川が好き。山も好き。
祖母の三回忌で実家に帰ると、玄関に小松菜の花が飾ってありました。本家で収穫しそびれて花が咲いてしまったのを、畑からもらってきて飾ったのだそうです。本家のかあちゃんが自分の家でも飾ると言ったので、本家の分も切ってあげたのだとか。他にも本家のかあちゃんを病院に連れて行ったりなどずい分お世話しているようで、なんだか母から本家の話をよく聞くようになりました。
本家、分家なんていっても枝分かれしたのが祖父の祖父の頃らしく、血縁的にはもう全然遠縁なのですが、家が隣なので親戚付き合いだけでなくご近所付き合いのようなものもあるのでしょう。わたしは祖母が亡くなってから、本家のかあちゃんを大切にしたい気持ちが深まったので、母も似たような感じなのかもしれません。
祖母の三回忌とまとめて、大伯父の三十三回忌と大伯母の二十七回忌も執り行いました。一人ずつやってたらきりがないとはいえ、大伯母は秋、大伯父は冬だったのに、ついでに、みたいな感じでいいのかなあと思わないでもないけれども。これで当分はこうした仏事も一区切りといったところでしょうか。もういろいろ簡略化されていて、お寺のおっさますら当日は用事が入ったといって前日にお経をあげにきたくらいです。戒名も、よくよくわからないしきたりだけれども、3つの戒名を聞いてどれが誰だかわかるのが興味深いです。田舎の近所付き合いの濃さから、人柄を汲んだ名付けをしてもらえているのでしょうか。お寺を歩けば、江戸時代の年号と戒名の書かれている墓誌もあり、脈々と続く人の営みを思います。
親戚の集まる機会では、昔は最上川に橋が架かってなかったので渡し舟で祖母が実家に帰っていたとか、その時に「おーい」と船頭を呼んだとか、牛を飼っていて育てて売っていたとか、葉タバコを作っていてうちは畑が小さいので量より質で力を入れていたとか、収穫した葉タバコをうちは機械ではなく手作業で縄で括っていたので手が真っ黒になったとか、昔の話を聞くのがおもしろいです。わたしが小さい頃に大伯父がよくわたしを連れて歩き、本家にはわたしの茶碗まであった、なんていう話は初めて聞きました。抱っこされて行ったんだろうか、手をつないで行ったんだろうか。さっぱり記憶にないし、大伯父に可愛がられていた覚えもないので、なんだか不思議な感じです。大伯父、大伯母なんていっても生前はじいちゃん、ばあちゃんと呼んでいました。特にわたしはばあちゃん子でした。母方の祖母、父方の祖母と、大伯母と、わたしには3人のばあちゃんがいて、3人とも好きでした。
大伯母は悲しいこともあった人だけれども、子を産まずして孫を持てたなんていいなあ、なんてこの頃はうらやましくも思います。
今さらに迷信だとは思われず年寄りっ子の三文安は/塔2014年9月号
本家、分家なんていっても枝分かれしたのが祖父の祖父の頃らしく、血縁的にはもう全然遠縁なのですが、家が隣なので親戚付き合いだけでなくご近所付き合いのようなものもあるのでしょう。わたしは祖母が亡くなってから、本家のかあちゃんを大切にしたい気持ちが深まったので、母も似たような感じなのかもしれません。
祖母の三回忌とまとめて、大伯父の三十三回忌と大伯母の二十七回忌も執り行いました。一人ずつやってたらきりがないとはいえ、大伯母は秋、大伯父は冬だったのに、ついでに、みたいな感じでいいのかなあと思わないでもないけれども。これで当分はこうした仏事も一区切りといったところでしょうか。もういろいろ簡略化されていて、お寺のおっさますら当日は用事が入ったといって前日にお経をあげにきたくらいです。戒名も、よくよくわからないしきたりだけれども、3つの戒名を聞いてどれが誰だかわかるのが興味深いです。田舎の近所付き合いの濃さから、人柄を汲んだ名付けをしてもらえているのでしょうか。お寺を歩けば、江戸時代の年号と戒名の書かれている墓誌もあり、脈々と続く人の営みを思います。
親戚の集まる機会では、昔は最上川に橋が架かってなかったので渡し舟で祖母が実家に帰っていたとか、その時に「おーい」と船頭を呼んだとか、牛を飼っていて育てて売っていたとか、葉タバコを作っていてうちは畑が小さいので量より質で力を入れていたとか、収穫した葉タバコをうちは機械ではなく手作業で縄で括っていたので手が真っ黒になったとか、昔の話を聞くのがおもしろいです。わたしが小さい頃に大伯父がよくわたしを連れて歩き、本家にはわたしの茶碗まであった、なんていう話は初めて聞きました。抱っこされて行ったんだろうか、手をつないで行ったんだろうか。さっぱり記憶にないし、大伯父に可愛がられていた覚えもないので、なんだか不思議な感じです。大伯父、大伯母なんていっても生前はじいちゃん、ばあちゃんと呼んでいました。特にわたしはばあちゃん子でした。母方の祖母、父方の祖母と、大伯母と、わたしには3人のばあちゃんがいて、3人とも好きでした。
大伯母は悲しいこともあった人だけれども、子を産まずして孫を持てたなんていいなあ、なんてこの頃はうらやましくも思います。
今さらに迷信だとは思われず年寄りっ子の三文安は/塔2014年9月号
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4月の初旬に、今まで使っていたパソコンが故障してしまいました。画面が突然真っ暗になり操作が何もできない状態で、メーカーのサポートも終了している機種のため修理もできないとのこと。腹をくくって家電量販店へ赴き新しいパソコンを購入するも、自宅のネット環境が旧くて何かしら整えないとせっかく買ったパソコンも動かないと判明。回線の工事をしてもらうまで、しばらくアナログな日々を過ごしました。
わたしは自分ではそんなにインターネットにどっぷりといった意識はなかったのですが、こうしてネットに長く繋がらないでいると、いかにネットありきの暮らしになってしまっていたかを実感させられました。仕事の給与だって今やWEB明細だし、電車やバスの時刻表なども必要な時にネットで調べていて、紙では限られた路線のものしか持っていませんでした。パソコン故障の直前に宿泊先をネットで予約していましたが、一歩遅ければガイドブックを買って載っている宿に電話で交渉しなければいけなかったでしょう。今週はどんな映画を上映してるかとか鯵のレシピないかとか日常のちょっとした調べ物もGoogle検索に頼っていたし、それこそ今回みたいなパソコンの不調も何度解決できたことか。とりあえず取扱説明書に書いてあることを試して、どうにもならずコールセンターに電話したところでサポートサイト誘導のアナウンスが流れたりして、そのネットが繋がらないのに、って困ったものでした。
ほんとうに、いろんなことがすっかりペーパレス化できていて、便利にな世の中になったものです。だからこそ、頼りきらなくても大丈夫なようにしておきたいとも思いました。
WordやExcelなどが使えなくなったのも痛いことでした。原稿用紙に手書きして、郵便で送って、ということができないわけれはないけれど、Wordで原稿作ってメールに添付での提出に慣れきってしまっていて。
