

連絡・問い合わせ:
tomomita★sage.ocn.ne.jp
(★を@に変えてお送りください)
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