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川が好き。山も好き。
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過日、母の付き添いで野口五郎のコンサートに行ってきました。そのひと月前にせがまれてチケットを2枚手配してあげた時はまさか自分が行くとは思っていなかったのですが、どういうわけか出発直前にわたしが行くこととなりました。こういう成り行きもまたおもしろいものです。

 野口五郎氏はそりゃあもう流石のプロフェッショナルなエンターテイナーっぷりで、とても楽しいコンサートでした。薄暗いホールの中で真っ白な衣装がライトに照らされてまばゆく映えて、高音の伸びやかな歌声も素晴らしくて。
 ご本人もファンのほとんども60代なのに、曲目が10代20代が主体のラブソングばかりなことを興味深く思いました。「青いリンゴ」「甘い生活」「私鉄沿線」などは若い頃のヒット曲だから、というのもあるけれど、近年の歌もやっぱりラブソングです。齢を重ねてもアイドルなので疑似恋愛の対象ということでしょうか。
 考えてみれば、彼に限らず、世の中の流行歌は大体がラブソングです。

 文と詠めば恋文と読まれたり、指輪と詠めば結婚指輪と読まれたり、短歌の世界でも相聞歌が求められているという空気を感じることがあります。数年前まで『短歌研究』では毎年2月号に女性歌人による相聞歌の企画がありました。新人賞の応募作に相聞歌が少なくなったことを惜しむような文章もどこかで読んだことがあります。大河ドラマ『光る君へ』では倫子さまが歌のサロンの仲間に「良い歌を詠むためには良い恋をしませんとね」と微笑んでいたし、少し前の朝ドラ『舞いあがれ!』では主人公の幼なじみの貴司くんが歌集を作る際に、編集者から相聞歌を詠むよう求められていました。

 わたしも、これまでいくつか相聞歌を詠んだことがあります。けれども、ほんとうに相聞歌だったのか。歌に嘘を詠んだということはないけれども、人としての好感を恋に、人の心離れの傷みを失恋の傷みに、盛っていなかったか。他に適当な言葉が思い当たらず「恋」と詠み込んでいた歌なども、実際は別の感情ではなかったか。

  恋人が欲しいと思っていたけれど本当に欲しいのは兄だった/田村穂隆『湖とファルセット』
  あなたとは恋じゃないから続いてく気がする テレビを見てて思った/長谷川麟『延長戦』
  私はただ結婚したいだけなのにみんな恋愛させようとする/逢坂みずき『昇華』

 自分の心に向き合った、こうした歌に誠実さを感じます。そうして、わたしは便宜上「恋」という言葉が都合がいいので、或いは相聞がウケるとわかっていて、もしかしたら相聞ではないものまで相聞のように詠んでしまったかもしれない、という自分への疑いの心が湧くのでした。

  でも恋は皆するという前提で問われる沁みるラブソングなど/塔2024年4月号

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先週末、所用で山形へ行ってきました。大雨で最上川が氾濫したとの知らせの後で心配していたのですが、当日は雨傘の要らない天気でほっとしました。最上川はいくつもの町を流れているとても長い川だから、山形で会う人会う人に雨は大丈夫だったか聞いてしまいました。

 仙台と山形とをつなぐバスの充実によるストロー効果や、郊外にイオンモールができたこともあり、七日町大通りはなんだかとても寂しくなりました。大沼もチロルももう無いのに看板は残っていて、それが余計に寂しい。街に看板を撤去する体力もないのだろうか。もっと田舎の町に生まれ育って、十代の頃は友達と遊びに行くといったら七日町大通りが定番だったので、あんなに都会に感じていた街並みがこうなるとは、と感傷的な気分になります。それでも、冬に来た時は看板のみ残してどこかへ行っていた彩画堂が、元の場所に戻って営業していたのでうれしくなりました。高校生の頃に、夜空の絵を塗るために彩画堂で買った深い青色のパステルがまだ残っています。
 夕方は連なった提灯に明かりが点っていました。花笠祭りはもうすぐです。