Wordだけなら昔のパソコンでいけないか、メールに添付はできなくとも、USBメモリに保存してコンビニで印刷して郵送ができないかと期待して、20年もののWindowsXPを引っ張り出して電源を入れてみました。イルカの出てくる旧バージョンではありますがWordは起動できたものの、どうにもUSBメモリへの保存はできないようでした。それでも、本番原稿前の下書きの感覚でも、キーボードで文章を打つのはなにか落ち着くものがありました。手書きだと書き損じた時が大変なので書き始める前にプロットを作ったりするか、勢いに任せて書いては書き直し書いては書き直しを繰り返すかだけれども、がしがし編集できるテキストエディタの気安さにわたしはずいぶん救われていたのだなあ。原稿の一つはこうして作った草稿を元に、携帯電話の本文メールにベタ打ちで対応いただけました。
不便には感じつつも、ネットやパソコンの作業から離れている時間には快さもありました。うっかりネット上の読み物を読み耽ってしまい何時間も経ってしまった! ということがないのがよかったです。情報が遮断されたような不安や寂しさはありましたが、その感覚も大切に覚えておきたいです。いつだったかの地震でばさばさ床に落ちてきた本を、気力がなくてずっとちゃんと片付けられなかったのですが、工事が入るために片付けられたのもすっきりしました。しかも契約を見直したら通信費も安くなり、今まで何の不便もないからとずっと今より旧式の設備に余分にお金を払っていたなんて、なんてもったいないことをしていたのでしょう。こんなふうに自分がめんどくさがって先延ばしにしていたことでのちのちズドンときたり損したりしていることが、人生にもきっといっぱいあるのでしょう。
この機会に得られたいくつもの気づきを、今後の暮らしや作品へも活かしてゆけたらなと思います。
次にパソコンを買うのはWindows10のサポート終了の頃のつもりでいたので、急遽必要に迫られたことや、予算より大きな出費が精神的な負担になり、一時は食欲が落ちたりしました。前にパソコンを買ったときはどうだったんだっけ、と日記ノートを読み返すと、今回と違って機種を選ぶゆとりがあったり、選ぶ際もそんなに迷いもなかったり、予算よりだいぶ浮いたりで、あっさりしたものでした。
元気です。元気な人に見えるよう振る舞えるほどには元気です。/塔2020年1月号
わたしは自分ではそんなにインターネットにどっぷりといった意識はなかったのですが、こうしてネットに長く繋がらないでいると、いかにネットありきの暮らしになってしまっていたかを実感させられました。仕事の給与だって今やWEB明細だし、電車やバスの時刻表なども必要な時にネットで調べていて、紙では限られた路線のものしか持っていませんでした。パソコン故障の直前に宿泊先をネットで予約していましたが、一歩遅ければガイドブックを買って載っている宿に電話で交渉しなければいけなかったでしょう。今週はどんな映画を上映してるかとか鯵のレシピないかとか日常のちょっとした調べ物もGoogle検索に頼っていたし、それこそ今回みたいなパソコンの不調も何度解決できたことか。とりあえず取扱説明書に書いてあることを試して、どうにもならずコールセンターに電話したところでサポートサイト誘導のアナウンスが流れたりして、そのネットが繋がらないのに、って困ったものでした。
ほんとうに、いろんなことがすっかりペーパレス化できていて、便利にな世の中になったものです。だからこそ、頼りきらなくても大丈夫なようにしておきたいとも思いました。
WordやExcelなどが使えなくなったのも痛いことでした。原稿用紙に手書きして、郵便で送って、ということができないわけれはないけれど、Wordで原稿作ってメールに添付での提出に慣れきってしまっていて。
Wordだけなら昔のパソコンでいけないか、メールに添付はできなくとも、USBメモリに保存してコンビニで印刷して郵送ができないかと期待して、20年もののWindowsXPを引っ張り出して電源を入れてみました。イルカの出てくる旧バージョンではありますがWordは起動できたものの、どうにもUSBメモリへの保存はできないようでした。それでも、本番原稿前の下書きの感覚でも、キーボードで文章を打つのはなにか落ち着くものがありました。手書きだと書き損じた時が大変なので書き始める前にプロットを作ったりするか、勢いに任せて書いては書き直し書いては書き直しを繰り返すかだけれども、がしがし編集できるテキストエディタの気安さにわたしはずいぶん救われていたのだなあ。原稿の一つはこうして作った草稿を元に、携帯電話の本文メールにベタ打ちで対応いただけました。
不便には感じつつも、ネットやパソコンの作業から離れている時間には快さもありました。うっかりネット上の読み物を読み耽ってしまい何時間も経ってしまった! ということがないのがよかったです。情報が遮断されたような不安や寂しさはありましたが、その感覚も大切に覚えておきたいです。いつだったかの地震でばさばさ床に落ちてきた本を、気力がなくてずっとちゃんと片付けられなかったのですが、工事が入るために片付けられたのもすっきりしました。しかも契約を見直したら通信費も安くなり、今まで何の不便もないからとずっと今より旧式の設備に余分にお金を払っていたなんて、なんてもったいないことをしていたのでしょう。こんなふうに自分がめんどくさがって先延ばしにしていたことでのちのちズドンときたり損したりしていることが、人生にもきっといっぱいあるのでしょう。
この機会に得られたいくつもの気づきを、今後の暮らしや作品へも活かしてゆけたらなと思います。
次にパソコンを買うのはWindows10のサポート終了の頃のつもりでいたので、急遽必要に迫られたことや、予算より大きな出費が精神的な負担になり、一時は食欲が落ちたりしました。前にパソコンを買ったときはどうだったんだっけ、と日記ノートを読み返すと、今回と違って機種を選ぶゆとりがあったり、選ぶ際もそんなに迷いもなかったり、予算よりだいぶ浮いたりで、あっさりしたものでした。
”2016年12月4日(日)あの日思いを馳せた、<次にパソコンを買う時のわたし>が、今のわたしで、なんだか泣きたいような気持ちになりました。
休み。パソコン届く。(中略)前のパソコンを買ったのが10年前で、10年を思う。相変わらずわたしはこの部屋で一人暮らしで、次にパソコンを買う時のわたしはどんなふうに暮らしているだろう。”
元気です。元気な人に見えるよう振る舞えるほどには元気です。/塔2020年1月号
叔母から唐突にスマートレターが届きました。もそもそと開けてみると、大國魂神社の白い紙袋が入っています。その中から縁結びの御守りが出てきたので、思わず「あははっ」と笑ってしまいました。え、まだわたしこういうの願われる感じ?
同封されていた叔母からのお手紙には、家族で初詣でに行ったというような近況と、わたしの母から短歌のことを聞いたとのことで「漠然と、いろんな活躍にご縁があるように」と書いてあります。ああ、そういうご縁ね。去年は急に仕事が無くなったりもしたし、きっとそんなことも聞いているんでしょう。
いやいや、そんなことは表向きの口実で、実際は普通に御守りのご利益通りの婚姻を願われているのでは。直截にそんなことを言うと差し障りがあると思ってやんわりぼやかしているのでは。別に今さらなにか言われたところでなんとも思わないんだけどな。諸々のわだかまりのあった母ならともかく、叔母だし。変に裏の裏まで気を遣われているのだろうか。それとも、考え過ぎだろうか。
どんなご縁にしろ、良縁が結ばれて困ることは全然ないので、御守りはありがたく頂戴してお礼を伝えました。しじみ貝の小さな御守りはかわいくて、揺れるたびに鈴がなります。楽しい音です。
奥底にいつか仕舞いし縁結びの御守りのこと忘れていたり/現代短歌2021年5月号
同封されていた叔母からのお手紙には、家族で初詣でに行ったというような近況と、わたしの母から短歌のことを聞いたとのことで「漠然と、いろんな活躍にご縁があるように」と書いてあります。ああ、そういうご縁ね。去年は急に仕事が無くなったりもしたし、きっとそんなことも聞いているんでしょう。
いやいや、そんなことは表向きの口実で、実際は普通に御守りのご利益通りの婚姻を願われているのでは。直截にそんなことを言うと差し障りがあると思ってやんわりぼやかしているのでは。別に今さらなにか言われたところでなんとも思わないんだけどな。諸々のわだかまりのあった母ならともかく、叔母だし。変に裏の裏まで気を遣われているのだろうか。それとも、考え過ぎだろうか。
どんなご縁にしろ、良縁が結ばれて困ることは全然ないので、御守りはありがたく頂戴してお礼を伝えました。しじみ貝の小さな御守りはかわいくて、揺れるたびに鈴がなります。楽しい音です。
奥底にいつか仕舞いし縁結びの御守りのこと忘れていたり/現代短歌2021年5月号
過日、母の付き添いで野口五郎のコンサートに行ってきました。そのひと月前にせがまれてチケットを2枚手配してあげた時はまさか自分が行くとは思っていなかったのですが、どういうわけか出発直前にわたしが行くこととなりました。こういう成り行きもまたおもしろいものです。
野口五郎氏はそりゃあもう流石のプロフェッショナルなエンターテイナーっぷりで、とても楽しいコンサートでした。薄暗いホールの中で真っ白な衣装がライトに照らされてまばゆく映えて、高音の伸びやかな歌声も素晴らしくて。
ご本人もファンのほとんども60代なのに、曲目が10代20代が主体のラブソングばかりなことを興味深く思いました。「青いリンゴ」「甘い生活」「私鉄沿線」などは若い頃のヒット曲だから、というのもあるけれど、近年の歌もやっぱりラブソングです。齢を重ねてもアイドルなので疑似恋愛の対象ということでしょうか。
考えてみれば、彼に限らず、世の中の流行歌は大体がラブソングです。
文と詠めば恋文と読まれたり、指輪と詠めば結婚指輪と読まれたり、短歌の世界でも相聞歌が求められているという空気を感じることがあります。数年前まで『短歌研究』では毎年2月号に女性歌人による相聞歌の企画がありました。新人賞の応募作に相聞歌が少なくなったことを惜しむような文章もどこかで読んだことがあります。大河ドラマ『光る君へ』では倫子さまが歌のサロンの仲間に「良い歌を詠むためには良い恋をしませんとね」と微笑んでいたし、少し前の朝ドラ『舞いあがれ!』では主人公の幼なじみの貴司くんが歌集を作る際に、編集者から相聞歌を詠むよう求められていました。
わたしも、これまでいくつか相聞歌を詠んだことがあります。けれども、ほんとうに相聞歌だったのか。歌に嘘を詠んだということはないけれども、人としての好感を恋に、人の心離れの傷みを失恋の傷みに、盛っていなかったか。他に適当な言葉が思い当たらず「恋」と詠み込んでいた歌なども、実際は別の感情ではなかったか。
恋人が欲しいと思っていたけれど本当に欲しいのは兄だった/田村穂隆『湖とファルセット』
あなたとは恋じゃないから続いてく気がする テレビを見てて思った/長谷川麟『延長戦』
私はただ結婚したいだけなのにみんな恋愛させようとする/逢坂みずき『昇華』
自分の心に向き合った、こうした歌に誠実さを感じます。そうして、わたしは便宜上「恋」という言葉が都合がいいので、或いは相聞がウケるとわかっていて、もしかしたら相聞ではないものまで相聞のように詠んでしまったかもしれない、という自分への疑いの心が湧くのでした。
でも恋は皆するという前提で問われる沁みるラブソングなど/塔2024年4月号
野口五郎氏はそりゃあもう流石のプロフェッショナルなエンターテイナーっぷりで、とても楽しいコンサートでした。薄暗いホールの中で真っ白な衣装がライトに照らされてまばゆく映えて、高音の伸びやかな歌声も素晴らしくて。
ご本人もファンのほとんども60代なのに、曲目が10代20代が主体のラブソングばかりなことを興味深く思いました。「青いリンゴ」「甘い生活」「私鉄沿線」などは若い頃のヒット曲だから、というのもあるけれど、近年の歌もやっぱりラブソングです。齢を重ねてもアイドルなので疑似恋愛の対象ということでしょうか。
考えてみれば、彼に限らず、世の中の流行歌は大体がラブソングです。
文と詠めば恋文と読まれたり、指輪と詠めば結婚指輪と読まれたり、短歌の世界でも相聞歌が求められているという空気を感じることがあります。数年前まで『短歌研究』では毎年2月号に女性歌人による相聞歌の企画がありました。新人賞の応募作に相聞歌が少なくなったことを惜しむような文章もどこかで読んだことがあります。大河ドラマ『光る君へ』では倫子さまが歌のサロンの仲間に「良い歌を詠むためには良い恋をしませんとね」と微笑んでいたし、少し前の朝ドラ『舞いあがれ!』では主人公の幼なじみの貴司くんが歌集を作る際に、編集者から相聞歌を詠むよう求められていました。