  最上川はわたしの町を君の町を流れゆく川 赤い橋見ゆ  『にず』


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思いがけずこの7月から環境が変わり、張り詰めたような心地で日々を送っていたのですが、やっと一区切りつき、明日は休みです。そうだ、今日は図書館まで足を伸ばしてから帰ろうと、自宅とは反対方向に定禅寺通りを歩いていると、サラリーマンらしき男性に声をかけられました。
「すみません、○○ビルはどこですか?」
「この地図のこの公園がこの先で、今歩いているのはここの通りなので、こっち側にあると思います」
「ご親切に、ありがとうございます」
 尋ねられたビルの名前は知らなかったけれども、おそらくこの辺だろうと、見せられた地図と道とを指差すと、気持ちの良い笑顔でお礼を言っていただけました。人助けができたようで、こちらもどこか清々しい。
 それにしても、週末のアフターファイブでいつにも増して人通りの多い定禅寺通りなのに。

 わたしは人に道を聞かれることが割と多いほうだと思います。つい先日も仙台駅の地下道へ向かう階段で、中高年女性に地下鉄南北線へはどう行ったらいいか聞かれ、一緒に階段を降りて案内したばかりでした。ここ数か月でも、車に乗っている人に窓から呼び止められてオフィスビルの場所を聞かれたり、スマホ片手の外国人に朝市がどこか聞かれたり、ヘルプマークを付けた人に文化センターの場所を聞かれたりしました。もともとが方向音痴で、仙台に暮らしてはいても未だに余所行き気分なので、土地勘も怪しく、充分に案内できないこともしばしばです。居住地どころか旅行先の秋田で道を聞かれたこともあるし、目的地へちゃんと着くかどきどきしながら乗っている東京の電車の中でも隣に座った人にこの電車はどこどこ駅に着くかと聞かれたこともあります。
 周りに他にも人はいるのに、さぞかしわたしが道に詳しそうに見えるのでしょう。と、いうわけではなくて、単にわたしの見た目、服装やメイクなども含めてあまり攻撃的ではなく、声を掛けるに無難そうなのではないか、と推測しています。道案内だけでなく、切符の買い方などを尋ねられたり、カメラのシャッター係を頼まれたりすることもよくあります。

 見知らぬ人から声を掛けられやすいからといって、わたしに人を惹き付ける魅力があるかというと、そういうことではありません。見知る人とはそれなりに接しているつもりがいつのまにか自分以外でグループができているようなこともあるし、また今度ねと言いながら今度がこないこともざらです。あくまでただその場きりの、旅の恥を掻き捨てる際にはちょうどいい感じのわたしなのでしょう。その場だけでない中身も磨いてゆければいいのだけれども。
 新しい場所で、新しい人間関係が始まって、いましばらくはまだ緊張の毎日です。

 次の歌会の勉強会で取り上げる歌集を読もうと思って入った図書館でしたが、課題の歌集が置いていなかったので、永田和宏さんの『あの胸が岬のように遠かった―河野裕子との青春―』を読みました。短歌の「か行」の棚にありました。

  よく道を聞かれることと愛されることは違って南天の花/塔2023年12月号

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先日は祖母の一周忌法要でした。祖母がいないことも、祖母のいない世が一年過ぎたということがまだ信じられない。どうにかこうにか生きてきました。
 お寺は近所で、家族や近しい親族、本家、分家仲間のこじんまりとした法要です。子供の頃は素直に信じてきた仏教の儀式も、死後に仏様になるというおっさまのお話も、今はなんだかファンタジーのように感じます。深く理解はできなくとも、しきたりとして続けてゆくことが大切なのかもしれません。とはいってもわたしの代にもこうしたことがなされるのかどうか。
 ご詠歌の追弔和讃の譜面を渡されて、節回しは全然わからないのだけれど、こんなところにも五七五七七の韻律が馴染んでいるのだなあとしみじみ思いました。

 法要の後に、叔母と歩いて紅花資料館に行きました。豪商だった堀米四郎兵衛の屋敷跡で、紅花商の資料や昔の生活道具が興味深いです。特にわたしが好きなのは紅花染めのお着物の展示。鮮やかな紅色のものや、鶴や松などの豪華な刺繍が施されているものなど、うっとりします。
 企画展示室では武者人形展をやっていました。豊臣秀吉や加藤清正、牛若丸と弁慶、神功皇后と竹内宿禰などがモチーフとして好まれていたのは江戸時代から戦前までなのでしょうか、現在のほぼ金太郎一強への変換が気になります。立派な人形をいくつも観ながら、人形に託されるお祝いの心や、健やかな成長への祈りが胸に沁みてきました。思えばわたしが生まれた折にも七段ものお雛様やいくつかの日本人形を親類から贈っていただいていたのに、健やかに育たずこんな仕上がりなので、なんだか申し訳なくて心ぐるしい。
 併設の物産館で、紅花染めの詰め合わせを買いました。ストールやハンカチ、手提げ袋やチャームなど。とてもすてきです。きょうだいらしき小さい子が二人、お堀の鯉にあげるえさを買っていました。叔母と紅花茶を飲みながら、わたしが父方の祖父母に贈られてその後いとこも着た七五三の着物を、今さらわたしに返されても着せるあてがないので、いとこに娘が生まれたら着せてはどうかなど、いろんな話をしました。