わたしも、これまでいくつか相聞歌を詠んだことがあります。けれども、ほんとうに相聞歌だったのか。歌に嘘を詠んだということはないけれども、人としての好感を恋に、人の心離れの傷みを失恋の傷みに、盛っていなかったか。他に適当な言葉が思い当たらず「恋」と詠み込んでいた歌なども、実際は別の感情ではなかったか。
恋人が欲しいと思っていたけれど本当に欲しいのは兄だった/田村穂隆『湖とファルセット』
あなたとは恋じゃないから続いてく気がする テレビを見てて思った/長谷川麟『延長戦』
私はただ結婚したいだけなのにみんな恋愛させようとする/逢坂みずき『昇華』
自分の心に向き合った、こうした歌に誠実さを感じます。そうして、わたしは便宜上「恋」という言葉が都合がいいので、或いは相聞がウケるとわかっていて、もしかしたら相聞ではないものまで相聞のように詠んでしまったかもしれない、という自分への疑いの心が湧くのでした。
でも恋は皆するという前提で問われる沁みるラブソングなど/塔2024年4月号
先週末、所用で山形へ行ってきました。大雨で最上川が氾濫したとの知らせの後で心配していたのですが、当日は雨傘の要らない天気でほっとしました。最上川はいくつもの町を流れているとても長い川だから、山形で会う人会う人に雨は大丈夫だったか聞いてしまいました。
仙台と山形とをつなぐバスの充実によるストロー効果や、郊外にイオンモールができたこともあり、七日町大通りはなんだかとても寂しくなりました。大沼もチロルももう無いのに看板は残っていて、それが余計に寂しい。街に看板を撤去する体力もないのだろうか。もっと田舎の町に生まれ育って、十代の頃は友達と遊びに行くといったら七日町大通りが定番だったので、あんなに都会に感じていた街並みがこうなるとは、と感傷的な気分になります。それでも、冬に来た時は看板のみ残してどこかへ行っていた彩画堂が、元の場所に戻って営業していたのでうれしくなりました。高校生の頃に、夜空の絵を塗るために彩画堂で買った深い青色のパステルがまだ残っています。
夕方は連なった提灯に明かりが点っていました。花笠祭りはもうすぐです。
最上川はわたしの町を君の町を流れゆく川 赤い橋見ゆ 『にず』
仙台と山形とをつなぐバスの充実によるストロー効果や、郊外にイオンモールができたこともあり、七日町大通りはなんだかとても寂しくなりました。大沼もチロルももう無いのに看板は残っていて、それが余計に寂しい。街に看板を撤去する体力もないのだろうか。もっと田舎の町に生まれ育って、十代の頃は友達と遊びに行くといったら七日町大通りが定番だったので、あんなに都会に感じていた街並みがこうなるとは、と感傷的な気分になります。それでも、冬に来た時は看板のみ残してどこかへ行っていた彩画堂が、元の場所に戻って営業していたのでうれしくなりました。高校生の頃に、夜空の絵を塗るために彩画堂で買った深い青色のパステルがまだ残っています。
夕方は連なった提灯に明かりが点っていました。花笠祭りはもうすぐです。
最上川はわたしの町を君の町を流れゆく川 赤い橋見ゆ 『にず』
思いがけずこの7月から環境が変わり、張り詰めたような心地で日々を送っていたのですが、やっと一区切りつき、明日は休みです。そうだ、今日は図書館まで足を伸ばしてから帰ろうと、自宅とは反対方向に定禅寺通りを歩いていると、サラリーマンらしき男性に声をかけられました。
「すみません、○○ビルはどこですか?」
「この地図のこの公園がこの先で、今歩いているのはここの通りなので、こっち側にあると思います」
「ご親切に、ありがとうございます」
尋ねられたビルの名前は知らなかったけれども、おそらくこの辺だろうと、見せられた地図と道とを指差すと、気持ちの良い笑顔でお礼を言っていただけました。人助けができたようで、こちらもどこか清々しい。
それにしても、週末のアフターファイブでいつにも増して人通りの多い定禅寺通りなのに。
わたしは人に道を聞かれることが割と多いほうだと思います。つい先日も仙台駅の地下道へ向かう階段で、中高年女性に地下鉄南北線へはどう行ったらいいか聞かれ、一緒に階段を降りて案内したばかりでした。ここ数か月でも、車に乗っている人に窓から呼び止められてオフィスビルの場所を聞かれたり、スマホ片手の外国人に朝市がどこか聞かれたり、ヘルプマークを付けた人に文化センターの場所を聞かれたりしました。もともとが方向音痴で、仙台に暮らしてはいても未だに余所行き気分なので、土地勘も怪しく、充分に案内できないこともしばしばです。居住地どころか旅行先の秋田で道を聞かれたこともあるし、目的地へちゃんと着くかどきどきしながら乗っている東京の電車の中でも隣に座った人にこの電車はどこどこ駅に着くかと聞かれたこともあります。
周りに他にも人はいるのに、さぞかしわたしが道に詳しそうに見えるのでしょう。と、いうわけではなくて、単にわたしの見た目、服装やメイクなども含めてあまり攻撃的ではなく、声を掛けるに無難そうなのではないか、と推測しています。道案内だけでなく、切符の買い方などを尋ねられたり、カメラのシャッター係を頼まれたりすることもよくあります。
見知らぬ人から声を掛けられやすいからといって、わたしに人を惹き付ける魅力があるかというと、そういうことではありません。見知る人とはそれなりに接しているつもりがいつのまにか自分以外でグループができているようなこともあるし、また今度ねと言いながら今度がこないこともざらです。あくまでただその場きりの、旅の恥を掻き捨てる際にはちょうどいい感じのわたしなのでしょう。その場だけでない中身も磨いてゆければいいのだけれども。
新しい場所で、新しい人間関係が始まって、いましばらくはまだ緊張の毎日です。
次の歌会の勉強会で取り上げる歌集を読もうと思って入った図書館でしたが、課題の歌集が置いていなかったので、永田和宏さんの『あの胸が岬のように遠かった―河野裕子との青春―』を読みました。短歌の「か行」の棚にありました。
よく道を聞かれることと愛されることは違って南天の花/塔2023年12月号
「すみません、○○ビルはどこですか?」
「この地図のこの公園がこの先で、今歩いているのはここの通りなので、こっち側にあると思います」
「ご親切に、ありがとうございます」
尋ねられたビルの名前は知らなかったけれども、おそらくこの辺だろうと、見せられた地図と道とを指差すと、気持ちの良い笑顔でお礼を言っていただけました。人助けができたようで、こちらもどこか清々しい。
それにしても、週末のアフターファイブでいつにも増して人通りの多い定禅寺通りなのに。
わたしは人に道を聞かれることが割と多いほうだと思います。つい先日も仙台駅の地下道へ向かう階段で、中高年女性に地下鉄南北線へはどう行ったらいいか聞かれ、一緒に階段を降りて案内したばかりでした。ここ数か月でも、車に乗っている人に窓から呼び止められてオフィスビルの場所を聞かれたり、スマホ片手の外国人に朝市がどこか聞かれたり、ヘルプマークを付けた人に文化センターの場所を聞かれたりしました。もともとが方向音痴で、仙台に暮らしてはいても未だに余所行き気分なので、土地勘も怪しく、充分に案内できないこともしばしばです。居住地どころか旅行先の秋田で道を聞かれたこともあるし、目的地へちゃんと着くかどきどきしながら乗っている東京の電車の中でも隣に座った人にこの電車はどこどこ駅に着くかと聞かれたこともあります。
周りに他にも人はいるのに、さぞかしわたしが道に詳しそうに見えるのでしょう。と、いうわけではなくて、単にわたしの見た目、服装やメイクなども含めてあまり攻撃的ではなく、声を掛けるに無難そうなのではないか、と推測しています。道案内だけでなく、切符の買い方などを尋ねられたり、カメラのシャッター係を頼まれたりすることもよくあります。
見知らぬ人から声を掛けられやすいからといって、わたしに人を惹き付ける魅力があるかというと、そういうことではありません。見知る人とはそれなりに接しているつもりがいつのまにか自分以外でグループができているようなこともあるし、また今度ねと言いながら今度がこないこともざらです。あくまでただその場きりの、旅の恥を掻き捨てる際にはちょうどいい感じのわたしなのでしょう。その場だけでない中身も磨いてゆければいいのだけれども。
新しい場所で、新しい人間関係が始まって、いましばらくはまだ緊張の毎日です。
次の歌会の勉強会で取り上げる歌集を読もうと思って入った図書館でしたが、課題の歌集が置いていなかったので、永田和宏さんの『あの胸が岬のように遠かった―河野裕子との青春―』を読みました。短歌の「か行」の棚にありました。
よく道を聞かれることと愛されることは違って南天の花/塔2023年12月号
先日は祖母の一周忌法要でした。祖母がいないことも、祖母のいない世が一年過ぎたということがまだ信じられない。どうにかこうにか生きてきました。
お寺は近所で、家族や近しい親族、本家、分家仲間のこじんまりとした法要です。子供の頃は素直に信じてきた仏教の儀式も、死後に仏様になるというおっさまのお話も、今はなんだかファンタジーのように感じます。深く理解はできなくとも、しきたりとして続けてゆくことが大切なのかもしれません。とはいってもわたしの代にもこうしたことがなされるのかどうか。
ご詠歌の追弔和讃の譜面を渡されて、節回しは全然わからないのだけれど、こんなところにも五七五七七の韻律が馴染んでいるのだなあとしみじみ思いました。
法要の後に、叔母と歩いて紅花資料館に行きました。豪商だった堀米四郎兵衛の屋敷跡で、紅花商の資料や昔の生活道具が興味深いです。特にわたしが好きなのは紅花染めのお着物の展示。鮮やかな紅色のものや、鶴や松などの豪華な刺繍が施されているものなど、うっとりします。
企画展示室では武者人形展をやっていました。豊臣秀吉や加藤清正、牛若丸と弁慶、神功皇后と竹内宿禰などがモチーフとして好まれていたのは江戸時代から戦前までなのでしょうか、現在のほぼ金太郎一強への変換が気になります。立派な人形をいくつも観ながら、人形に託されるお祝いの心や、健やかな成長への祈りが胸に沁みてきました。思えばわたしが生まれた折にも七段ものお雛様やいくつかの日本人形を親類から贈っていただいていたのに、健やかに育たずこんな仕上がりなので、なんだか申し訳なくて心ぐるしい。
併設の物産館で、紅花染めの詰め合わせを買いました。ストールやハンカチ、手提げ袋やチャームなど。とてもすてきです。きょうだいらしき小さい子が二人、お堀の鯉にあげるえさを買っていました。叔母と紅花茶を飲みながら、わたしが父方の祖父母に贈られてその後いとこも着た七五三の着物を、今さらわたしに返されても着せるあてがないので、いとこに娘が生まれたら着せてはどうかなど、いろんな話をしました。
晩春の山形はさくらんぼの花が満開でした。桜の花でお花見はするのに、さくらんぼの花の下にシートを敷いて愛でたりしないのがなんだか不思議なくらいの花盛りです。蜜蜂が花と花との間を飛び交っていました。犬の散歩に農道へ出れば、地域のお年寄りが畑仕事に勤しんでいる姿が見えました。挨拶をしたところ、「お姉ちゃんに散歩してもらってよがったねぇ」と犬が労わられていました。
葬式の間を放っておかれたる山に蕨のひらきゆきたり 「斎藤茂吉記念歌集第五十集」
お寺は近所で、家族や近しい親族、本家、分家仲間のこじんまりとした法要です。子供の頃は素直に信じてきた仏教の儀式も、死後に仏様になるというおっさまのお話も、今はなんだかファンタジーのように感じます。深く理解はできなくとも、しきたりとして続けてゆくことが大切なのかもしれません。とはいってもわたしの代にもこうしたことがなされるのかどうか。
ご詠歌の追弔和讃の譜面を渡されて、節回しは全然わからないのだけれど、こんなところにも五七五七七の韻律が馴染んでいるのだなあとしみじみ思いました。