 晩春の山形はさくらんぼの花が満開でした。桜の花でお花見はするのに、さくらんぼの花の下にシートを敷いて愛でたりしないのがなんだか不思議なくらいの花盛りです。蜜蜂が花と花との間を飛び交っていました。犬の散歩に農道へ出れば、地域のお年寄りが畑仕事に勤しんでいる姿が見えました。挨拶をしたところ、「お姉ちゃんに散歩してもらってよがったねぇ」と犬が労わられていました。

  葬式の間を放っておかれたる山に蕨のひらきゆきたり  「斎藤茂吉記念歌集第五十集」
  

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このところずっと通勤ラッシュを外した時間帯での勤務がほとんどなのですが、先日はたまの早番で久しぶりに満員電車に乗りました。
 いつもは、立っていても本を読めるぐらいのゆとりはあるのに、さすがにぎゅうぎゅう詰めの中では両手を下に降ろさないと乗れません。A4サイズ対応の肩掛けのバッグを降ろして、持ち手を両手で持っていると、手の甲が前の人のお尻あたりに触れてしまうんじゃないかひやひやします。
「痴漢に間違われないように電車の中ではスマホを見るようにしている」と、後ろの方から男性同士の会話が聴こえました。満員電車の中でも必死に腕を上げてスマホを見ている人を、通勤のちょっとした時間くらい我慢できないなんてどんだけスマホ依存なのよと、今までは冷めた目で見ていましたが、痴漢冤罪対策でもあったのか。目からうろこが落ちたところで、斜め前でスマホを見ている男性のつき出した肘が、わたしの胸に当っているのでした。
 胸、といっても薄着の夏ならともかくまだ上着を着ていて、たまたま胸の位置なだけで別に肉の感触が伝わってはいないでしょうし、スマホを見るふりして肘で痴漢してやろうなどというつもりでもないでしょう。ま、若くもない豊満でもないわたしの体。たいした価値があるわけでもない。どうでもいい。
 どうでもいい、なんてことはないのか。

 十数年前の20代の頃のこと、葬儀で帰省した山形から仙台へ戻る電車で、わたしはボックス席の車両の端っこの、半ボックス席の窓側に座っていました。隣に、中年男性が座ってきて、コートを脱ぎだしました。それから、なにか様子が変だなと思って、気のせいではないとわかって、でも「やめてください!」などと叫んだら何かもっとひどいことをされるんじゃないかって怖くて声も出なくて、せめてもの抵抗としてわたしは持っていたバッグを相手にぎゅうぎゅう押しつけたのですが全然効かなくて、わたしは窓側にいて逃げられず、一時間ほどの乗車時間の間、電車の壁に体を張り付けてただただ耐えることしかできませんでした。
 駅について電車を降りてわーっと自宅に帰って、電話で母に電車での中のことを泣きつきました。母は、あっそ、とか、ふーん、といった感じで、無関心でした。え、それだけ?と、感じました。自分ではひどいことをされたと感じていたのに、まるでなんでもないようにあしらわれました。
 その後、自分でもあんなことはなんでもないことだと思おうとしたのか、「すっごい気持ち悪かった~」と友達に笑いながら話したこともあります。あんなに泣きそうなくらいの、恐怖の出来事だったのに。

 あの時、母に慰めてもらったり、一緒に悲しんでもらえたり、相手を怒ってもらえたりしていたら、なにか変わっていただろうかと、数年経ってから考えるようになりました。自分をもっと大切にできて、誰かに自分を大切にされることも素直に受け入れることができて、自分の人生も変わっていたんじゃないか、なんて今でも時々思い巡らせてしまって、いい年していつまでも引きずってんじゃないよ、なんでも親のせいにするんじゃないよ、もう自分の責任だよ、ってもう考えても仕方なくて、せめてこの先は自分で自分が手ひどく扱われた時にそれを当たり前だと受け入れないように、自分を大切に生きてゆければいいのかなあと、春は残業せずに過ごしているのでした。

  一人ずつ痴漢に遭ったことあるか聞いてわたしを飛ばす女子会

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ベランダの紫蘇の花が終わったので、紫蘇の実を収穫しました。今年はベランダの工事があって、鉢を一時的に日の当たらない場所に移動したりしたこともあり、菜園は不調で、紫蘇の葉もごわごわした出来でした。それでも自分で食べる分には問題なく、充分に夏の食卓をゆたかにしてくれました、紫蘇の実もボール半分ほど穫れ、塩漬けにしました。薬味や彩りに使うつもりです。
 紫蘇の実は、穂先に少し花の残る頃が収穫時です。その前の、満開の頃も可憐でとてもかわいい。けれども、紫蘇の花を花瓶に挿して飾ったり、花束にして人に贈るようなことは、よっぽどないような気がします。少なくとも、わたしはありません。思えば、ナスの紫の花、キャベツの黄色の花、サツマイモのピンクの花なども同じくです。そもそも野菜は、花を摘んだら実が生らなかったり、花が咲く前のところを食べたりします。
 花が美しいのは、受粉を手伝ってくれる虫や鳥の目を引くためだといいます。手折って飾るだけの人間には、花はもとからなんにも期待していないでしょう。それでも、咲いたところに居合わせたからにはわたしは愛でたい、と思うのでした。

  ブーケには選られぬ白い花がすき掃溜菊に蕎麦や紫蘇など

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祖母の初盆なので、お盆は有休を取って帰省してきました。もういろいろ簡略化されていて普通のお盆と変わらない感じですし、お盆にご先祖様が帰って来るというのもよく考えたらよくわからない理屈でもあるのですが、文化や信仰としては味わい深いものです。
 祖母は信心深くて、なにかにつけて「仏様に拝んでだんだ」と言うので、わたしの受験の合格もわたしの運転免許の取得もなんでもかんでも祖母が仏様に拝んだおかげに帰結してしまい、わたしががんばったのにと反発したものでした。
 ふと仏壇になにか立てかけてあるのを見つけて、手に取ってみると、それは祖母の実家のお墓の写真でした。なんでそんな写真があるのか母に聞いてみると、知らないけれど祖母が持っていたとのこと。12歳で母に死なれたと、なにかにつけて言っていた祖母。祖母のいう仏様とは、祖母の母のことだったのでしょうか。祖母の実家にはわたしのはとこが二人いましたが、二人ともお嫁に行ってしまい、祖母が拠りどころにしていたかもしれないお墓もこの先どうなるのか。家より個人を尊重する時代になって、お墓の在り方も変わってゆくのかもしれません。

 お盆の間は市場が休みで、家族は農作物に追われていました。出荷ができないのに野菜は育ち、育ち過ぎて出荷ができないので、食べたり人にあげたり保存したりそれでも間に合わないものは捨てるしかなかったりで、世の中は物価が上がってくるしんでいるのに、野菜が余って余ってしょうがないという現実もあり、変な感じでした。
 農作業の手伝いをわたしもしようかなと思っていたけれども、どうやら間に合っているようだったので、ご飯の支度をしました。ナスは昨日母が漬物にしていたから麻婆茄子にしよう、カボチャは昨日母が煮物にしていたからサラダにしよう、みたいに料理というより夏野菜をいかに消費するかの戦いでした。だしが食卓に並びがちなのも必然です。

 祖父のきょうだいの娘さん達が盆礼に来てくれました。わたしにとってはいとこおばに当たる人達ですが、決まった親戚の集まりにくる人ではないし、わたしも20年ほど実家を離れているので会う機会もほとんどなくて、先日の祖母の葬儀でぼんやり認識したぐらいでした。
 いとこおば達を車に乗せてきたその息子さんはわたしのはとこということになりますが、存在すら初めて知りました。母方だけでも祖父が7人きょうだい、祖母が5人きょうだいなので、父方の祖父母も併せてそれぞれの枝葉を思えば、わたしの知らないはとこがまだまだたくさんいるのでしょう。この初めて会ったはとこは、高齢のいとこおば一人残して婿に行って名字も変わっているということなので、ますます遠縁になっており、この先も親戚付き合いが続くのかどうか。祖母の初盆で来てくださった方々なのに、祖母とは全く血がつながっていなくて、初対面のわたしとはうっすらつながってる、というのが、当然のことなのに不思議な気がしてきます。3人は祖母の写真などを見てひとしきり談笑した後、ネギや糸カボチャをたくさん持たされて帰ってゆきました。