法要の後に、叔母と歩いて紅花資料館に行きました。豪商だった堀米四郎兵衛の屋敷跡で、紅花商の資料や昔の生活道具が興味深いです。特にわたしが好きなのは紅花染めのお着物の展示。鮮やかな紅色のものや、鶴や松などの豪華な刺繍が施されているものなど、うっとりします。
企画展示室では武者人形展をやっていました。豊臣秀吉や加藤清正、牛若丸と弁慶、神功皇后と竹内宿禰などがモチーフとして好まれていたのは江戸時代から戦前までなのでしょうか、現在のほぼ金太郎一強への変換が気になります。立派な人形をいくつも観ながら、人形に託されるお祝いの心や、健やかな成長への祈りが胸に沁みてきました。思えばわたしが生まれた折にも七段ものお雛様やいくつかの日本人形を親類から贈っていただいていたのに、健やかに育たずこんな仕上がりなので、なんだか申し訳なくて心ぐるしい。
併設の物産館で、紅花染めの詰め合わせを買いました。ストールやハンカチ、手提げ袋やチャームなど。とてもすてきです。きょうだいらしき小さい子が二人、お堀の鯉にあげるえさを買っていました。叔母と紅花茶を飲みながら、わたしが父方の祖父母に贈られてその後いとこも着た七五三の着物を、今さらわたしに返されても着せるあてがないので、いとこに娘が生まれたら着せてはどうかなど、いろんな話をしました。
晩春の山形はさくらんぼの花が満開でした。桜の花でお花見はするのに、さくらんぼの花の下にシートを敷いて愛でたりしないのがなんだか不思議なくらいの花盛りです。蜜蜂が花と花との間を飛び交っていました。犬の散歩に農道へ出れば、地域のお年寄りが畑仕事に勤しんでいる姿が見えました。挨拶をしたところ、「お姉ちゃんに散歩してもらってよがったねぇ」と犬が労わられていました。
葬式の間を放っておかれたる山に蕨のひらきゆきたり 「斎藤茂吉記念歌集第五十集」
このところずっと通勤ラッシュを外した時間帯での勤務がほとんどなのですが、先日はたまの早番で久しぶりに満員電車に乗りました。
いつもは、立っていても本を読めるぐらいのゆとりはあるのに、さすがにぎゅうぎゅう詰めの中では両手を下に降ろさないと乗れません。A4サイズ対応の肩掛けのバッグを降ろして、持ち手を両手で持っていると、手の甲が前の人のお尻あたりに触れてしまうんじゃないかひやひやします。
「痴漢に間違われないように電車の中ではスマホを見るようにしている」と、後ろの方から男性同士の会話が聴こえました。満員電車の中でも必死に腕を上げてスマホを見ている人を、通勤のちょっとした時間くらい我慢できないなんてどんだけスマホ依存なのよと、今までは冷めた目で見ていましたが、痴漢冤罪対策でもあったのか。目からうろこが落ちたところで、斜め前でスマホを見ている男性のつき出した肘が、わたしの胸に当っているのでした。
胸、といっても薄着の夏ならともかくまだ上着を着ていて、たまたま胸の位置なだけで別に肉の感触が伝わってはいないでしょうし、スマホを見るふりして肘で痴漢してやろうなどというつもりでもないでしょう。ま、若くもない豊満でもないわたしの体。たいした価値があるわけでもない。どうでもいい。
どうでもいい、なんてことはないのか。
十数年前の20代の頃のこと、葬儀で帰省した山形から仙台へ戻る電車で、わたしはボックス席の車両の端っこの、半ボックス席の窓側に座っていました。隣に、中年男性が座ってきて、コートを脱ぎだしました。それから、なにか様子が変だなと思って、気のせいではないとわかって、でも「やめてください!」などと叫んだら何かもっとひどいことをされるんじゃないかって怖くて声も出なくて、せめてもの抵抗としてわたしは持っていたバッグを相手にぎゅうぎゅう押しつけたのですが全然効かなくて、わたしは窓側にいて逃げられず、一時間ほどの乗車時間の間、電車の壁に体を張り付けてただただ耐えることしかできませんでした。
駅について電車を降りてわーっと自宅に帰って、電話で母に電車での中のことを泣きつきました。母は、あっそ、とか、ふーん、といった感じで、無関心でした。え、それだけ?と、感じました。自分ではひどいことをされたと感じていたのに、まるでなんでもないようにあしらわれました。
その後、自分でもあんなことはなんでもないことだと思おうとしたのか、「すっごい気持ち悪かった~」と友達に笑いながら話したこともあります。あんなに泣きそうなくらいの、恐怖の出来事だったのに。
あの時、母に慰めてもらったり、一緒に悲しんでもらえたり、相手を怒ってもらえたりしていたら、なにか変わっていただろうかと、数年経ってから考えるようになりました。自分をもっと大切にできて、誰かに自分を大切にされることも素直に受け入れることができて、自分の人生も変わっていたんじゃないか、なんて今でも時々思い巡らせてしまって、いい年していつまでも引きずってんじゃないよ、なんでも親のせいにするんじゃないよ、もう自分の責任だよ、ってもう考えても仕方なくて、せめてこの先は自分で自分が手ひどく扱われた時にそれを当たり前だと受け入れないように、自分を大切に生きてゆければいいのかなあと、春は残業せずに過ごしているのでした。
一人ずつ痴漢に遭ったことあるか聞いてわたしを飛ばす女子会
いつもは、立っていても本を読めるぐらいのゆとりはあるのに、さすがにぎゅうぎゅう詰めの中では両手を下に降ろさないと乗れません。A4サイズ対応の肩掛けのバッグを降ろして、持ち手を両手で持っていると、手の甲が前の人のお尻あたりに触れてしまうんじゃないかひやひやします。
「痴漢に間違われないように電車の中ではスマホを見るようにしている」と、後ろの方から男性同士の会話が聴こえました。満員電車の中でも必死に腕を上げてスマホを見ている人を、通勤のちょっとした時間くらい我慢できないなんてどんだけスマホ依存なのよと、今までは冷めた目で見ていましたが、痴漢冤罪対策でもあったのか。目からうろこが落ちたところで、斜め前でスマホを見ている男性のつき出した肘が、わたしの胸に当っているのでした。