 帰省の最終日の朝に、回覧板がまわってきました。山の方で熊によるスモモの食害跡が発見されたので注意しましょう、と熊の対処法が書いてありました。地図を見ると、「開墾」と呼んでいたうち畑のあたりです。昔は小豆やプルーンを植えていましたが、今はその畑はほとんど何もしておらず、自生したニセアカシアが蔓延っていて少し荒れてしまっています。子供の頃に夏休みに通った野球場も近くにあります。野球だけでなく、キャンプもしたこともありました。テントを張って、ハンモックを釣って、ルールもわからないままドンジャラをやって。今はもうあそこで野球をする子供もいないし、そもそも野球ができるほど子供がいないです。
 人が降りて、熊が降りて、今こそ山が自然に返ってゆく途中なのかもしれません。

  夏の窓にホップ畑は広がりぬ 親戚もみな高卒なりき 『にず』


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春の山形はとてもよかった。満開の桜の向こうに、雪をかぶった真っ白な月山。新しく春の名前を授かったばあちゃんが見せてくれた景色だと思いました。

 祖母の葬儀から半月ほどが過ぎました。なにしろ山形へ向かうのですから、道中で「みちのくの祖母のいのちを一目見ん」みたいな歌をはからずも詠んでしまうのだろうと踏んでいたのですが、東根駅まで行く特急バスのバス停に着いたところ、乗るつもりでいた発車時刻のバスが4月のダイヤ改正で無くなっていて、あわてて隣のバス停に来た山形駅行きのバスに飛び乗り、車内ではガラケーで必死に乗り換えを調べたりして、歌を詠むどころではありませんでした。山形駅でみどりの窓口に相談して、新幹線を使えば東京から来る叔母との待ち合わせに間に合うとわかりました。まさか人生で山形-東根間を新幹線で移動する日が来ようとは。新幹線の窓からは今が盛りの霞城公園の桜が見えて、とてもきれいでした。たくさんの花見客がこちらにカメラを向け桜越しの新幹線の写真を撮っていました。
 なんとか東根駅で叔母と合流し、タクシーで実家へ。地名が田舎過ぎて伝わらず、赤い橋を目印にしてもらいなんとかたどり着きました。

 妹は七歳の甥っ子を連れてくるか迷っていたようですが、これまでのいくつかの葬儀を思い出し、連れてくることを勧めました。無邪気な子供の存在はこうした場を和ませてくれます。実際に、本家のかあちゃんが「よぐ来たなあ~」とよろこんだり、わたしも甥っ子が様々に聞いてくるのへ「天国に行くんだよ」みたいに答えているうちに、そんな楽しげな映像が浮かんできたりするのでした。それにしても、あやしい宗教ではなくいたって一般的な真言宗なのに、一連の儀式やおっさまのお話、お経、仏様の存在なども生きている人の作りごとのようだと思いました。子供に言い聞かせるように、大人も物語の中で悲しみを癒してゆくのかもしれません。
 親戚から、わたしの父は婿に来て一年足らずでわたしの祖父の喪主になったという話を聞きました。今まで続柄がよくわかっていなかった親戚も結構いたのですが、あらためて確認すると祖父の兄弟やその上の世代が婿に行った家など入婿がとても多いです。親戚だけでなく、近所でも多いようです。農村といえば男尊女卑で長男が偉い前時代的なイメージがありますが、意外に世代を遡るほど男性の方が名字を変えて婚家の農業を継いでいますし、長男が外に出て次男三男が継いでいる家もあります。
 わたしも婿を取っていればよかった、と悔やんだのは、祖母を運んだり棺を運んだりする場面で「男性の方、前に出てください」と呼ばれても、高齢男性しかいなかった時です。祖母は痩せてしまって軽いとはいえ、ここでわたしの夫がいれば病を患っている方や杖をついている方に負担をかけさせずに済んだのに。夫がいなくとも女のわたしでも役に立ちそうに思いましたが、なにか儀式的な意味があるのかもしれず前に出られませんでした。
 親戚がたくさん集まって、頭の中の家系図を書き加えながら、その細りゆくことを思いました。わたしの実家はわたしで断絶するし、本家も次で断絶、祖母の実家も、父の実家も、あの家もこの家もいずれ断絶します。家のために子を生むわけではないけれど、先祖代々の田んぼや畑を次世代に繋いでゆけないことが、わたしはとてもくるしい。農作業の合間に肥やし袋を尻に敷いておにぎりを食べるような時間を、自分の子や孫とも過ごしてみたかった気もしてくるのです。わたしがなりふり構わずそうなるように突き進んでいればそういう未来もあったかもしれず、結局は自分が選んできた今なのかもしれません。