胸、といっても薄着の夏ならともかくまだ上着を着ていて、たまたま胸の位置なだけで別に肉の感触が伝わってはいないでしょうし、スマホを見るふりして肘で痴漢してやろうなどというつもりでもないでしょう。ま、若くもない豊満でもないわたしの体。たいした価値があるわけでもない。どうでもいい。
どうでもいい、なんてことはないのか。
十数年前の20代の頃のこと、葬儀で帰省した山形から仙台へ戻る電車で、わたしはボックス席の車両の端っこの、半ボックス席の窓側に座っていました。隣に、中年男性が座ってきて、コートを脱ぎだしました。それから、なにか様子が変だなと思って、気のせいではないとわかって、でも「やめてください!」などと叫んだら何かもっとひどいことをされるんじゃないかって怖くて声も出なくて、せめてもの抵抗としてわたしは持っていたバッグを相手にぎゅうぎゅう押しつけたのですが全然効かなくて、わたしは窓側にいて逃げられず、一時間ほどの乗車時間の間、電車の壁に体を張り付けてただただ耐えることしかできませんでした。
駅について電車を降りてわーっと自宅に帰って、電話で母に電車での中のことを泣きつきました。母は、あっそ、とか、ふーん、といった感じで、無関心でした。え、それだけ?と、感じました。自分ではひどいことをされたと感じていたのに、まるでなんでもないようにあしらわれました。
その後、自分でもあんなことはなんでもないことだと思おうとしたのか、「すっごい気持ち悪かった~」と友達に笑いながら話したこともあります。あんなに泣きそうなくらいの、恐怖の出来事だったのに。
あの時、母に慰めてもらったり、一緒に悲しんでもらえたり、相手を怒ってもらえたりしていたら、なにか変わっていただろうかと、数年経ってから考えるようになりました。自分をもっと大切にできて、誰かに自分を大切にされることも素直に受け入れることができて、自分の人生も変わっていたんじゃないか、なんて今でも時々思い巡らせてしまって、いい年していつまでも引きずってんじゃないよ、なんでも親のせいにするんじゃないよ、もう自分の責任だよ、ってもう考えても仕方なくて、せめてこの先は自分で自分が手ひどく扱われた時にそれを当たり前だと受け入れないように、自分を大切に生きてゆければいいのかなあと、春は残業せずに過ごしているのでした。
一人ずつ痴漢に遭ったことあるか聞いてわたしを飛ばす女子会
ベランダの紫蘇の花が終わったので、紫蘇の実を収穫しました。今年はベランダの工事があって、鉢を一時的に日の当たらない場所に移動したりしたこともあり、菜園は不調で、紫蘇の葉もごわごわした出来でした。それでも自分で食べる分には問題なく、充分に夏の食卓をゆたかにしてくれました、紫蘇の実もボール半分ほど穫れ、塩漬けにしました。薬味や彩りに使うつもりです。
紫蘇の実は、穂先に少し花の残る頃が収穫時です。その前の、満開の頃も可憐でとてもかわいい。けれども、紫蘇の花を花瓶に挿して飾ったり、花束にして人に贈るようなことは、よっぽどないような気がします。少なくとも、わたしはありません。思えば、ナスの紫の花、キャベツの黄色の花、サツマイモのピンクの花なども同じくです。そもそも野菜は、花を摘んだら実が生らなかったり、花が咲く前のところを食べたりします。
花が美しいのは、受粉を手伝ってくれる虫や鳥の目を引くためだといいます。手折って飾るだけの人間には、花はもとからなんにも期待していないでしょう。それでも、咲いたところに居合わせたからにはわたしは愛でたい、と思うのでした。
ブーケには選られぬ白い花がすき掃溜菊に蕎麦や紫蘇など
紫蘇の実は、穂先に少し花の残る頃が収穫時です。その前の、満開の頃も可憐でとてもかわいい。けれども、紫蘇の花を花瓶に挿して飾ったり、花束にして人に贈るようなことは、よっぽどないような気がします。少なくとも、わたしはありません。思えば、ナスの紫の花、キャベツの黄色の花、サツマイモのピンクの花なども同じくです。そもそも野菜は、花を摘んだら実が生らなかったり、花が咲く前のところを食べたりします。
花が美しいのは、受粉を手伝ってくれる虫や鳥の目を引くためだといいます。手折って飾るだけの人間には、花はもとからなんにも期待していないでしょう。それでも、咲いたところに居合わせたからにはわたしは愛でたい、と思うのでした。
ブーケには選られぬ白い花がすき掃溜菊に蕎麦や紫蘇など
祖母の初盆なので、お盆は有休を取って帰省してきました。もういろいろ簡略化されていて普通のお盆と変わらない感じですし、お盆にご先祖様が帰って来るというのもよく考えたらよくわからない理屈でもあるのですが、文化や信仰としては味わい深いものです。
祖母は信心深くて、なにかにつけて「仏様に拝んでだんだ」と言うので、わたしの受験の合格もわたしの運転免許の取得もなんでもかんでも祖母が仏様に拝んだおかげに帰結してしまい、わたしががんばったのにと反発したものでした。
ふと仏壇になにか立てかけてあるのを見つけて、手に取ってみると、それは祖母の実家のお墓の写真でした。なんでそんな写真があるのか母に聞いてみると、知らないけれど祖母が持っていたとのこと。12歳で母に死なれたと、なにかにつけて言っていた祖母。祖母のいう仏様とは、祖母の母のことだったのでしょうか。祖母の実家にはわたしのはとこが二人いましたが、二人ともお嫁に行ってしまい、祖母が拠りどころにしていたかもしれないお墓もこの先どうなるのか。家より個人を尊重する時代になって、お墓の在り方も変わってゆくのかもしれません。
お盆の間は市場が休みで、家族は農作物に追われていました。出荷ができないのに野菜は育ち、育ち過ぎて出荷ができないので、食べたり人にあげたり保存したりそれでも間に合わないものは捨てるしかなかったりで、世の中は物価が上がってくるしんでいるのに、野菜が余って余ってしょうがないという現実もあり、変な感じでした。
農作業の手伝いをわたしもしようかなと思っていたけれども、どうやら間に合っているようだったので、ご飯の支度をしました。ナスは昨日母が漬物にしていたから麻婆茄子にしよう、カボチャは昨日母が煮物にしていたからサラダにしよう、みたいに料理というより夏野菜をいかに消費するかの戦いでした。だしが食卓に並びがちなのも必然です。
祖父のきょうだいの娘さん達が盆礼に来てくれました。わたしにとってはいとこおばに当たる人達ですが、決まった親戚の集まりにくる人ではないし、わたしも20年ほど実家を離れているので会う機会もほとんどなくて、先日の祖母の葬儀でぼんやり認識したぐらいでした。
いとこおば達を車に乗せてきたその息子さんはわたしのはとこということになりますが、存在すら初めて知りました。母方だけでも祖父が7人きょうだい、祖母が5人きょうだいなので、父方の祖父母も併せてそれぞれの枝葉を思えば、わたしの知らないはとこがまだまだたくさんいるのでしょう。この初めて会ったはとこは、高齢のいとこおば一人残して婿に行って名字も変わっているということなので、ますます遠縁になっており、この先も親戚付き合いが続くのかどうか。祖母の初盆で来てくださった方々なのに、祖母とは全く血がつながっていなくて、初対面のわたしとはうっすらつながってる、というのが、当然のことなのに不思議な気がしてきます。3人は祖母の写真などを見てひとしきり談笑した後、ネギや糸カボチャをたくさん持たされて帰ってゆきました。
帰省の最終日の朝に、回覧板がまわってきました。山の方で熊によるスモモの食害跡が発見されたので注意しましょう、と熊の対処法が書いてありました。地図を見ると、「開墾」と呼んでいたうち畑のあたりです。昔は小豆やプルーンを植えていましたが、今はその畑はほとんど何もしておらず、自生したニセアカシアが蔓延っていて少し荒れてしまっています。子供の頃に夏休みに通った野球場も近くにあります。野球だけでなく、キャンプもしたこともありました。テントを張って、ハンモックを釣って、ルールもわからないままドンジャラをやって。今はもうあそこで野球をする子供もいないし、そもそも野球ができるほど子供がいないです。
人が降りて、熊が降りて、今こそ山が自然に返ってゆく途中なのかもしれません。
夏の窓にホップ畑は広がりぬ 親戚もみな高卒なりき 『にず』
祖母は信心深くて、なにかにつけて「仏様に拝んでだんだ」と言うので、わたしの受験の合格もわたしの運転免許の取得もなんでもかんでも祖母が仏様に拝んだおかげに帰結してしまい、わたしががんばったのにと反発したものでした。
ふと仏壇になにか立てかけてあるのを見つけて、手に取ってみると、それは祖母の実家のお墓の写真でした。なんでそんな写真があるのか母に聞いてみると、知らないけれど祖母が持っていたとのこと。12歳で母に死なれたと、なにかにつけて言っていた祖母。祖母のいう仏様とは、祖母の母のことだったのでしょうか。祖母の実家にはわたしのはとこが二人いましたが、二人ともお嫁に行ってしまい、祖母が拠りどころにしていたかもしれないお墓もこの先どうなるのか。家より個人を尊重する時代になって、お墓の在り方も変わってゆくのかもしれません。
お盆の間は市場が休みで、家族は農作物に追われていました。出荷ができないのに野菜は育ち、育ち過ぎて出荷ができないので、食べたり人にあげたり保存したりそれでも間に合わないものは捨てるしかなかったりで、世の中は物価が上がってくるしんでいるのに、野菜が余って余ってしょうがないという現実もあり、変な感じでした。
農作業の手伝いをわたしもしようかなと思っていたけれども、どうやら間に合っているようだったので、ご飯の支度をしました。ナスは昨日母が漬物にしていたから麻婆茄子にしよう、カボチャは昨日母が煮物にしていたからサラダにしよう、みたいに料理というより夏野菜をいかに消費するかの戦いでした。だしが食卓に並びがちなのも必然です。
祖父のきょうだいの娘さん達が盆礼に来てくれました。わたしにとってはいとこおばに当たる人達ですが、決まった親戚の集まりにくる人ではないし、わたしも20年ほど実家を離れているので会う機会もほとんどなくて、先日の祖母の葬儀でぼんやり認識したぐらいでした。
いとこおば達を車に乗せてきたその息子さんはわたしのはとこということになりますが、存在すら初めて知りました。母方だけでも祖父が7人きょうだい、祖母が5人きょうだいなので、父方の祖父母も併せてそれぞれの枝葉を思えば、わたしの知らないはとこがまだまだたくさんいるのでしょう。この初めて会ったはとこは、高齢のいとこおば一人残して婿に行って名字も変わっているということなので、ますます遠縁になっており、この先も親戚付き合いが続くのかどうか。祖母の初盆で来てくださった方々なのに、祖母とは全く血がつながっていなくて、初対面のわたしとはうっすらつながってる、というのが、当然のことなのに不思議な気がしてきます。3人は祖母の写真などを見てひとしきり談笑した後、ネギや糸カボチャをたくさん持たされて帰ってゆきました。
帰省の最終日の朝に、回覧板がまわってきました。山の方で熊によるスモモの食害跡が発見されたので注意しましょう、と熊の対処法が書いてありました。地図を見ると、「開墾」と呼んでいたうち畑のあたりです。昔は小豆やプルーンを植えていましたが、今はその畑はほとんど何もしておらず、自生したニセアカシアが蔓延っていて少し荒れてしまっています。子供の頃に夏休みに通った野球場も近くにあります。野球だけでなく、キャンプもしたこともありました。テントを張って、ハンモックを釣って、ルールもわからないままドンジャラをやって。今はもうあそこで野球をする子供もいないし、そもそも野球ができるほど子供がいないです。
人が降りて、熊が降りて、今こそ山が自然に返ってゆく途中なのかもしれません。
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おとも
性別:
女性
自己紹介:
歌集『にず』(2020年/現代短歌社/本体¥2000)
連絡・問い合わせ:
tomomita★sage.ocn.ne.jp
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