 告別式で親類の挨拶などがあれば、祖母との仲からして頼まれるのはわたしだろうという自負があったのですが、泣いて泣いてとてもそんな状態ではないだろうと見越した母や伯母が、挨拶の代わりにわたしの歌集から数首を司会の方に朗読してもらうように手筈をつけていました。セレモニーホールの待合室で葬儀社の方と漢字の読み方などの打ち合わせをしていて、「タイトルがなんのことだかわからなかったけれど、この歌(表題歌)を読んでわかりました」なんていう会話の後、「この本、買えますか?」と思わぬ申し出があり、そのまま差し上げました。
 司会の女性は、たんたんとしていると評されがちな作風のわたしの歌を、情感たっぷりに読んでくださいました。そして「にず」の訛りのアクセントがネイティブで完ペキです。祖母の歌は思ったより少なくて、三首選ぶのに迷いませんでした。これからは、どんなに詠んでも挽歌です。元気なうちに元気な祖母をもっと詠んでおけばよかったと思いました。

 いい時に死んでくれた、と叔母はくり返しました。果樹の仕事がひと段落した時期でちょうどよかったというのです。祖母には果てしなく長生きしてほしかったわたしには、叔母の言葉がなんだか無神経に感じたりもしたのですが、わたしもわたしで来月の歌集を読む会の日にそうなったらどうしようと相当に心配していたので、時期の被らなかった安堵感は確かにあったのでした。また、結社誌の詠草の取りまとめ作業のある20日前後に自宅を数日離れるのも厳しかったので、なんでもない日で、なんだか祖母に渾身の力で空気を読んでもらったようです。尤も、母は予定していた一泊旅行が取りやめになり、祖母に呼ばれて旅行がなくなるのはこれで3度目らしいのでした。
 コロナ禍も落ち着いて遠方の叔母や妹が来れて、とはいえ通夜振る舞いなどの会食は弁当を持たせてお帰りいただくことで縮小できて、いつかの真冬の雪の葬儀に比べたらよっぽど体も楽で、天気が良くて、花が咲いていて、充分に長生きして、葬式代もちゃんと遺して。なんて見事な仕舞いっぷりでしょう。でも、おしゃべりでにぎやかな祖母のもういない世の中を生きてゆくのは寂しいです。

 くり返し「寂しい人生だ」とつぶやけば祖母に「楽しい」と訂正される


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仕事帰りによく寄っていた書店が一昨年の夏に閉店してから、本屋が遠くなったように感じています。少し足を伸ばせば別な書店はいくつかあるのだけれど、仕事帰りのくたびれた夜に足を伸ばすのは少しの距離でもおっくうで、書店への頻度は今では月に一度くらいになりました。代わりにネットショップを活用、というようなこともなくて、遠くなったのは心だ、と感じています。本が嫌いになったわけではないのに。なにかしら常に本を読んでいたいのに。尤も、塔の結社誌を読み切るだけで時間はかかるし、昔買った小説などはほとんど内容を忘れてしまっていて再読したら新鮮だったりして、もともと新刊を追っかけるタイプではなかったこともあり、新しく本を買わずとも間に合ってしまっているところもあるのかもしれません。

 早番の仕事帰りや遅番の仕事前によく寄っていたコーヒー店も一年前に閉店してしまいました。コーヒーを飲みながら本を読んだり、携帯電話や何かの余白に書き散らかした短歌をノートにまとめたりするのは大切な時間でした。もちろん、それほど足を伸ばさなくてもあちこちにコーヒー店はあって、なんなら職場のビルのテナントにも入っています。自分と同じような人があちこちの席でそこそこ長居していて自分がその他大勢でいられるような居心地はなくとも、しょうがない。コーヒーを飲みながら読書や物書きをすることが好きなのは変わらないのだし。

 震災の少し後あたり、この先ああなったらどうしようこうなったらどうしようと未来を悲観して不安になって、日常生活に支障が出るほどに不安感に押し潰されてしまって、不安を落ち着かせる薬などを処方してもらっていた頃がありました。もう服用をやめて数年経ちます。
 ふと、今の自分が、あの頃の自分が恐れていた想像そのままを生きてしまっていることに気づきました。こうなりたくない、と恐れすぎて強く思うあまり、それ以外の未来を思い描けずに、無意識にそうなるように生きてきてしまったのでしょうか。あがいてもあがいてもこっちに戻ってきてしまい、この頃はもうあがく気力もなくて。
 こうなりたくない未来を現実として迎えてしまったのに、あの頃に服していたような薬も必要なく暮らしてゆけています。こんな現実を乗り越えられるほど強くなったわけではないのに、不思議です。不安な気持ちに蓋でもできているのでしょうか。昔より鈍感に、わたしが変わったのでしょうか。考えてもどうせわからないので、とりあえずこのまま生きてみます、できれば少しあがきつつ。
 
  服用の薬の欄は空白になりたり瓦礫のように十年

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仕事の帰り、灯りの少ない夜の道を歩いていたら、背後からハアハアと息遣いが聴こえ、それは次第に大きくなってゆきました。後ろに人がいる、というだけで不安な気持ちが湧き、背中が強張ります。このあたりの道では数年前に通り魔事件が起き、まだ犯人が捕まっていないのです。あの犯人がまだ潜んでいるかもしれない……とは思いませんが、毎日のようになにかと物騒なニュースはあり、どうしたって夜道は怖い。わたしは若い女性じゃないしお金持ちでもないから大丈夫、と思いたいけれども、「誰でもよかった」と言う動機はよく聞くし、夜の闇の中では若くないこともボロを着ていることもよくわからないでしょう。
 早足で逃げようか、つけられているんじゃないか、しばらくの逡巡ののちに思いきって振り返った瞬間、ジョギング中の男性がわたしを追い越してゆきました。まっすぐに前を向いて走って、危険な人でもなんでもありませんでした。ああ、よかった。恐怖から解き放たれて安堵しつつ、何の罪もない人を疑ったり怖がったりして、自分の被害者意識の大きさを申し訳なくなります。

 「セールスなら結構です!」と、仕事でかけた電話を冒頭から敵意丸出しでガチャ切りされることがあります。社名を名乗り、用件を伝えてセールスではないことを説明しても、嘘なんじゃないか、と信じてもらえず刺々しい言葉を投げつけられることも少なくありません。そのような対応になってしまうほどに、しつこい営業の電話や誰かのなりすましのような電話がかかってきているのでしょうか。あなたもそうなんでしょう、と疑う心情は理解できるし、しょうがないことなのかなあと割り切るしかありません。わたしにも副業でマンションを買わないかとか、20万払って短歌を新聞に載せないかとかいう不要な電話がかかってきます。あやしまれてしまうのは仕方ない。変な電話と一緒にしないで、なんて憤る気にもなれず、そういうものだ、と慣れてしまっています。

 先日、塔短歌会のオンライン新年会に参加しました。懇親会のような場で、詠草の送付の際に速達は控えていただければありがたい、という話になりました。速達だと郵便受けへの配達ではなく、郵便屋さんが玄関の呼び鈴を鳴らして手渡しになることがあり、受け取りの手間が増えたりするのです。そもそも事前連絡なしの訪問なんて不要な訪問営業や宗教の勧誘がほとんどだし、強盗事件も怖いし、実家や通販など宅配便などの心当たりがない時は呼び鈴が鳴っても用心して留守のふりをすることが多くなりました。ほんとうに大事な用なら不在票が入るので、再配達をお願いできます。不在票ではなくて地球の滅亡や救世主の冊子が入っていた時は、やっぱり出なくて良かったと安堵するのでした。

 警戒したり、されたり、いつのまにかそうしたことが常になってしまって。人を疑うより、信じて生きてゆければいいのだけど。

  刑務所の方へ沈んでゆく夕陽とても大きなとても真赤な

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プロフィール
HN:
おとも
性別:
女性
自己紹介:
歌集『にず』(2020年/現代短歌社/本体¥2000)

連絡・問い合わせ:
tomomita★sage.ocn.ne.jp
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